第41話

 恵は部屋についているお風呂に入ってから野宿で寝転がった時についた服の泥を落とすために洗面台で手洗いする。

 その時、瑛斗がノックもそこそこに恵の部屋に入って来る。


「桜井さん、たまに思うのだけどノックしても相手の返事も待たずに入るのはさすがにダメでしょう。もし、私がお風呂のために裸だったらどうするの?」

「それを避けてきたのです。」

「そんな胸を張って言うことじゃないと思いますけど。」


 彼の言葉から彼が一度この部屋の前まで来ていたことがわかる。襖なのでシャワーの音とかは結構響くのだ。


「それで何か用事?朝食は要らないって新塚さんに言いましたよ。桜井さんは朝食まだですよね?さっき、玄関で待てないと言わんばかりに朝食のために集まっていた集団がいましたから、早く行った方がいいですよ。」

「そうですか。私はそんなに量は食べないですし、新塚さんは一応多めに朝食の準備をされるので問題ありません。」

「そうなんですね。えっと、私はまだ少し忙しいので話があるなら後にしてくださいませんか?」

「分かりました。では、朝食を済ませてからなので1時間後ぐらいにまた伺います。」


 恵は新塚の話を信じているのでそのうえで話をしたが、瑛斗はわかっていても平然とそれを受け入れて会話を続ける。最終的に約束を取り付ける形で彼は朝食に向かう。


 瑛斗の表情から良くない話なのは明白だ。しかし、今は本当に手が離せない。何しろ、白の服に黒い土がみっしりとついてしまって早く洗わないとしみになる。白が牛模様になるのだ。それもまた良い味を出しているかもしれないが、彼女にとってはそれよりも白のほうが違和感なく着れる。

 それに、この服は今回のために初めて買った服なので着て1日で汚れを付けたくはない。


「桜井さんの話ってなんだろう?説教?いや、なんで説教??」


 恵は自分がだんだん彼に侵食されているような気がした。

 ”説教”なんていう言葉が出てくること自体彼女にとっては異常なのだ。


 何しろ顔見知りはいるが、今まで仲を深めた相手がいなかったから。


 恵は瑛斗を待っている間に持参したPCを開く。しかし、ここで最大のミスに気づきせっかく電源を入れたノートPCを再びシャットダウンする。


「ネット環境しらないじゃん。」


 まさに痛恨のミスと言える。

 PCにとってはまさに命綱ともいえるほどのネット、それが失われているので目の前のそれはただの文字が打てるだけの機械であり、ネットサーフィンをする恵にとっては何の意味もないガラクタ同然だ。


 恵は急いでPCを持って新塚を探しに玄関の方に歩いていく。

 しかし、玄関には目当ての人物がおらず、チラチラと左右を見まわすが、休憩スペースの方には数名いて、彼らは恵を見て固まっている。それを気にしないのは、そんな視線よりもネットのほうが彼女にとっては重要だからだ。

 こんな高級な佇まいの屋内に恵は上下ジャージだ。もともと、一張羅ともいえる新品の洋服なんてこちらに来る初日の分しか購入していない。

 それだって、渋る恵に瑛斗が「初日ぐらいは。」と説き伏せてきたので購入しただけであって、断じて彼女が望んだからではないのだ。

 上下ジャージなんて、しかもノーブランドの既製品を身に着けて歩いているのは恵ぐらいなもので廊下で人とすれ違うたびに彼らに見られるが、彼女にとってはそれが目当ての人物かどうかでしか判断していないので、すれ違った人物の顔なんてつゆほども覚えていない。


