第3話 導き手

一門として名簿に記されておらぬ慕容ぼようが、姿をあらわす。にわかに側仕えらはざわめいたものだが、慕容沖ぼようちゅうは手のひと振りにて押し黙らせる。いわく、強者一門に強者があるのは喜ばしきこと。大燕の勇躍がより速まろう、とのことである。


自らの姓を名乗ったところで、それが余人に信じられるに足るものかどうか、慕容永ぼようえいはよく理解していた。


将軍として取り立てられて以来、戦場においては迅雷の如き指揮をしてみせながらも、ひとたび戦の場を離れれば、上にも下にも恭しく接する。


例えば、慕容忠ぼようちゅう――慕容沖の兄の子、すなわち甥――などは、その目に涙さえ浮かべ、馮安ふうあんに語りかけてきたものである。


「世が世なら、私は粛清されても仕方なき立場。にもかかわらず、慕容永様は私を盛り立ててくださいます」


面倒臭そうな話に捕まった、馮安はなんとかその前から逃げ去ろうと目論んだ。とはいえ燕の公達をどうおいそれとないがしろにできるだろうか。穏やか、と評して頂けるような笑みを浮かべ、聞き遂げるよりほかない。


「わが父、おうのふるまいは、広く燕人の意に沿わなかった、と言われております。それが正しいかどうかはわかりません。しかし、燕人はいま、確かに陛下を仰いでおられる。ならば、どこに私をたてまつるだけの大義がありましょう」


「他ならぬ、殿下の徳行ゆえにござりますれば」


「良いのです、馮安様。もはやこの地の慕容が、どうして徳目を口にできましょう。長安ちょうあんを落としたとて、それは陛下の武勇のゆえでもなし。逃げ出したもとの主に成り代わって掠め盗り、さりとて城内に残された我らのともがらは殺し尽くされたあと。助けるべきものも助けられず、古都の珍宝を獲るのに躍起となる。宝を引き渡さぬものは容赦なく殺されている、とも聞きます。このような蛮行をなした者たちの語る天に、いかほどの重みがありますか?」


「は、それは――」


返す言葉を見つけられずにいた。


それは、時と場が揃っていれば、まさしく馮安が慕容沖に叩きつけたい言葉でもあった。


楊定ようじょうが捕らえられてまもなく、苻堅ふけんは長安城内に残っていた慕容の縁者を殺戮した上、西方に逃れようと目論んだ。


とはいえ、西方は別口の敵対勢力、よう氏のはびこる地である。慕容沖から逃げ出してみたところで、たやすく再起が叶うはずもない。事実苻堅は姚氏に追い詰められた末、自らその首を括った。

ひとときは河北を統べた覇王の、なんとも惨めな末期であろうか。長安とその周辺の民は苻堅の死に深く慟哭したものである。とは言え苻堅に故地を侵されたものらにとれば、その死なぞ幸い以外の何者でもないのだが。


「私の耳にも届いております。陛下に対し、速やかな故地への帰還をお勧めくださったそうですね」


「お恥ずかしき限りにございます、いたずらに言葉を費やすのみ、陛下のお心を動かすには至りませんでした」


「とんでもない。むしろ謝るべきは私どもです。本来ならば、慕容の血を引く者こそが陛下を諌めねばなりませんでした。だのに馮安様に頼る以外のことができておりませぬ。ならば、せめて少しでも馮安様のお力になれれば、と思うのですが……」


頭を垂れながらも、ちら、と慕容忠を見る。


こと政の場において、題目と思惑とは、むしろ一致するほうが珍しい。なので馮安は幾度となく痛い目に遭った。また相手に煮え湯を飲ませても来た。

政とは、いかに相手の思惑を拾い、さりとてこちらの思惑を損ねずに済むよう振る舞えるか、が肝要である。ならば、いかにしてこちらの思惑が、相手にとって都合の良いものであると見誤らせられるか。


内々で算盤を弾き――とはいえ、すぐに馮安は悔悟とともに算段を引き下げた。


その若さ、その未熟さ故なのか。

慕容忠はまっすぐに馮安を見、頼り、すがるべき相手であると信じていた。少なくとも、馮安にはそう感ぜられた。


愚かだ。

誰が誰を殺さんと目論んでいるかもまともに把握しきれぬ中、どうして無邪気に他者に寄りかかろうと思えるのだ。


懸命に慕容忠をあざけろうと試みながらも、しかし恭順の意を抱かずにはおれない。


「陛下は、こう仰せになりました。いまさら燕の地に戻ったとて、すでに叔父上、いやさ、慕容垂ぼようすいえん人をまとめ上げておろう。まして先帝、わが父上は、慕容垂を冷遇した元凶にほかならん。ならばおめおめ殺されに戻るようなものではないか、と」


言うべきではなかったかと、わずかに迷いは生じた。しかし、誰かに伝えねばならぬことではある――そう、長安に未だ残る慕容の民二十万を率いるに値する、誰かに。


馮安の言葉に慕容忠はわずかに息を呑んだが、ごくりとつばを飲むと、重めかしく、言う。


「ならば、導き手が求められるのですね」


その人器たるや仁、さりとて馮安の言葉の意味を拾いうる知をも持たぬではない。


すでに慕容垂との約束を叶えるのは難しくなっている。ならば、せめて慕容の民だけは東に送り届けねばならぬ。


「慕容が千歳せんざいの栄えを決める計となりましょう」


馮安は口上ののち、深々と頭を垂れた。



――間もなく、慕容沖は娘婿の側用人によって殺害された。皇帝の暴死により後釜を狙わん、と志すものが次々に立つも、馮安、そして慕容永の率いる軍の前に討ち果たされた。

最後に慕容沖の息子を擁した勢力が残ったが、これらも慕容永の手はずにより瓦解。皆殺しとなった。


慕容沖死後の混乱は、慕容忠が立てられるまで、二月もかからずに終わった。その立役者は、ほぼ慕容永であった。長安を発ち、東に向かわんとする慕容の民の目は多くが慕容永を向き、一部が慕容忠を見る、というありさま。


慕容永が馮安の元にあらわれる。


「あなた様にともに戦っていただけること、まこと心強くございます。力を合わせ、陛下を盛り立ててまいりましょう」


慇懃そのもの、といったそのあいさつに、馮安の背に走る怖気は収まらず、むしろ激しさを増していた。しかし、その功績がずば抜けているのも確か。そこを思えば、馮安の返すあいさつはやや身の入らぬものとなってしまう。


そこに気付いたのか、どうか。

慕容永はうっすらとした笑いを浮かべ、馮安の前を離れた。


「願わくば、忠臣であってくだされよ」


慕容永の背中に向けて口にしてみたところで、馮安の胸中よりうすら寒さが抜け落ちることはなかった。

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