願望
朝川渉
第1話浮気調査
高橋の身辺調査が終わったようで、その連絡が仕事中に来た。ちょうどトイレから出たあたりでその電話に気が付き、声を潜めて廊下の、人当たりのない場所へと行き、通話ボタンを押すと、事務的な声で週末事務所まで来るようにとその担当調査員の山村は言った。美里はわかりました、と告げ、電源を切り、すばやくその日程をスマートフォンの手帳アプリに書き込む。それから制服の裾を整えてきびすを返し、デスクのある自分の部署へと戻っていった。
美里が事務所に直接出向くのはもう三度目だった。「なんでも請負ます。浮気調査・不倫・借金」というチラシを雑誌で見つけ、電話をここへかけたのはひと月ほど前のことで、来る前まではもっと冷たく事務的な感じをイメージしていたけれど、きちんと入り口に花が飾ってあるし、女性もにこやかに挨拶してくれる。ドラマなどを見ているとこういう場所はすさんでいるイメージがあるけれど、ここはきちんと教育されているんだ、と思う。それか、憐れんでいるのかもな、とも思う。ともかくそこは、美里が毎日働いているような町中にある企業のロビーと雰囲気がよく似ていた。
高橋さんは美里の婚約者で、それは2,3年ほど前から美里以外の周りの思惑から恐ろしいほどまで進められていた縁談だった。高橋とはじめに会ったとき、なんの嫌味もなく屈託なく笑う彼に安心した美里だったけれど、挨拶を終え、二人きりで会ううちに次第に空虚な気持ちが募るのをこらえようがなくなっていた。あまり思い切った行動を普段からしないのに、このような事務所に居て、今、テーブルを挟んで高橋さんのプライベートな写真を見せられる、状況に追い込んだのは他ならない美里自身で、もし自分さえ何も知らないふりをしていれば、きっと今頃結婚式のためのドレスを選んだり、お互いの親戚に挨拶しにいったり、他の女性がいまの自分の年齢ならばみな心待ちにしているようなイベントを美里もこなしていたに違いない。けどその部分に対してはもう、憧れもうらやましさも持ち合わせていなかった。ただ胸の中にずっとある奇妙な塊をずっと飲み込み続けて、それをきちんと、だれかから、吐き出させてもらわなくては既に、日常生活がひとつたりとも進まないようになってしまっていた。
やっぱり、高橋さんには女がいた。しかも、驚くことにそれは美里の目からはどうしても女には見えなかった。
「これって、誰なんでしょう」
かろうじて、口を開くと、頭の弱い女みたいな声が出た。あ、しまったと思い、山村の方を見るといたって普通通りに美里を見つめて、「同僚のようですね。よく飲みに行ったりもしているし」
「でも・・・・・・・・」
美里からは何の言葉も出てこなかった。車内にいる二人は、どう見ても恋人関係にしか見えなかった。
帰り道、美里の頭にあったのはあの見慣れた、高橋の車のことだった。あんな場所で恋人同士が絡み合ったりするのは、若い人同士だったらよいのだろう。けれど高橋のようにもう仕事の地位もあり、経済的にも余裕があるような男が、そこで最後までしようとして迫ってくるのが、美里からすると何かいじきたないように思えてどうしても嫌だったのだ。いや、(嫌だった)ということ自体、自分にはわかっていなかったのかもしれない。けれど今、自分がどうしてそれが嫌だったのかに思い当たると、それはその空間が二人のためのものではなく、限りなく高橋のものとしてあったように思えて来る。あの車、それから彼の身に着けている服、時計、趣味、ふるまい、すべてに対していつもその雰囲気は及んでいるのだった。高橋がものを食べるときくちゃくちゃ音を立てているのも、ちょっとした自分の癖に口を出すのも、なんて細かいことに気が付くのだろうと思うと、我慢がならなかった。そしてその彼のために用意された空間で、彼は自分以外の誰かを引き入れて、それから美里にするのと同じように、時には相手の方を想いながら、ずっとそれが美里にはみじんもばれないだろうと思って笑っていたのだと思った。まったく、男の持つ体裁というものの強固さというのは女の持つ悪いくせに負けず劣らないほどにいやらしい感じがする。そんなふうにして自分たちに自然についてくる素振りを今は、少し小ばかにするようにして思い出していた。
歩きながら、まったく周りの景色なんかは目に入らないままで美里はそんなことを考え、その気持ちは今はまだ調査を請け負ってくれた山村の手からもたらされたドラマの一場面、だったり、単なる偶然のような感触として美里を驚かしているのでしかないのに、きっと明日からとめどなく自分を支配するのだろうなと思った。ことの重大さとそのことを考えると気が遠くなりそうになる。