「恵さん、どうしたんですか?」


 そこに運がいいのか、悪いのか、瑛斗に出くわす。恵は背後から声をかけられたので一瞬ビクッとなったのだが、声に耳が反応したのですぐに振り向く。


「朝食終わったんですか?」

「はい、終わりました。まだ、20分程度しか経っていませんが、あなたは部屋から出てどうしたんですか?」


 恵が逃げると思っているのか、どこか責めているように瑛斗が言う。

 彼は1人ではなく横に1人の男性が立っている。見覚えがないので恵には関係のない人だろう。


「新塚さんを知りませんか?」

「新塚さんに何か?」

「あ、いいえ。知らないならいいんですけど。」

「私でよければ用事を聞きますよ。」

「いや、大丈夫です。ちゃんと時間には部屋にいますから。」


 「じゃあ。」と恵は足早に逃げるようにして彼らから離れる。隣に知らない人がいるし、おそらく友人だろう人との時間をこんなショボい用件で潰すのはもったいないから彼女は早く離れたかった。


 そうして、どれくらい奥に来たのかわからないが、敷居を分けるようにしておかれた屏風絵のような壮大な絵が描かれた襖の近くに行くと、ちょうど新塚が出てきたところだ。


「新塚さん。やっと会えました。」

「おや?恵様、どうかされましたか?」

「あの、ネット設定をしたいのですけど。」


 恵に呼ばれた時は新塚は驚いた様子だったが、

 彼女がPCを指すと彼は、ああ、と言い、すぐに察してくれる。


「それなら恵様の部屋で設定しますよ。wifiが飛んでいますからすぐに使用できます。ネットが接続できないなら携帯も使えずご不便だったのではありませんか?私どもの配慮が足りませんで申し訳ございません。」

「いいですよ。携帯持っていませんし。」


 ただ探しただけなのに新塚から丁寧に謝られて恵はタジタジになり、フォローをすると彼は驚いた様子だ。


「そうなんですか?」

「はい、連絡の必要性がある相手なんていませんし、持っているだけで通信料やパケットなどで色々と費用が掛かりますから。持っているだけ無駄なんです。」

「なんと、まあ。」


 あっさりと現代の老若男女問わずに必需品となっているスマホを恵はあっさりと必要ないと言ってのけることに、新塚は感心させられてしまう。


「では、PCは何のために?」

「ああ、これはネットサーフィン用です。調べ物が多いのでこれこそ必需品です。今住んでいる家はwifiがあるので全く問題ないんです。」

「それなら、スマホ1台だったほうがよろしいんじゃありませんか?」

「スマホは画面が小さいですし、効率が悪いんですよ。PCのほうが効率が良いんです。」

「ですが、通話ができないと学校からの緊急連絡とかはどのように?」

「それなら、家の固定電話を設定しています。ただ、最近はRineとかいうのでみんなそういうのも回っているらしいですけど。」


 恵は最後に苦笑する。しかし、どういわれてもスマホを持つメリットは彼女にはないのだから仕方がない。恋人なんてできれば話は違うだろうが、そんな相手ができない限りはスマホを購入する意欲さえもわかないだろう。


「まあ、考え方は人それぞれですよね。」


 恵は最後にそう締めくくる。

 それからすぐに恵の部屋で設定をした新塚はすぐに出ていく。彼は管理をしているらしいから忙しいのだろう。慌てる彼を見送りながら内心謝罪する恵はさっそくネットサーフィンをしようとする。


コツンコツン


 それを阻止するのは窓側からの音だ。


 私の貴重な時間になんで邪魔が入るの!?


 恵は怒りのままに窓を見ると、そこには小さなクモがぶら下がっている。しかし、普通のクモと違うのは体の表側に目玉がついていることだ。顔面のあるクモさんも見た目が結構エグイものがあったが、目玉のみがついていて、それがクリクリと動く幼稚クモもなんとも言い難い見た目だ。はっきり言えば不気味だ。

 恵は顔をしかめて無視しようとするが、クモの足によって叩かれる窓の音はやむ気配がないどころかどんどん間隔なく鳴り響くので、スルースキルがいくら高い恵もお手上げ状態だ。仕方なく窓を開けるとクモが糸を吐いてきた。


 いや、ただの糸ではなく、それは紙の様相である。


 絹の紙とは見た目に優しい演出だ。恵は思わず目の前のそれを拾ってみると、そこには文字が書かれている。


『あの方を助けてください。』


 まさかのSOS信号に恵は瞬きするのだ。

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