【平和ノ晩鐘】 Destiny of Bliss

暁月輝路

Lost Dream

プロローグ「2の名」

 蒼い月。

それは、珍しく稀な満月。

そんな月が昇る日に生まれた新生。






 ───On your marks。


 スピーカー越しに伝わる『位置について』の意味を司る宣告。

その宣告に競技場内のあらゆる音が消える。

騒めきも、物音も、見ている者の呼吸さえも、歩みを止めてさえ、その静寂を見守る。

 そんな中で、彼等だけは動く事を許される。

止まった時の中で、彼等だけがその宣告に従う。

騒々しい音は無い。

赤いタータンの上に置かれた、踏切板スターティングブロックの前で、各々の世界を創り出す。

彼らの領域に踏み込むものは誰一人居ない。

精神統一、無我の境地に彼らは居る。

踏切板につま先を預ける。

全員が僅かな誤差で視線と顔を下に向ける。

彼らの目には、ただ赤いタータンと白い線、自身の手のみが映る。

それが暗黙の了解の如く、彼らは、自身で最後の呼吸を行った。

彼らが聴くのは、己の鼓動の音、微かな風の音。

世界はもはや無の世界に等しい。

 しかし、彼らが待つのはその音では無い。



 ────set。



 下される再度の合図。

待ち望んだ長い一瞬。

もう戻ることは許されない。

 けれども、この無を打ち破る為にこの合図はある。

腰を上げ、踏切板に足裏をしっかりと預ける。

それは誰よりも前へ進み、誰よりも早く前へ出て、誰よりも早くゴールに向かう。

 ただ、それだけの事に、自身の力を全てを賭ける。



 パァン!



 2秒もしないうちに、号砲と共に全ての音は解き放たれた。

観客席からも、同時に各校が一斉に叫ぶ。

止まった時が動き出し、ほんの数秒の出来事に、溜めたものを全て吐き出さんとばかりに、声に力が宿る。

その声が届く先には、待ち構えていた彼らが我先にと目先のゴールを目指す。

 先程の静けさは何処へやら。

 腕を振り、脚を上げ、地面からの反発を上手く使い、前へ前へと進む。

観客席の声は一切聞こえない。

ノイズと同じように、聞き取れやしない。

 ただ、風を切る音と自身が叩き出す僅かな足音しか聞こえない。

信じるのは自分と自身の脚と経験。

速さの究極を追求した世界。

たった0.1秒の差、更に言えば0.01秒の差で勝負が決まる。

 それが陸上競技における100mの世界。

たった100mの間の0.何秒という世界を縮める為に、何年も努力と苦悩を経験する。

数多の選手の中で特に、速く、選ばれた者のみが集う。

 けれども。

その過程を無に帰そうとしてくる者がいた。

観客席の歓声は不穏なものに切り替わる。

誰もが彼の走りに目と言葉を奪われる。

目に見えて、離れている1位と2位。

2位の彼は他と接戦を繰り広げている。

 でも、1位の背中は遠く離れている。

その1位の彼は、誰よりも早くゴールに至る。

観客席や審判達も思わず、声を上げ、どよめく。

それは驚きと恐怖。

ゴール付近に置かれた、タイマーに表示されたタイム。

 ────9.10。

それが、1位の彼がゴールした秒数だった。





 規格外、例外、世界最速と称される事になる男の子が居た。

『1秒』と聞くと、短く感じるかもしれない。

 しかし、100mにおける『1秒』は、レベルが高ければ高いほど、天と地の差がある。

単純な例えであれば、100mを10秒で走れば、1秒で10m進んでいる。

そう1秒差があると、少なからず10mも離れる事になる。

加えて、風速というものもあるが、+2.0mを超えると参考記録となり、正式な記録では無くなる。

参考記録にするほどに風の影響というのは、大きいのだ。

 しかし、今回の風速は+0.4m。

ごく僅かな追い風程度であり、これくらいであれば記録と風速による誤差はまるでない。

自身が最速であると思っていた者には、無慈悲なものを突き付ける事になった。

今後も彼らは、彼というトラウマを脳裏に焼き付けることになる。



 彼は『無名』だった。

いや、彼にはしっかりと名前はある。

けれども、噂のひとつも聞かなかった。

『○○高校の○○が早い』や『○○高校の○○はこういう経歴が~』等の噂を一切聞かなかった為。

世界は広い、聞かない事の方が普通の事。

 しかし、なぜ誰もが『高校生最速』『世界最速』になった彼を知らないのかが、不思議な事だった。

だれもかれも、彼を『有名』にしようとした。

メディアさえその大会に訪れていたので、拍車が掛かる。

 けれど、彼は全て拒否した。

ヒーローインタビュー、世界記録が表記されたタイマーとのツーショット、賞状の授与。

まるでその記録に対して、なんとも思っていないのだ。

その態度は悪い意味で『有名』になった。




 彼の名前は暁月夜花。

桜坂学園の1年生、陸上競技部。

高校生最速及び世界最速の脚を持つ高校生。

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