住み始めて3年になるマンションへ、美里は地下鉄を出たあと歩いて帰る。マンションへの道はほぼ一本道で、線路沿いを伝って歩いていくので、怖い目にあったことはまだ一度もない。
エレベーターに乗り、自分の部屋の前まで行き部屋のドアの鍵を開ける。郵便受けに入った手紙の束を、テーブルの上に開けるとそこに、企業からの知らせではない簡素な手紙があった。よく見ると差出人の名前が書かれておらず、それはうすい草色の封筒に入っている。
(またか)
美里は思い、コートを着たままではさみを入れる。
そこには自分がもう10年も前に書いた詩が、誰かの筆跡で書き直された便箋が入っている。
この、おかしな手紙が来るのは二度目で、それは去年来た。美里はそれを一度目を通しただけで、クローゼットの中にある、手紙入れのなかに紛れ込ませてしまった。一通目も同じように差し出し人が書かれておらず、けど誰が出したのかはすぐに分かった。
その中に入っているのはひとつの詩で、まだ十代だった自分が稚拙な文体でつづったものだったから、少しだけ声をたてて笑ってしまった。
自分が何故、こんな詩のようなものを書き、それを毎日会うような同級生に手渡していたのかを、美里は忘れたわけではなかった。けどそれは、恥ずかしい思い出として自分の中にはあったから、それをこんなに年月が経ってから思い出したように送り付けてくる相手のことを、美里はなんてぶしつけなんだろうと感じていた。一度目の郵便が来て、不審に思いながらもそれを開け、そしてそこに取り止めもないかつての詩のことが書いてあるのを見て、ぴんと来たのは、差出人の藤井 かなえはあのグループとやっぱり、親密にしていたんだなということで、それが自分のかたくなさに拍車をかけ、思い出はより一層深いところで締め置かれたようだった。美里の使うその箱に入れたものは普通、例えば引っ越しのようなことがある以外ではもう二度と見ることはないものだった。
かなえから初めに手紙が来たとき美里は次第にわだかまりが大きくなってくるのを感じ、美里は同級生に電話をかけたり、会ったりするついでにそのことをそれとなく聞いてみたり、同じような話があると耳を傾けたりなどしていた。皆の話の中にあるのは、思っていたとおり、皆の理想みたいにしてあるかなえの様子と、それから「でも、仲良かったじゃん」というような共通理解だった。なんとなく、それ以上足を突っ込むと自分がしてきたことが周りから責められそうな気がしてしまい、その「調査」はたった一か月ほどでやめてしまった。そしてすぐに日常的な暮らしに戻っていった。
風呂に入り、あたたかな夕食を取った後でようやく気分がゆっくりしてきて、テレビを見ながら美里は微笑んでいた。
その、取り留めのない考えの中で自然と美里はこれまで付き合ってきた人のことを美里は思い出していた。それは皆、ごくふつうの異性で、けど高橋さんのような人はいなかったように思う。どうしても美里は、弱いところのあるような人を、庇護するようにしてしか愛せなかったのだなあと考えてみる。高校のときの彼氏、それから大学のときに付き合った人、入社して取引先の人に片思いをしたこと、そのひとつひとつは普段、忘れたと思っていたものの、たしかにまだ胸の中にあった。そしてその都度、その男たちからかけられた言葉だったり、一緒に行った場所のことを、自分は大切にしまっているのだとその時思った。そう思うとやはり今回の高橋とのことは間違いなのだというような気がした。
かなえの手紙を手に取り、その中に自分の詩(かなえが書いた筆跡のもの)以外何の紙もないことを確かめると、ソファから立ち上がり、寝室のクローゼットの方へ向かう。その上の棚には、ホームセンターで買ったプラスチックの蓋つきの箱があり、その中に、雑多な、けどたしかに誰かが美里に向けて書いた手紙を、なんとなく処分できない思い出として保管してある。厚みのある束に手を入れて、美里は濡れっぱなしの髪の毛を垂らしながら、ひとつの手紙を探してみる。そこにはもう一つの草色の封筒があり、そして中を見てみると同じ便せんに、違う詩がかなえの字で書きこまれていた。
ソファに戻り、バラエティ番組が流れているのを耳だけで聞きながら、美里はその詩にふたたび目を通してみる。美里は、なつかしいな、とその時にはじめて感じた。それは、これまでの恋人たちや高橋さんなどと比べてみてもいくらか違い、誰かが息を吹きかけてしまえば消えてしまいそうなほどに、か細いひとつの線でしかなかった。かなえはこんなことを未だに大切にしまっているのだろうか。そう思うとかなえのことを久しぶりになつかしく、それからいじらしいものに今日に限って感じたのだった。かなえの顔、それから手足、声。それを今まで美里は、努めてそのことや自分たちのことを忘れようとしてきたことに思い至り、そう考えると自分がそのとき少なからずかなえの前でみじめに飢えていた時の気持ちも同時に思い出したのだった。けれどそのことや、詩を書いたことなど、その手紙が来なければきっと二度と思い出さないほどの思い違いでしかなかったのだろうと思う。
