マリア十九歳の肖像

@sunf

彼女はるりあ


 お風呂に入る気力が無い私は、何を考えることもなく天井を見ていた。

早くお風呂に入って寝てしまえば明日の朝が少しは楽になると分かっているのに、体は面白いくらいに起きる意思がない。あぁ時間を無駄にしているな、と自己嫌悪に陥るこの時間は、もしかしたら一種の自傷行為なのかもしれない。


 体全体をベットに張り付けるようにして寝っ転がっていると、脇腹あたりにあったスマホが振動した。

相手は分かっているし彼女と話したい気分でもなかったが、一生懸命に揺れるスマホを無視することも出来ず、私は通話を開始した。


「やっぱ彼氏と別れて元カレと復縁しようと思うんだ」


 二日前と同じセリフだった。

聞こえづらい途切れ途切れの細い声で必死に自分の考えを伝えようとしてきている。彼女にとってはとても重要な話かもしれないが、私にとっては至極どうでもいい内容だった。

真面目に聞いているふりをして、三種類くらいの相槌をローテーションさせてみる。それでも会話は次々に進んでいく。


「でも彼を傷つけたくないの。だって、とっても良い人だから」


 先程までの細い声は更に細くなり、よく裏返るようになった。鼻を啜る音も定期的に聞こえてくる。

私は彼女が何故泣いているのか分からなかった。自分で彼氏を振る選択をして、どうして涙がでるのだろう。


「彼氏を傷つけたくないなら振らなきゃいいじゃん」


こう言っても「違うの」と返ってくる気しかしなくて、私はまた共感の言葉を返した。


「私、本当に最悪だよね。なんかるりあっていう名前も悪役みたいじゃない?」


 唐突に質問が来て、私は急いで当たり障りのない返答を探した。ここで共感してしまうと、この電話がもう一時間伸びてしまう気がする。


「そんなことないよ。るりあって、聖母マリアと一文字違いじゃん」


 そう言うと、彼女は満足したのかそれ以上名前の話をするのを止めた。

それから今度は元カレの魅力についての話が始まる。

一年前、彼女が振った元カレは随分と気が利く男になったらしい。


 思えば、彼女はいつも誰かと交際をしている気がする。

そして暫くすると別の人を好きになり、私にこうやって相談をしてくる。


「相手を傷つけるのが辛い」


と泣きながら言うのが定番になってきている。


私からすればそれは理解し難い行動で、自分から嚙みついたくせに


「歯が痛い」


と言っているようなものである。誰にも噛みつかなければ、歯が痛むことなんてないのだ。


「しばらく一人でいたら?」


 元カレにいつ告白しようか悩んでいる彼女にそう言った。

すると彼女は、一瞬たりとも迷わず、


「ううん」


と言った。


「好きな人と一緒にいれなきゃ嫌じゃん。そうでしょ?」


 先程までの細い声ではなく、アナウンサーのようなはっきりとした声だった。私はもう


「そうだね」


と返すことしかできなかった。


 その後、外が明るくなるまで彼女の懺悔及び作戦会議は続いた。


 その間ずっと、彼女の


「そうでしょ」


という声が頭の中で反響していた。

自分から何も行動してこなかった自分にとって、好きな人と一緒にいれないというのは当然のことだった。

しかしそれをありえないと彼女は思っているのだ。

例え歯が傷つくと分かっていても、好きな人に噛みついて離さないのが普通だと思っているらしい。

そして傷だらけの歯で今も、新しい人に噛みつく準備をしている。


 その時ようやく、私の乳歯だらけの歯が少しずつ溶け始めていることに気が付いた。

噛みつき方を知らない傷一つない歯は、もう少しで何も噛めなくなってしまいそうな程弱くなっている。


 この歯で何かを思い切り噛んだ時、その痛さは一体どれ程なのだろう。

一度も味わったことない私には、想像すらできなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

マリア十九歳の肖像 @sunf

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る