第4話 苻丕

ともがらを殺され、虐げられれば、相手に怒りを覚え、恨みを抱く。さりとてその相手に怒りをぶつけ、殺してみれば、今度はこちらが恨みを受けることとなる。


「先帝、苻堅ふけん様より賜った大恩も忘れ、先帝を追い詰め、結果として死に至らしめたきさまらが、どの面を提げてのうのうと家路につこうというのだ!」


東に向かわんとする馮安ふうあんらより見て、左手。

北の地に陣を構え、そこかしこに「」の文字があつらえられた旗が揺れる。


先頭に立つのは、苻堅の息子の一人、苻丕ふひ


慕容永ぼようえい馮安ふうあんの隣に並ぶ。


「忠義、天命。まこと涙ぐましい限りですな。そも、奴らの言う先帝が我らを虐げさえせねば、奴らとて北の僻地になど押し込まれずにも済みましたでしょうに」


その口ぶりは、むしろ苻丕を憐れむかのようであった。


苻丕を無視して東に進めば、その脇腹を食い破られるがままとなる。捨て置くわけにはゆかぬ相手である。しかし、馮安の心は踊らない。


「彼我ともに亡国の抜け殻でしかあるまいに。脆き者同士で喰らい合えば、ともに埋めがたき傷を負うに過ぎまい。どうにかやり過ごせぬものか」


馮安がつぶやくと、慕容永が苦笑する。


「抜け殻、なればこそでありましょう。弱き者ほどおのが実情を受け入れ切れぬもの。ならばあとは、いましき日の栄華にすがりつくしかありませぬ」


「弱き者、か」


どがら、と馬を進め、対手の陣容を見遣る。

熱量は、ある。しかし、やや散漫である。


そこかしこで旗が思い思いの揺れ方をしており、苻丕の言葉に対し、お世辞にも呼応しているとは言い難い。見るに、あちらこちらでは軍勢ひとかたまりほどが周囲から外れ、その部分だけで似通った動きをもする。


旌旗しょうき動かば、乱――でしょうか」


孫子そんしである。

挿された旗が統制されず、あちらこちらに揺らぐ。すなわち指揮系統が行き渡らず、それぞれが目前の敵の撃滅に対し、さしたる関心を払わずにいる。


その言葉が、示すのは。


「慕容永殿、時が惜しい。この老骨、試みに鉄城に身を投げてみようと思うが、いかがか?」

「なに、池の湯はとうに冷めきっておりましょう」


鉄城湯池てつじょうとうち。城の守りの堅さを鉄になぞらえ、目前に横たわる堀の手強さを熱湯に例える言葉である。

古典に則り問えば、古典にて返す。このやり取りをたやすくできるものなぞ、そうはいない。まして、その古典は慕容に伝わるものではない。漢人に伝わるものである。

すなわち、慕容永をただの庶流慕容として見るのはありえぬこと。


戯れに投げかけた問答にあえて応じてみせたのは、自らの来歴をこれ以上隠す必要もない、ということなのだろう。とは言え、敵を間近としながら、そこをいま問えるはずもない。

ならば、なすべきことをなすのみ。


「何騎をお借りできようかな?」

「三千ではいかがか?」

「それは重畳、ならば、差配は慕容永殿にお任せしても?」

「承りましょう」


馮安は後ろに付き従う者ものらに一瞥したのち、手綱を撃った。やおら駆け出せば、後続は、はじめから分かっていたことであるかのように追従する。


対して眼前に固まる人垣は、馮安の動きを全く想定しきれていないようであった。


ひとたび駆け出せば、その耳目には唸りを上げる風や、予期せぬ出来事に惑う敵の動き以外のものを受け入れる余地はない。


馮安は、ただ、前を見据える。

戦において、対手の迷いほど勝利に資するものはない。考える暇を与えてはならない。少しでも速く対手の備えを砕き、乱すべきである。


慌ただしく揺らぐ軍を、苻丕が懸命に統制をとらん、としているのがわかる。すかさず馮安は手綱をひねる。敵の殲滅を目指す必要はない。求めるべきは、ただ敵手に取り返しのつかぬ傷を刻むこと。

やがて苻丕が、迫り来る馮安を見た。その顔に怯えが走るのも、わかった。


横薙ぎの矛に、肉と骨との手応えを、得る。


跳ね上げた首は、すぐさま後続により拾い上げられた。周辺に見える驚愕、恐怖が、首の価値を如実に物語る。


しん将、苻丕! 燕の馮安が討ち取った!」


背後よりの、怒号。

おおよそ緊密とも言いがたかった統制である。総大将一人が失われれば、瓦解は速い。既に武器を投げ出し、逃げ出さんとするものもあった。


馮安は駆け手を緩め、大きく息を吐く。


「北地の勇士らよ! 正しき主に巡り会えず、義をも失った迷い子よ!」


その音声は、恐慌に湯だたる戦場にすら、よく響く。多くの耳目が馮安の方に向いてきたのを感ずる。


馮安は、天高くに矛を掲げた。


「秦王敗亡ののち、いつまでも明けようともせぬ宵闇の中、よくぞ戦われた! 貴公らを惑わす迷妄はいま、ここに取り除かれた! ならば燕の地に戻らんと希う我らが、これ以上貴公らに矛を向ける道理もござらぬ!」


馮安の子飼いたち、だけではない。慕容永の発した三千騎までもが、馮安の後ろに整然と居並ぶ。そのうちの一人が苻丕の首級を矛に結びつけ、掲げた。


「貴公らの武は、正しき義のもとにあり、はじめて振るわれるものであろう! 拙者には、この素っ首が貴公らを導くに足る器であったとは、どうしても思えぬのだ!」


言葉を、そこで切る。


馮安が何を感じるかなぞ、さしたる問題ではない。馮安の言葉を前に、大いに揺らいだ秦の将士らが何を思い抱くか。そこに委ねるしかない。


逃げ足を思わぬ形で留められた者らは、やがてひとり、またひとりと、手にした武器をなげうち、馮安に向く。そして上体を馮安に向け、なげうつ。

その波が、じわり、じわりと広がる。


馮安は動かない。ただ、そのひとりひとりを見届ける。


さざ波は、やがて大潮となる。


平伏と、慟哭。

眼前に広がるのは、意に染まぬ戦いに身を投げ込まざるを得なかった者らの嘆きであったのだろう。そのひとつひとつを汲み取ることは許されぬ。しかし、その潮流をどう受け止められるか、ならば――


「馮安様! 後方にて狼煙が上がりました! 我らにあずかり知れぬものであります!」


まるで動揺を抑えきれぬ報告を前にし、馮安は己の不明を呪った。

新たな指示を飛ばさんとする、その正面――ぬらり、と慕容永が現れる。


「慕容――」

「大いなる、燕国の志士よ!」


慕容永の言葉に、応じるかのように。

山間より、新手の騎兵らが姿を表す。


ひとたび見出された騎兵はまたたく間にその数を増し、馮安に認めうる限りの、すべてを埋め尽くす。


高らかに、慕容永が叫ぶ。


「我らは、ここに燕の再興を果たすのだ! これはまた、代王だいおうのお志とともにある!」


次々と山間より姿を表す騎兵たち。そこにはふたつの旗が翻る。すなわち代、すなわち拓跋たくばつ――


馮安の前に現れたのは、北地を統べる男。

代王、拓跋珪たくばつけいの軍勢であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る