かなえは美里のしたこと、だったり、かなえと話したこと、だったりをどうして取っておいてくれているのだろうか。そう考えると少し混乱した。同じような質量のことでもかなえは親切にするし、もしくは周りから促されたり、義務感だったり、あるいは時々、どうしてもなつかしくなってこんなふうに、手紙を書いてしまうんだろうか。そう考えるとどうしても、美里は不思議な気持ちがしてしまう。どうしても自分たちの中には、それを確証とするようなやり取りなどなかったように思うのだった。
かなえも、美里も定時制高校の生徒で、入学式の時から美里はかなえのことをよく知っていた。美里がその高校に通うようになったのは父親が体調を崩したことがあり、かなえは遺伝性の病気があるらしかった。どうして定時制の高校へ通うことになったのかを聞くのを美里は最初、なんとなくためらわれたけれど、一日過ごしているうちに一番年配の生徒が自分でそれをネタのようにして周りの人に声を掛けていて、それがここにいる人間のゆいいつの共通の話題のようになってしまい、だからたった一日で美里はかなえのことをかなり深くまで知ってしまったのだった。
中学のときは交換日記というものが流行っていた時期で、さすがに高校生にもなってそんなものをする子はいなかったけれど、美里はそのことが時々あたまに浮かんでくるのだった。ああいうのは特に毎日何か書きたいことがあるわけでも、伝えたいわけでもない、自分達が仲良しだということを確認したくて、そのノートを作り始める。あの時はそれがブームとなったら皆が皆やらなければ気が済まないような感じで、美里自身も中学生までいろんな人と交換日記をしていた。そのなかであまり仲の良くない子と美里は交換日記をしていたこともあり、けど、自分はそれでもその子を気に入ってはいて、それがなにか誇らしく感じていたような気がするのだった。自分がかなえに対して感じているのはそんな気持ちなのだ、と美里は思う。その子も小さくて、あまりしゃべらなくて、声を立てないで笑う。かなえは小さいころからピアノを習っていて、身体が弱いところも、本人は大変かもしれないけど小動物みたいで良いなと思っていた。
美里が、ひそかに詩を作り、書きためていたのはそのとき読んでいた本の影響で、自分でもわからないような悩みや葛藤のようなものがあったのかもしれない。いずれにせよそれは今となっては思春期特有の青臭い思い出でしかなく、それをかなえに送ったのは、きっとなんとなくだけど、かなえのような子なら自分の言うことを尊大に受け取りもせず、それから捨ててしまったりもしないだろうという思い込みがあったからだ。
美里はその紙を何度か目を通し、ふたたび封筒の中にしまった。
当時は、その詩をかなえへの手紙に紛れ込ませた翌日くらいからかなえの態度が冷たくなり、そのことで美里は傷ついていた。もちろん、それもすべて嘘だといってごまかせるような自分たちは関係で、詩だってそうで、けどつい、渡してしまったのだ。そしてそれがまさか、二人だけの間でなくて、すぐさまかなえが人に話し、クラス中に広がったのには焦ったし、他人がそれを口にするのを不思議な気持ちで眺めていた。運がよかったのは、皆がそれを、美里の詩を大半がほめてくれたことだ。けどそれをほかでもないかなえが広めたことも、美里がかなえに失望したひとつの理由だった。美里は、そのあとで些細なことからかなえと言い合いをしてしまった。クラス全員の前で。あれを、同級生の中では今も覚えている人がいて、会うたびにそのときの美里の剣幕を咎められたりもする。かなえが、体が弱くて、体育のときやなんかもかなえを気遣ったりするような子がけっこういた。それから、美里のようにやたらと話しかけてくるような男子。今になってかなえからこのような手紙が送られて来た当初はそれに対する「傷ついた」という当てつけなのかとも思ったほどだ。皆はあれを楽しい、仲が良すぎるが故の追いかけっこだと解釈していたらしい。
