濁黒

小狸

濁世

 ――嗚呼ああ、狂ってしまいたい。

 実にそう思う。

 狂って、正気を捨ててしまえればどれだけ楽だろう。

 もう、何も気に掛ける必要は無い。

 他者から向けられる侮蔑の視線も、己から他者へ向ける劣等感に嘆くことも、永劫えいごう無くなるのだ。

 狂うというのは、己の型を見失うことと同義だと考えている。

 自己と他己の境界線が曖昧になり、無意識下で人が敷いているそれを易々と踏み越え、全ての倫理観と道徳観と――普通という枠組みの中から解放されるのである。

 無論、人を捨てるなどという荒唐こうとうけいな夢物語では無い。

 人は人を捨てることは出来ない。

 肉体を改造し解体し、別の身体に作り替えたところで、然しそれは人でしかない。

 

 れは常識であり、其れは普通であり、其れは一般である。

 世間一般に膾炙かいしゃしている「当然」こそが、人の正体である。

 幼子の頃は、ゆえに人とは言えぬ。赤子の頃などそれと同様である。

 常識を知らぬからである。

 幼子は生きてゆく上で、多くの箴言しんげんが投げかけられる。

 教育と断じて、人と成る為の方法論を会得してゆく。

 あるいは家族と称して、集団生活の上での「当然」を知る。

 暗黙の了解とでもおうか。

 例えるなられは、二十代を過ぎた人間が「何故なぜ人は人を殺してはいけないのか」等と本気で疑問に思わず、加えて「人を殺してはいけない理由が分からぬ」故に行動に移さない事と同一の平面上にある事象である。

 其れは、いつの間にか会得されている物である。

 一朝一夕に、小説や学術書を耽読たんどくする事にって得られる知識等とは、全く別の次元に位置している。

 生活と共に、「人らしさ」を既に会得し尽くした「人」と共に過ごしてゆくことで、それはわずかずつ蓄積されていく。

 時にその「人」は親で在り、親戚で在り、教師で在り、友人で在り、何より大人である。

 何時いつからかと問われても、何とも返せぬ。

 ただ――分からぬ。

 常識という物が何で、普通とは何で、一般とは何で。

 そして当然とは何なのか。

 尋常小学校に入る少し前の時分から、「人」とは少し歪曲わいきょくして居ると、無意識下に覚えていた。己が間違えていると云う自覚があった。

 其処そこから此処ここまで、ずっと。

 何故叱られると泣くのだろう。怖いからだろうか。怖い時は、涙を流すべきなのだろうか。

 何故叩かれると恐れるのだろう。痛いからだろうか。痛い時は、恐れるべきなのだろうか。 

 何故たわむれると笑うのだろう。面白いからだろうか。面白い時は、笑うべきなのだろうか。

何故食べ物を食べるのだろう。腹が減るからだろうか。腹が減ると食べ物を食べるべきなのだろうか。

 何故褒められると笑うのだろう。嬉しいからだろうか。褒められた時は、笑うべきなのだろうか。

 何故人は生きているのだろう。死にたくないからだろうか。死にたくないと生きるべきなのだろうか。

 其れだけに留まらぬ。

 文字数に制約のあるここには到底収まらない。

 今に至るまで、膨大な「何故」が襲ってきていた。

 否。

 其れ自体は努力すれば埋没させる事の出来る程度の差異であった。

 さいし差異は、何時の間にか取り返しも付かぬ程に広がってしまった。

 大病を患い、二月程尋常学校を欠席してしまったのである。

 両親は大層心配していた。

 当時は、何故両親が心配しているのか、悲しいということは何か、如何どう云う時に悲しいと思うべきなのか、こんな時に如何いった表情をするべきなのか、など、そのような些細ささいなことに全ての神経を集中させていた。いまだ其の時には、両親に己の本性――というか、遅れを認識されることが、たまらなくいやだったのである。

