第3話 導き手
一門として名簿に記されておらぬ
自らの姓を名乗ったところで、それが余人に信じられるに足るものかどうか、
将軍として取り立てられて以来、戦場においては迅雷の如き指揮をしてみせながらも、ひとたび戦の場を離れれば、上にも下にも恭しく接する。
例えば、
「世が世なら、私は粛清されても仕方なき立場。にもかかわらず、慕容永様は私を盛り立ててくださいます」
面倒臭そうな話に捕まった、馮安はなんとかその前から逃げ去ろうと目論んだ。とはいえ燕の公達をどうおいそれとないがしろにできるだろうか。穏やか、と評して頂けるような笑みを浮かべ、聞き遂げるよりほかない。
「わが父、
「他ならぬ、殿下の徳行ゆえにござりますれば」
「良いのです、馮安様。もはやこの地の慕容が、どうして徳目を口にできましょう。
「は、それは――」
返す言葉を見つけられずにいた。
それは、時と場が揃っていれば、まさしく馮安が慕容沖に叩きつけたい言葉でもあった。
とはいえ、西方は別口の敵対勢力、
ひとときは河北を統べた覇王の、なんとも惨めな末期であろうか。長安とその周辺の民は苻堅の死に深く慟哭したものである。とは言え苻堅に故地を侵されたものらにとれば、その死なぞ幸い以外の何者でもないのだが。
「私の耳にも届いております。陛下に対し、速やかな故地への帰還をお勧めくださったそうですね」
「お恥ずかしき限りにございます、いたずらに言葉を費やすのみ、陛下のお心を動かすには至りませんでした」
「とんでもない。むしろ謝るべきは私どもです。本来ならば、慕容の血を引く者こそが陛下を諌めねばなりませんでした。だのに馮安様に頼る以外のことができておりませぬ。ならば、せめて少しでも馮安様のお力になれれば、と思うのですが……」
頭を垂れながらも、ちら、と慕容忠を見る。
こと政の場において、題目と思惑とは、むしろ一致するほうが珍しい。なので馮安は幾度となく痛い目に遭った。また相手に煮え湯を飲ませても来た。
政とは、いかに相手の思惑を拾い、さりとてこちらの思惑を損ねずに済むよう振る舞えるか、が肝要である。ならば、いかにしてこちらの思惑が、相手にとって都合の良いものであると見誤らせられるか。
内々で算盤を弾き――とはいえ、すぐに馮安は悔悟とともに算段を引き下げた。
その若さ、その未熟さ故なのか。
慕容忠はまっすぐに馮安を見、頼り、すがるべき相手であると信じていた。少なくとも、馮安にはそう感ぜられた。
愚かだ。
誰が誰を殺さんと目論んでいるかもまともに把握しきれぬ中、どうして無邪気に他者に寄りかかろうと思えるのだ。
懸命に慕容忠をあざけろうと試みながらも、しかし恭順の意を抱かずにはおれない。
「陛下は、こう仰せになりました。いまさら燕の地に戻ったとて、すでに叔父上、いやさ、
言うべきではなかったかと、わずかに迷いは生じた。しかし、誰かに伝えねばならぬことではある――そう、長安に未だ残る慕容の民二十万を率いるに値する、誰かに。
馮安の言葉に慕容忠はわずかに息を呑んだが、ごくりとつばを飲むと、重めかしく、言う。
「ならば、導き手が求められるのですね」
その人器たるや仁、さりとて馮安の言葉の意味を拾いうる知をも持たぬではない。
すでに慕容垂との約束を叶えるのは難しくなっている。ならば、せめて慕容の民だけは東に送り届けねばならぬ。
「慕容が
馮安は口上ののち、深々と頭を垂れた。
――間もなく、慕容沖は娘婿の側用人によって殺害された。皇帝の暴死により後釜を狙わん、と志すものが次々に立つも、馮安、そして慕容永の率いる軍の前に討ち果たされた。
最後に慕容沖の息子を擁した勢力が残ったが、これらも慕容永の手はずにより瓦解。皆殺しとなった。
慕容沖死後の混乱は、慕容忠が立てられるまで、二月もかからずに終わった。その立役者は、ほぼ慕容永であった。長安を発ち、東に向かわんとする慕容の民の目は多くが慕容永を向き、一部が慕容忠を見る、というありさま。
慕容永が馮安の元にあらわれる。
「あなた様にともに戦っていただけること、まこと心強くございます。力を合わせ、陛下を盛り立ててまいりましょう」
慇懃そのもの、といったそのあいさつに、馮安の背に走る怖気は収まらず、むしろ激しさを増していた。しかし、その功績がずば抜けているのも確か。そこを思えば、馮安の返すあいさつはやや身の入らぬものとなってしまう。
そこに気付いたのか、どうか。
慕容永はうっすらとした笑いを浮かべ、馮安の前を離れた。
「願わくば、忠臣であってくだされよ」
慕容永の背中に向けて口にしてみたところで、馮安の胸中よりうすら寒さが抜け落ちることはなかった。
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