美里は、返事を出したり、住所を調べたりするようなことはしなかったけれどそれからたまにかなえのことを思い出すようになった。数日後は夢に出てくることなどもあった。その中ではいつも自分がかなえを追いかけている。まともに受け応えてくれない、かつて仲が良かった、何か見当違いにも肩入れしていた同級生。当のかなえ自身は余裕を見せて笑っている。美里はそれにどうしようもなく腹が立って、言い合いに逃げ出したかなえの腕を思い切り引っ張った。水飲み場の前、休み時間、8クラスもある3階の校舎はざわざわしていて、誰も誰かが何を話しているのかを気には留めない。けど、それでもクラスの男子がそこにいるのかもな、ということを美里はおそれつつ、かなえを無理やりに呼び止める。その場所で振り向いたかなえはそれでも、笑っていた。
かなえの顔。女の子らしい、人形みたいな。それは、美里の気持ちを通り越して、追いかけてもらえることの優越に浸っている。
(だめだ、この人は・・・)
今、料理をテーブルに挟みつつ、婚約者である高橋と向かい合って座っている。話し合いはもうほぼ、終えてしまった。こんなことを告げなければならなくなった経緯、それから事務所に相談したこと、今後は弁護士に依頼する覚悟もできていることを告げたあとで、美里は料理も喉に通らなかったのだけど、高橋はもくもくと酒をのみ、それから料理をほおばっている。
「別れないよ」
もう十数分、何もしゃべらないかと思うと、高橋が料理に口を動かしながら突然、低く呟く。
「え・・・」
「だって、会社のことはどうするんだよ。」
「え、それは。」
「・・・・こちらの事業、それからあなたの会社の事業。もう話は数年前から進んでいるし、これがもしとん挫したら俺の抱えている従業員は一体どうなるんだよ」
「・・・・けど」
「けど、何」
「あなたってわたしのこと好きじゃないですよね。」
「はあ?」
高橋が、心底苛ついているように声をあげる。
「必要?それ」
「・・・・・」
「ああ。『愛しています』よ。これでいい?」
「え・・・そういうことじゃなくて」
「ああ。分かったよ。君のことは・・・僕があなたのために犠牲にしたものを、今、ここで並べてあげようか。
・・・家族。それから、こういう時間。僕の人生の半分以上。お金。前の恋人。僕は君と縁談をするために美人でいい大学を出ている恋人と別れたんだよ。これでもまだ足りない?」
「・・・・・」
「しゃべれよ!」
「、、」
「さっきまであんなにしゃべっていたのに一体何なんだよ、人が質問したら、都合が悪くなったら黙りやがって!お前は単純に話を聞くことしかできねえのかよ!」
美里は胸が悪くなりながらも持ってきた写真を取り出すだめに、鞄へ手をかけた。返事をする、それよりもう、言葉が出なくて、美里は泣き出してしまいそうだった。これじゃあまるで聞き分けの悪い他人の子供に対するような態度だ。ここは料亭の一室なんかではなく大衆のレストランで、いくら形ばかり仕切られていたとしても、周りから目線を浴びていることをきっとこの人は知っている。自分とて、高橋を嫌いになりたくてこんなことをしているのじゃない。ふつうの女性のように結婚、それから婚約に対するあこがれだってある。けど高橋が浮気相手が居た、というよりも、それが女性でもなく男性に向けられているということ、ほぼ、いじきたなくだらしない気持ちで自分に手を付けてきたのだということを一度知ると、それに対する不満は大きくなり、今、すぐにこの縁談を壊してしまい、疑いや不満を解消し、自由を得られるのでなかったら、自分はきっとおかしくなるだろうと思った。そうして無言で目の前に見せられたその写真を高橋は目を丸くして見入った。
それからの高橋はまるで山が崩れるような感じになって、さっきまでの態度も打って変わって目に見えて優しくなった。それは美里に取り入るというよりもなにかひとつの、高橋がこれまで培ってきた仕事に対してしてきたような挑戦のようにも見えて、ほだされるよりも、一層高橋の本性が空恐ろしくなったほどだった。けれど高橋は、並々外れた熱意と話術を持っていたから、その話を聞いているうちに美里の方もなんだかそこまでも疑惑を抱いていることが馬鹿らしくなってくるのだった。高橋は時間をかけて美里の前で泣き、脅し、それから笑いを取り、
「それは、単なる趣味なんだよ・・・」
と美里に甘い声を掛けてくるころ、もう早くこの場から逃れて眠りたいという気持ちから、つい身体を許してしまったのだった。
ホテルの一室でスマートフォンの着信がなるので美里は目を覚まし、起き上がるとそれは高橋のスマートフォンが呼び出されている音だった。隣で眠り込んでいる、まるで野球の試合でも終えた後のようなさわやかな寝顔の高橋を見て、あらゆる、この人の身の回りにあることはすべて、同じようにまるで貨幣に換金できるような価値なのだろうと思う。それからあることを思いつく。高橋は泥酔していた(そのため、なかなか勃たずに入れるまでかなり時間がかかった。)ためその指紋認証のロックを開けるのはたやすかった。