 幸か不幸か、治療の甲斐もあり、二月の後に久方ぶりとなる学校へ登校した。級友や担任も、幾人いくにんか文を書いてくれていたやうであった。

 ただし、其れは其れというのみで、心中は屹然としていたやうに思う。

 違う――のである。此の感覚を的確に表現することは非常に難しい。

 明白であった。たった二月の空白で、既に他の同学の者達と、如何しようも無い程の差異が、生じてしまっていたのである。

 無論勉学ではない。そんなものは一月努力すれば追い着くことが出来よう。

 ただ――「当然」はそうではない。一夜二夜の戮力りくりょくで固着するものでは毛頭無い。二月分の「当然」は、人間を人間たらしめる為の成分は、遅れてしまっていたのである。

 畏怖いふしていた様に思う。如何すれば良いのだ、人の振りをして、人の真似をして、己をじ曲げて生存していることが露呈してしまう。そうなれば此の集団には、存在し続ける事が出来なくなってしまう。

 実際、何か明確な差異は無くとも、自らの歪曲を自覚する場面は、幾度となく有った。

 必死であった。二月分の遅れを取り戻そうと、躍起やっきになった。得られていない法則性を、常識を、一般を、方程式を、全て脳内に、無理矢理刻み込んだ。

 そうして、無理矢理完成させられた結果、途轍とてつもなく歪なものと成ってしまった。

 否、成り果ててしまった。

 少なくとも日常的に、「人間的」な生活を送ることは不可能では無かった。縦しんば肉体的に精神的に限界が来ようとも、その「人間的」を捨てずに、そのまま生存できるようにあいった。この場合は、成ってしまった、だろうか。身に付けていた筈の「普通」「当然」「一般」「当たり前」という仮面は、既に顔面の皮膚へとちゃくし、剥がしきれない程に密着し、既に自身のそれへと変容していたのである。

 こうして。

 何でもない、どうでもいい、どこにでもいる人間が出来上がった。

 出来上がった――とは言い条、然し、出来損ないも甚だしい。全てをないぜに均一化し同一化し、周囲から浮くことを防ぐ自分は確かに一般人なのだろうが、それ以上のものがなかった。

 将又はたまたそれ以下もなかった。

 そして大人になり、職に就き、妻をめとった。過去を知る者からすれば驚愕なのであろうが、恋愛結婚であった。職場の縁で知り合った女性と結婚することとなった。一体このようなどうでもいい者の何処どこに惚れたのだろうなどと思ったけれど――その際のやり取りも、全て「普通」という仮面に組み込まれていたように思う。

 そしてしばらくが過ぎた――る休日の事である。

 妻と二人で住んでいる家には、書斎がある。

 書斎とは名ばかりの、机と寝床のみが陳列された殺風景な部屋であった。

 元来掃除が余り得意ではないために物を置かず、妻の几帳面な性格も相まって、その場所は大抵静謐せいひつに、何と云うか、整っていた。

 散歩から帰ってきて――書斎に入り、本でも読もうかと、棚に手を取ろうとしたその時に。

 かさり。

 何か音がして、目を向けると、其処には。


 た。


 八本足の、まん荼羅だらの如き柄を背負った、禍々まがまがしく、そして小さな蜘蛛くもであった。

 一体何処から入り込んだのだろう、

 部屋の畳の上に、それはぽつんと居て、じっとしていた。

 昆虫は嫌いという訳ではない。

 むしろ蜘蛛は益虫である。

 とんとんと、近くの畳を叩いて、蜘蛛にそこから退いてもらおうと試みた。

 動く気配すら見えなかった。

 微塵も、空気が揺らいでいない。

 しや死んでいるのではないかと思ったけれど、僅かに四肢が動いていた。  

 いや、蜘蛛なので八肢だろうか。

 はて、如何しようか、と悩み、再びその蜘蛛を見た時。

 

