3 夢じゃない
イェーゴーが、眠り始めてしまった少年の汚れた指をナプキンで拭こうとすると、ラットは目を開けて後ずさった。追い詰められた様な顔をして。
「・・・触られるの、好きじゃないんだ」
少年が指を舐っている間、イェーゴーは自己紹介のタイミングを見計らい、ここだと思ったところで、丁寧な動作で腰を折った。
「申し遅れました。私はこの屋敷の執事を務めております。ストライダー・イェーゴーと申します」
金の髪の尾が、お辞儀をした拍子に自分の肩から垂れ下がった。
イェーゴーが体勢を戻すと、少年は少し焦って名を名乗った。
「俺はラット・ブラウン・・・そう呼ばれてる」
ラットはいっぱいになった腹を撫でる。そして、
「さっきの料理、本当に美味しかったよ。ありがとな」
夢であると思っていながら食事への礼は言った。
イェーゴーは一瞬驚いたが、すぐに頬を綻ばせた。良い子だと思った。助けてよかったとも思った。
もう克服できたのだと思い、少年に優しくできたイェーゴーは、本当に心の底から安心した。
ラットはイェーゴーの顔や、見たこともなかった燕尾服をマジマジと見ている。不思議そうに、首まで傾げている。
こんな服、見たこともなかったんだけど、夢の中だからなんでもありなのかな。ラットはまだ呑気にそんなことを思っている。
「ではラット様、今夜はこのままお休みください。明日の朝、お風呂とお着替えを用意しますので」
イェーゴーは笑顔でそう言う。
あ、ここで終わりなのか。
もう一度眠ったら(夢の中で眠ると言うのも不可思議だが)この素敵な夢は終わって、現実に戻ってしまうのだろうな、とラットは感じた。
覚める前に、ラットはイェーゴーに精一杯の礼を伝えようと思った。こんなに人に優しくしてもらったのは初めてだったからだ。
「あの、イェーゴー・・・さん?」
「ストライダーで、構いませんよ」
イェーゴーは、ラットの小さな声をちゃんと聞き取るために、ベッドの横にしゃがみこんで目線を合わせた。
「どうしましたか?」
イェーゴーの瞳が妙にリアルで、濃い金色を宿していたので、ラットは一瞬戸惑った。
「その、俺・・・本当に初めてだったんだ。こんなに美味しいものも、こんなにいい寝床も、あんたみたいに俺に優しくしてくれる人も。ほんとに、あ、ありがとう。最後にこんな良い思いができて良かった」
ラットはイェーゴーの袖を無意識のうちに掴んでいた。言葉を重ねるごとにその力はどんどん強まっていく。
「ご、ごめん」
ラットはイェーゴーから手を離すと、すぐに毛布の中に潜り込んだ。イェーゴーとは反対向きに寝転がった。自分の心臓が緊張してとくとくと音を鳴らしていた。
イェーゴーは何も言わず、ベッドの中で布の擦れる音を聞いていた。彼にはラットの思考がすぐにわかった。
「・・・夢ではありませんよ」
イェーゴーは怯えさせない様にゆっくりとベッドに膝を立てた。
ベッドが悲鳴のようにぎしりと音を立てる。イェーゴーは悲しみと安堵の中間のような笑みをした。頭まですっぽりと毛布にくるまってしまっているラットを、毛布越しにそっと撫でた。ゆっくりと、守るように。
ラットのことがよくわかる。自分も子供の頃。
「眠るのが怖いのですね」
そう囁くと、毛布がピクリと動いた。
イェーゴーは、ラットにできる限りのことをしてあげようと誓った。
「目を閉じると、闇が浮かぶのでしょう。不安と焦りに絡みつかれて、いつの間にか、眠らなければ闇に呑み込まれると思い始める」
ラットの体が震え始めた。
イェーゴーがラットの隣に寝転び、ベッドに肘をついて頭をもたせかける。ラットがくるまっている、毛布に囁きながら、優しく撫でる。
「大丈夫です。私がずっと側にいて、あなたが何にも襲われないように
大丈夫、大丈夫と言い聞かせるように囁き続けると、ゆっくりとラットから緊張が抜けていく。
撫でつけられる感触が、ラットの中の焦りや不安を緩めて消し去っていく。魔法のように。
イェーゴーの手が、毛布の中に入ってくる。それは迷うことなくラットの震える掌を包み込む。じわりとあたたかくなる。
気づくとラットはぎゅうっと目を瞑っていた。
今まで自分が一番必要としていたものが、こんなところで与えられるなんて想像もしていなかった。
ラットが瀕死の状態になって尚、最も欲していたのは食料ではない。寝る場所でもない。
それは、愛だった。
愛とは、恐ろしい夜に誰かが隣にいて手を握ってくれることだ。
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