ああ、またひとつ、敷居を踏み外してしまった。そうさせるのはほかでもない、わだかまりとなっていった胸のつかえのせいで、美里はどうか手が震えませんようにと願う。スクロールされていく画面を見ながら美里は、高橋から吐かれた言葉をいくつも思い出していた。・・・この人は絶対にわたしのことを好きだという態度を見せなかったな、と思う。それは、彼があえて言わなかったというようにも思えたし、あるいはまるきり思いつかず、描くのを忘れてしまったようなこととして、そこにぽっかりと空いた穴のように美里の前に姿を現していた。つい、彼の「恋人」のことが思い出された。そうするころ、LINEの中にひとつの名前と、意味深なやり取りを見つけだして、美里は大きくため息をつく。
昨日のやり取りの中でも高橋は弁舌たくましかった。あんなにいろいろごたくを並べられるのに、高橋は一度も彼とのことを嘘だったのだと言わなかった。そのたった一言でできることを、美里の不安を解消しようとは決してしなかった。その考えは、暗雲が深くなるさまと似ていて、そうされてきたことは、試合中ならば誰もが持つ大事なボールを手渡されないままでその舞台へと載せられてしまったような、ほとんど暗い侮辱として美里の心の空虚さをいっそう大きくした。
美里は、ある電話番号に電話をかけている。美里のマンションの一室で、今日は日曜日の早朝だからまだ周りは静まり返っている。これがもし、10時を過ぎると隣の部屋から子供たちの声が聞こえてきたり、車の音も大きくなる。
電話番号を押し終えると電話は何度かコール音が鳴り、思っていたよりも早く声がした。
「・・・・もしもし。」
「もしもし。朝早くからすみません。あの、わたし・・・高橋の婚約者なんですけど」
「・・・・・ああ、はい」
「あの。突然で申し訳ないんですが、今から会って話したりできませんか?
仕事、入ってますか?」
「・・・・・・・・・・・」
長い間があり、小さい声でちょっと待って、といったあと、手帳を取り出して戻って来たのか、その相手が「いいですよ。二時間ほどなら」と応える。
美里は電話を切り、それから外へ出る支度を始める。
待ち合わせ場所に来たのはおそらく美里よりもずっと若い、まだ大学生と言ってもいいくらいの青年だった。LINEで見たときには「ほしの」という表記で、熊のぬいぐるみの写真をアイコンに使っていたけれど、思っていたほど子供っぽくはない。
「すみません。突然呼び出してしまったりして」美里が、青年の前で軽く頭を下げる。
「いえ、いえ。いいんです。何なら僕から連絡を取ろうかと思っていたくらいですから。」
予想のしていなかった返事に、美里がためらっていると、星野キミヒコですと青年が名乗る。
「星野さん。あの、その辺の喫茶店で大丈夫ですか?」
「いいですよ」自身満々に答える星野に、美里はわけのわからぬ不安を覚える。その感触は、まったくもって知らない人と相対するときの気持ちで、「夫」となるはずだった人の、「恋人」だったのだと、自分へ言い聞かせる。
席に付き、お互いにコーヒーを注文した後で、しばらく間が空いてしまった。沈黙を破るように、それからたまりかねて、美里が「どうして連絡をしようとしたんですか」と口を開く。それに対して星野は、品定めでもするように美里の方をじろじろと見た後で、「あの人」と窓の外を見ながら呟くように言う。
「あの人は人間じゃないよ」
「・・・・」
「その前に、あなたはなぜ僕に連絡したんですか?」
「ええ。すみません。つい・・・ちょっと混乱していて。
実は、単刀直入に言いますが、あなたと高橋との関係を調査させてもらいました。昨日、LINEも見ました。」
青年が急に笑い出す。「あれ、見たの!?」
「しょうもないやり取りだったでしょ?・・・あんなでも、あれが上司なんだから対応しなきゃいけないんだよ。疲れるよ、ビジネスマンは」
「・・・・・深い関係みたいで」
「・・・・あのさあ、知ってるかな。鈴木さんだったかな。」星野は大きな声を出す。
「ええ。鈴木美里です」
「こういう社会で、上に行くためには一体何をすればいいのか知っているかな。あなたは、社会経験はあるみたいだけど」
「そうですね。でも事務なので、高橋さんの仕事内容ほどには。」
「俺みたいに生まれも育ちも良くないのと、高橋みたいに家柄がもともと良いのでは、人からの扱いは雲泥の差がある。俺は、何も持っていないから、ある程度まではいけるんだけど、その先がどうにもならない。まるでこれって、昔の身分差が残っているみたいだよなあ。知らなかったよ。そうと知っていたら・・・・借金してでももっと勉強してきたのにな。
・・・・ああ、けど、高橋さんはそれを抜きにしてもかなり出来る。あこがれていたんだよ。はじめは、俺も・・・・」