 果たしてそれは、正しい表現なのだろうか。いささかか奇妙な話である。

 人は暫し、視線に意味を見出す傾向がある。

 嫌悪や侮蔑、尊敬や好意――それは眼球と瞳孔と、眉の動きに依って相手にでんされる。

 私は、はっきりと、眼が合ったように感じたのである。

 蜘蛛には、八の目が或る。大きさは疎らではあるものの、左右対称に付いているそれが、こちらを見た。

 否。

 その時に瞳孔が脳裏に焼き付けていたのは、蜘蛛の姿ではなく。

 

 可笑おかしな話である。

 蜘蛛を見ているはずが、その視線を感じ、まさか其処から自分自身を見つけるとは。

 しかし――映っていた己への視線には、ある一つの感情を受け取った。

 きっとそれは、蜘蛛からの視線だったのだろう。

 あわれみ。

 己を殺し、己を滅し、周囲に同調し、周囲に頭を下げ、馬鹿のように笑われ、それでもなお、普通で在ろうとする。

 それは、他人と何が違うのだ。

 違う――お前は怖いのだ。

 人とズレ、間違え、そして独りになることが、怖いのだ。

 かわいそうに。

「こ―――」

 

 そんな言葉が口から出た。

 今迄つゆほども、そのような下品な言葉を口にしたことなど無かった。

 思った時には、すでに行動していた。

 動かぬ蜘蛛を、足で踏み潰した。

 靴下を履いていたから、つまびらかな感触までは定かではないけれど、最期の瞬間に、少しだけ動くような素振りがあった、其れだけであった。

 ごそりと動いた。ほんの一瞬躊躇とまどったが、足の方は、そんな躊躇をものともせずに振り下ろし、蜘蛛を潰した。

 そして――見えていた視界も、上から潰れた。

 蜘蛛は足の力によって圧迫され、即座に暗転し、メリメリという音を立てて、痛みを感じる間もなく、平面になった。

 腹から飛び出た内臓は畳の隙間に潜り込み。

 それはべっとりとして、靴下の裏にくっついていた。

「あああああああああああああああああああああ!!」

 幾度となく、蜘蛛の残骸を踏み付けた。

 何度も、何度も、何度もである。

 人間ならば死体損壊の罪に問われるところだが、虫畜生にそのような法律は適用されぬ。

 既に一度目で確実に、畜生たる蜘蛛は死亡している。

 何か許せなかった。

 何が許せなかったのだろう。

 わからぬ。

 死んで、残って、この世をけがしている蜘蛛が、許せなかったのだろうか。

 それとも、己自身を許せなかったのだろうか。

 解らぬまま、衝動に任せて、踏み続けた。

「どうかしたのですか」

 その地団駄を止めたのは、妻であった。

 狼狽ろうばいする声を聞き及んだのだろう。

 何時の間にか背後にいた。

 いやなに――蜘蛛を踏んでしまってね、吃驚びっくりしてしまったのだ。驚かせてしまって済まない。当たり障りのない言葉を選び、放つと、妻は安心したらしかった。

「あら、三郎さぶろうさんたら、見かけによらず小心なのねえ」

 等と笑う始末であった。

 笑われても厭な気分はしなかった。かく今は、己から溢れ出た狂気を抑えることに、必死であった。

 じゃあ雑巾を持って来ますねと――妻は、台所の方へと言った。

 その頃には大分精神状態も落ち着いた。

 然しこの靴下は捨てねばなるまい。

 それを脱ぎ、裏返しにして置いておいた。

 後で直接、裏口の塵箱に捨て置くとしよう。

 死骸など見たくはない。

 心を置いて考えてみれば、只蜘蛛に驚いて踏み潰してしまったという、それのみなのである。

 何も恐怖することも、狂気に覚えることなどないのだ。

 安心して――この場合は油断して、床の染みを見た。

 元々身体だったものの残骸が無造作に散らばっていて、其処に蜘蛛の体液が――恐らくそれを吸った畳の影響だろう。奇妙な模様を形成していた。

 まるで、人間の顔のような。

 

 

 顔は、ぐちゃあと笑って、こう言った。

「この化物め」



 こうして私は、人間であることを辞めた。


(了)

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