濁黒
小狸
濁世
――
実にそう思う。
狂って、正気を捨ててしまえればどれだけ楽だろう。
もう、何も気に掛ける必要は無い。
他者から向けられる侮蔑の視線も、己から他者へ向ける劣等感に嘆くことも、
狂うというのは、己の型を見失うことと同義だと考えている。
自己と他己の境界線が曖昧になり、無意識下で人が敷いているそれを易々と踏み越え、全ての倫理観と道徳観と――普通という枠組みの中から解放されるのである。
無論、人を捨てるなどという
人は人を捨てることは出来ない。
肉体を改造し解体し、別の身体に作り替えたところで、然しそれは人でしかない。
されば、人を人たらしめているものは何か。
世間一般に
幼子の頃は、
常識を知らぬからである。
幼子は生きてゆく上で、多くの
教育と断じて、人と成る為の方法論を会得してゆく。
暗黙の了解とでも
例えるなら
其れは、いつの間にか会得されている物である。
一朝一夕に、小説や学術書を
生活と共に、「人らしさ」を既に会得し尽くした「人」と共に過ごしてゆくことで、それは
時にその「人」は親で在り、親戚で在り、教師で在り、友人で在り、何より大人である。
常識という物が何で、普通とは何で、一般とは何で。
そして当然とは何なのか。
尋常小学校に入る少し前の時分から、「人」とは少し
何故叱られると泣くのだろう。怖いからだろうか。怖い時は、涙を流すべきなのだろうか。
何故叩かれると恐れるのだろう。痛いからだろうか。痛い時は、恐れるべきなのだろうか。
何故
何故食べ物を食べるのだろう。腹が減るからだろうか。腹が減ると食べ物を食べるべきなのだろうか。
何故褒められると笑うのだろう。嬉しいからだろうか。褒められた時は、笑うべきなのだろうか。
何故人は生きているのだろう。死にたくないからだろうか。死にたくないと生きるべきなのだろうか。
其れだけに留まらぬ。
文字数に制約のあるここには到底収まらない。
今に至る
否。
其れ自体は努力すれば埋没させる事の出来る程度の差異であった。
大病を患い、二月程尋常学校を欠席してしまったのである。
両親は大層心配していた。
当時は、何故両親が心配しているのか、悲しいということは何か、
幸か不幸か、治療の甲斐もあり、二月の後に久方ぶりとなる学校へ登校した。級友や担任も、
違う――のである。此の感覚を的確に表現することは非常に難しい。
明白であった。たった二月の空白で、既に他の同学の者達と、如何しようも無い程の差異が、生じてしまっていたのである。
無論勉学ではない。そんなものは一月努力すれば追い着くことが出来よう。
ただ――「当然」はそうではない。一夜二夜の
実際、何か明確な差異は無くとも、自らの歪曲を自覚する場面は、幾度となく有った。
必死であった。二月分の遅れを取り戻そうと、
そうして、無理矢理完成させられた結果、
否、成り果ててしまった。
少なくとも日常的に、「人間的」な生活を送ることは不可能では無かった。縦しんば肉体的に精神的に限界が来ようとも、その「人間的」を捨てずに、そのまま生存できるように
こうして。
何でもない、どうでもいい、どこにでもいる人間が出来上がった。
出来上がった――とは言い条、然し、出来損ないも甚だしい。全てを
そして大人になり、職に就き、妻を
そして
妻と二人で住んでいる家には、書斎がある。
書斎とは名ばかりの、机と寝床のみが陳列された殺風景な部屋であった。
元来掃除が余り得意ではないために物を置かず、妻の几帳面な性格も相まって、その場所は大抵
散歩から帰ってきて――書斎に入り、本でも読もうかと、棚に手を取ろうとしたその時に。
かさり。
何か音がして、目を向けると、其処には。
八本足の、
一体何処から入り込んだのだろう、
部屋の畳の上に、それはぽつんと居て、じっとしていた。
昆虫は嫌いという訳ではない。
とんとんと、近くの畳を叩いて、蜘蛛にそこから
動く気配すら見えなかった。
微塵も、空気が揺らいでいない。
いや、蜘蛛なので八肢だろうか。
はて、如何しようか、と悩み、再びその蜘蛛を見た時。
眼が、合った。
果たしてそれは、正しい表現なのだろうか。
人は暫し、視線に意味を見出す傾向がある。
嫌悪や侮蔑、尊敬や好意――それは眼球と瞳孔と、眉の動きに依って相手に
私は、はっきりと、眼が合ったように感じたのである。
蜘蛛には、八の目が或る。大きさは疎らではあるものの、左右対称に付いているそれが、こちらを見た。
否。
その時に瞳孔が脳裏に焼き付けていたのは、蜘蛛の姿ではなく。
蜘蛛の瞳に映った、私自身であった。
蜘蛛を見ている
しかし――映っていた己への視線には、ある一つの感情を受け取った。
きっとそれは、蜘蛛からの視線だったのだろう。
己を殺し、己を滅し、周囲に同調し、周囲に頭を下げ、馬鹿のように笑われ、それでもなお、普通で在ろうとする。
それは、他人と何が違うのだ。
違う――お前は怖いのだ。
人とズレ、間違え、そして独りになることが、怖いのだ。
かわいそうに。
「こ―――」
この畜生が。
そんな言葉が口から出た。
今迄つゆほども、そのような下品な言葉を口にしたこと
思った時には、
動かぬ蜘蛛を、足で踏み潰した。
靴下を履いていたから、
ごそりと動いた。ほんの一瞬
そして――見えていた視界も、上から潰れた。
蜘蛛は足の力によって圧迫され、即座に暗転し、メリメリという音を立てて、痛みを感じる間もなく、平面になった。
腹から飛び出た内臓は畳の隙間に潜り込み。
それはべっとりとして、靴下の裏にくっついていた。
「あああああああああああああああああああああ!!」
幾度となく、蜘蛛の残骸を踏み付けた。
何度も、何度も、何度もである。
人間ならば死体損壊の罪に問われるところだが、虫畜生にそのような法律は適用されぬ。
既に一度目で確実に、畜生たる蜘蛛は死亡している。
何か許せなかった。
何が許せなかったのだろう。
死んで、残って、この世を
それとも、己自身を許せなかったのだろうか。
解らぬまま、衝動に任せて、踏み続けた。
「どうかしたのですか」
その地団駄を止めたのは、妻であった。
何時の間にか背後にいた。
いやなに――蜘蛛を踏んでしまってね、
「あら、
等と笑う始末であった。
笑われても厭な気分はしなかった。
じゃあ雑巾を持って来ますねと――妻は、台所の方へと言った。
その頃には大分精神状態も落ち着いた。
然しこの靴下は捨てねばなるまい。
それを脱ぎ、裏返しにして置いておいた。
後で直接、裏口の塵箱に捨て置くとしよう。
死骸など見たくはない。
心を置いて考えてみれば、只蜘蛛に驚いて踏み潰してしまったという、それのみなのである。
何も恐怖することも、狂気に覚えることなどないのだ。
安心して――この場合は油断して、床の染みを見た。
元々身体だったものの残骸が無造作に散らばっていて、其処に蜘蛛の体液が――恐らくそれを吸った畳の影響だろう。奇妙な模様を形成していた。
まるで、人間の顔のような。
否。
これは私の、顔だ。
顔は、ぐちゃあと笑って、こう言った。
「この化物め」
こうして私は、人間であることを辞めた。
(了)
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