「・・・・」
「君も、わかるだろう。あいつの立ち位置や、家柄のこと」
「ええ。
・・・スーツだけ、高くって。」
星野がぶっと吹き出したちょうどそのころ、コーヒーが運ばれて来た。二人はしばらくそれを眺め、美里だけコーヒーに手を付ける。はじめは美里がたまりかねて連絡をしたのに、今度感傷にふけっているのは星野の方だった。
しばらく黙り込んだ後でなんとなく空気を察した美里は、なんと声をかければよいのか思案していた。
「あの人、言っていたよ。あなたのことも。」
「え、なんて」
「あの人は辞めた方がいいよ」
「・・・・」
「あいつは、狂ってるから。君にしたことと同じことを僕にやらせるんだよ。考えられるか。あいつ、あなたの写真も持っていたよ。あられもない写真だよ。いつ撮らせたんだ?僕も撮られたんだ。僕は良いと言っていないのに、腕力じゃない。あいつは、俺たちの親切心や、憧れや、尊敬までもぐちゃぐちゃに食ったうえで、またさらにその上に自分の城を築こうとしているんだ。考えられるか。あいつ・・・・・
ふみにじりやがった・・・・・・・・俺は・・・・・・・」
星野は言葉を詰まらせる。ああ、そうだったのか、と美里は思う。あのLINE。まるで酔っ払いと子供、それから大人と恋人と立ち位置、キャラクターを巧みに変幻させながらも、相手から何か都合のいい言葉を話させようと高橋はする。高橋の手にかかれば、相手がまるで自分が望んでそうしているかのように見えるのだった。時には論調鋭く相手の欠点を見抜き、それをいつまでも責めたて、自分の方へと気が向くように仕向ける。些細な失敗への罵倒を受け続けて頭が混乱してきたところに優しい言葉を投げかけ、視界が狭まり、孤立を深めたところに自分ならばすべて解決できるようなそぶりを見せる。
美里も、そのさなかにいるときはよくわけがわからなくなった。けれど、もしかすると星野も同じことをずっと、苦悩していたのかもしれない。そのわだかまりを解けない自分に苛立ち、自分よりも何倍も強い欲求を持つ、支配者を満足させるためだけになる日々。絶対に吐き出せない憎しみ。
目の前にいる星野を見ていて、昨日まで自分も同じように泣き出したい気分だったのに、まるで幼児が泣いているみたいだ、と美里は思う。もらえると思い期待していたはずの愛着や信頼をもらえず、その代わりにそこへ支配欲と性欲を注ぎ込まれ続け、それに傷つき疲れ果てている子ども。
「・・・・あの、ちょっと聞いてもいいですか?」
「なに?」
星野はぶっきらぼうに答える。涙は出ていないようだったが、声がまだ小さい。
「初めに、連絡取ろうかと思っていたって言ったじゃないですか。こういうことを話そうとしていたの?」
「うん、いや・・・何だろう。俺もわからないけど。
多分、こうじゃないかな。君に嫌がらせをして、彼の本当の人格を知らせてやって、二人がどうなるのかを見てみたかった。」
「・・・・」
「破滅してほしかったんだ。どちらかというと、高橋に。いや、でも、よく考えたらそんなことをしてもきっと無駄だったろうな。あいつは、自分以外の人間が苦しんでいることさえもすべて、糧だから。僕が連絡しようとしていたのは、少なくともあなたを救うためじゃない。会ったら、どうでもよくなったけど。
なんだか僕たち、やられちまった羊って感じだ」
「・・・・でも、あなたは関係を続けるつもりなんでしょ?私はもう、本当に無理なんです。会社、辞めるかもしれません。かも、じゃないな。辞めるしかないもの」
「フーン。復讐しようとか思わないの?」
「高橋にですか?そんなこと、誰か今まで遂げたことのある人がいると思います?」
「いや・・・・ないな。けど、写真は。」
「・・・それは、今日初めて知ったし。けど別に、私処女でもなんでもないから。
相談します。弁護士に・・・辞めます。わたし・・・婚約も破棄します。」
美里が話し終えると星野は黙り込んでしまう。それからぽつぽつと、中身のないような話をお互いに続けているうち、初めに会った印象と違って星野は、高卒ではあるものの若い頃から苦労してきた青年特有の素直さと明るさを持つ青年だったので、思っていたよりも話がはずんだ。
大分時間が経過したころに、店を二人で出る。休みの日の早朝だったけれど次第に客が入ってくる時間だったので、店内はざわざわし始めていた。
それから、待ち合わせていた駅の方へと二人でなんとなく並んで歩いていく。
駅のホームが見えて来たころでそれじゃあ、と美里が言って別れようとすると、星野が美里の腕を掴んでとらえる。美里が振り向くと「また、今度会いましょう。連絡します。写真のこともあるし」と星野が言い、その日は見せなかった笑顔を見せた。
