第28話 深海だって世界
ここに来てどれくらいの時間が経過しただろう。
手を目の前に翳したって見えやしないくらい暗い深海の、自分の鼓動ばかりが煩く鳴り響いて他の音は一切ない深海の、時間の進み方は恐らく他のどことも異なっているのだろう。
近くに蠢く生き物の気配は感じるけれど、「見えなければないものと同じ」と言ったのはかつての友人だった。
あの友人は今頃どこで何をしているのだろう。私は深海で元気にやっているよ。
ここに来たての頃を思い出す。
暗さと冷たさと孤独に怯えて、1人で世界の全部の闇を背負った気になって、もう先なんてないんだと思っていたあの時。
ゆるく明滅を繰り返しながら一匹のクラゲが目の前を横切った。深海ではその明るさすら眩しく、思わず目を細めて観察した。
クラゲはゆったりと漂いながら、こちらを気にもかけず、ただゆらゆらと揺れながら泳いでいく。
後には目に残る微かな光の残滓を漂わせ、まるで目的地があるかのように、一方向へとゆっくりゆっくり泳いでいく。
私は思わず呼びかけた。
「クラゲさん、あなたは何処へ行くの?」
口から溢れた声は、大きな泡となってぼこぼこ鳴った。
「私のいるべきところへ」
クラゲは光をちかちかさせながら答えた。
クラゲのいなくなった深海は、再び闇が広がるけれど、私の頭の中は考え事でいっぱいだった。“私の”いるべきところはどこだろう?
それからまた時間がたぶん経って、“たぶん”というのは自分の感覚に自信をもてないからだ。水はどこまでも冷たく、触れている肌を粟立てる。
水の中に長くいると、肌と水の境目が曖昧になっていく気がする。それは自分の内側と外側が曖昧になるということであり、自分と自分以外が曖昧になるということである。
ここに来るまでは、私は私だと思って疑ったことなど一度もなかった。だから、他者との触れ合いで自分を確かめ、相手を傷つけた。
そんなこともここにいればどうとでもよくなる。もっと考えるべきことは沢山あって、やるべきことは内側から溢れてくる。
そんな折、一匹のタツノオトシゴが不思議に発光しながら目の前を横切った。くるりと丸まった尻尾を器用に動かし、わずかに上下しながら一方向へと泳いでいく。
私は再び訪ねた。
「タツノオトシゴさん、あなたは何処から来たの?」一際大きな泡が、迷うことなく海面を目指して立ち上っていった。
「私がいるべきだったところから」
タツノオトシゴはふよふよしながら答えた。
私はタツノオトシゴがいた場所を思い遣り、そこを離れるきっかけを夢想した。
“私が”いた場所は、胸を張って「いるべきだったところ」と言えるだろうか?
もう長いことここにいた気がする。
色々と考えるうちに、何を考えていたかも忘れてしまった。暗黒は人の思考をかき乱す。
もう私は私でない存在だったし、私と呼ぶべきものはどこにもなかった。一が全に溶け込んで、何もしなくていい、何も考えなくていい、そんな状態は心地よかった。
本当によかったのか?
自分は自分じゃなかったか?
まあいいや、目を閉じよう。
いやまだだめだ?
まだ私が何かどこからきてどこへいくのかわかってない?
もうわからなくたっていいんじゃない。
いや?
でも?
?
物凄い速さで水を切り裂き、近づいてくる一匹の龍は、その身体を蒼い鱗に覆われて目はぎらぎらと光っている。
暗闇の重さも、辛さも、静けさも。ものともせずに近づいてきた龍は私の前でふと止まった。
「龍さん、あなたはなに?」
「私は私だ。そして、お前はお前だ」
龍の広く冷たい背中にしがみついて、私は深海を進む。肌が切れるほどのスピードはたしかに恐ろしかったけれど、その背中から伝わるたしかな暖かさは、私を私たらしめた。
周囲がじんわりと明るくなる。
久しぶりに機能する私の目はまだまだ上手く世界を捉えられないけれど、いつかきっとこれが“私だ”と言える世界を見つけるのだろう。
自信はないけど、私には暗黒の世界がついている。みんな自分の人生を生きている。そのことを知っている私は、たぶん、他の誰よりも強いだろう。
最後の一息で龍は海面を飛び出し、陽光降り注ぐ新たな世界へと私は飛び出した。
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