三日経ち、まだ高橋や、身の回りの人間への報告は済んでいないが、とりあえず家族には美里はすべてを話した。母は泣きながら美里の身の回りを心配したが、そのころにはおかしなことだけれど気丈な気持ちになっていた。いやがらせをされるかもしれない、と父親は言い、実家へ帰ってくるように言うが、とりあえずまた電話するかもしれない、と言って電話を切った。とにかく自分は、このことがすべて解消されるまでは動けないのだと思う。
星野からの連絡も来ていない。同僚や友人は皆詮索好きで、年中うわさをしているような人たちしかいなかったためまだ、何も告げていない。気の許せる友人には会社を辞めることだけを告げた。友人は、美里の顔色を見たせいか、ふうんそうなんだ、と言い、自分が転職したころのエピソードなんかを話はじめた。
美里の家に、また一通の草色の封筒が届いた。
一通はまた、十年以上前に美里が書いた詩で、美里はその時、仕事を定時で終えてから高橋の上司への約束を取り付け、両親へのメールを打ち込んだ後だった。コートを脱ぎ、ダイレクトメールの封を開ける気力もないままでシャワーへ入ったあとで、ソファに座る。しばらくしてテーブルの上にたまった手紙や請求書類の中から、来ていたことを知っていた、かなえからの手紙の封を開けようと、そばにあったはさみで切りこみを入れる。そこには以前の二通と同じように、美里がかつて書いた詩と、それからもう一通の便せんが入っていたのだけれど、自分でも気が付かないうちにそれを読んでいて泣き出してしまったのだった。
それから、かなえのことを思い出した。詩の題は「何も知らない私たち」で、たしかに、自分たちはまだ何も知らなかったのだなと思う。そう考えると、あまりにも不可解で、明瞭さに欠けていたあの頃の自分達のことがなつかしくなり、流れて来る涙はとまらずに次第に嗚咽のような音を立てていた。もしかすると、これまで溜め込んできたものを、まだ自分はあの時に漏らした星野ほども誰かに打ち明けられていないのかもしれないと感じた。期待、それから尊敬。恋にも似たような気持ちや、憧れ。それを最初に会った頃は高橋にも持ち合わせていた。あの頃、十年前、まだ学生だった自分や、かなえたちとの中に起きるような憧れ、それからかなえに対する淡い支配欲のような、それから恋ともつかないような気持ちを、なんと名付けて良いのかもわからないまま、それからそれを必然などとも思わないままで当たり前のように毎日を過ごしていた。そこから、自分のような人間が零れ落ちたり、喧嘩をしたり、いくつかのカップルが生まれたりなどする。けど、自分はかなえを支配していなかった、と思う。多分。なぜだかそのことを、今かなえに聞きたくてたまらなくなったのだった。
二枚目には多分、かなえの筆跡で「おげんきにしていますか」とだけ書いてあった。
退職することの跡片付けや引継ぎ、それから高橋からの連絡をすべて録音し弁護士に回すなどしているうち、一週間はあわただしく過ぎ去っていった。その中で星野から数回連絡があり、美里が退職を半月後に控えるなか自分たちは会うことになった。場所は、星野の提案で駅に併設して建てられたこじんまりとした水族館にした。
水族館の入り口で落ち合うと、星野はこの間よりもいくらかおしゃれをして来たようだった。まるで、以前からの友人や恋人と会うみたいに「こんにちは」と言って微笑む星野を見ていると、美里はなんだかおかしな気持ちになる。
並びながら、事務的な感じでもうすぐ退職すること、弁護士との話し合いが思った通りに進んで、写真は星野のおかげで取り消せそうだということを話した。星野さんはどうするのだろう、と美里は考え、なんとなく言い出せないままで水槽を二人で見ていく。「ちょっと、お手洗い行ってきてもいい?」美里はエイの餌やりショーを見たあとで、星野にそう告げて、トイレの案内を探すために歩き出そうとすると、星野が美里の腕をつかんで「そっちじゃないよ。こっち」と女子トイレの方を示す。
「本当だ。ありがとう」そう告げ、高橋はこんなことしなかったなあなどと、余計なことを考える。こんなふうにひとつひとつの癖や話す内容なんかもそれぞれが対照的ともいえるほどに二人は違っていて、それがなんだか面白くなっていた。
星野は感極まると多弁になるようだし、高橋は黙り込み、装おうとする。
高橋はいろいろなことを冗談と言ってごまかすのに、星野はいちいち突っ込んで聞いてくる。
こうやって並べてみると、高橋が兄で、星野が弟で、お互いに無い部分を補い合いながら時間を過ごしていたような関係性が容易に想像できた。ああ、そうか、高橋も高橋で、星野の良いところに本当に惹かれていたのかもしれないなあ、と美里は思う。そう思うたび、一般的な幸福が自分の手にも来るはずだと、希望とも思えないほど当たり前に感じていた時の自分との落差に胸は一瞬沈むのだけど、目の前で星野が楽しそうにしているのを見ていると、部屋で一人で考えていたときや、調査の依頼をした時ほど暗い気持ちにはならなかった。
通路のほとんどは薄暗がりに設定されていて、間接的な照明が魚たちに注ぎ、魚は美しい身体を観客に見せながら泳いでいて、まるでファンタジーの中に入ってしまったみたいだった。普段は見ることの出来ないものを、多くの人たちの努力のおかげで、白昼からこんなふうに見ることが出来ている。水族館にわけもなくわくわくするのは、本来なら見ることのできないものを、切り取って見ることが出来るからだと思った。そして魚たちは、見られることを前提にはされていないのに、皆がユニークだったし、綺麗だった。こんなに何も持っていなくても、何も知らなくても、それから若いだけで周りさえも哀しくなるような煌めきを放ちながら、生きている姿をこの中で見せられている。魚は、そんなことなど意識しないままで、ただひたすらに泳ぐ。そのひたすらに、美里達も感情移入などしたりしないで、ただ、綺麗だとかすごいとか声を上げて騒いで通り過ぎていく。
今日の星野は普通の若い青年にしか見えず、水槽の前でたちどまり、いちいちその感想を、美里に言ってみせたりした。
ここにいるのは普通のカップルや家族連ればかりで、その中にいる自分たちを繋ぎとめているのがたった一人、高橋という人間のしてきたことと、それがまだ結論も出ていない最中にいる、そのことがまるで嘘のように思えてくる。星野が楽しそうにするたび、美里はそれが空元気に見えることがあったし、星野の喜怒哀楽は出し抜けで、人のことを考えていない子供のようで、美里はそれを見るたびに、不思議な気持ちが生まれてくるのを感じた。それは感傷や失望とは違い、不思議と不意にこの場で湧いてくる怒りの感情だった。
喫茶店で今にも泣きだしそうだった星野は、あの後でその顔をもうまったく見せない。けど、こんなに感情豊かな人を高橋は誰にも知らせずに自分のものにしようとし続けている。
クラゲが漂う水槽は人気があるようで、家族連れと何人かのカップルが円錐状の水槽の前で立ち尽くしてそれに見入っていた。美里と星野もそれを見て、人の流れに沿って歩いていく。そのとき、館内放送でこれからショーが始まる説明が流れる。
「ちょうど十分後だって。行く?もうほとんど見終わったし」星野が時計を覗き込みながら言う。
「うん、いいよ」
美里もそれに連れ立って、星野の後ろを歩いていく。ショーがあるのは一階の、テラスのような場所を通り抜けた館内にある。美里は自動販売機で飲み物を買い、その間星野は柵にもたれかかって家族連れを眺めている。
飲料水を買った美里と星野は館内へと入っていく。外観とは違い、中は水の腐食で錆びているところや、かびで階段がところどころ緑色がかっている場所がある。そこを、館内放送を聞きつけた客がどっと流れていく。館内はほとんどの席が既に客で埋まっていて、二人は通路が空いている場所の、人々の塊の間から顔を出して、静まってはいるが、人々の声のせいで波打っているように見える大きなプールを見ている。
しばらく経つと館内放送がかかり、アシカと、飼育員がそこへ歩いて出てくる。短い説明でショーがはじまり、アシカはお立ち台へ上がったかと思うと、飼育員の指示のとおりに戯けた仕草をしたり、お辞儀をしたり、くるりとまわったりする。隣の子供が歓声をあげて、その夫婦も笑い声をあげる。かわいらしい、というよりも、滑稽な、という方が似合っていた。美里も、はじめはアシカの動きを不思議な気持ちで眺めていたけれど、飼育員の誘導がうまかったため思わず笑ってしまい、隣にいる星野の様子をちらりと見てみる。そこに星野は居らず、ひと一人分のスペースがぽっかりと空いている。
(どこへ行ったんだろう?)
ショーはものの十五分ほどで終わり、次回のショー開催時間が進行役の飼育員から説明された後で、ひとびとが再びどっと流れ出す。気づくと、頭二つぶんほどうしろに星野が困惑したような顔で立っており、美里と目が合うと見つけたとばかりに笑いかける。
ショーをする場所を出た後で、開けたスペースに出る。目の前にある大きな鮫やエイがおよぐ水槽の前にあるベンチに、二人は腰掛ける。
「さっき、どこ行ってたの?」美里がきくと、星野はトイレ、と答えて、美里の隣で足を組んだかと思うと先程出た場所で買った缶コーヒーを開けて飲む。美里も、それに合わせて水を取り出して飲む。
「ここは、アシカのショーしかやってないんだね。面白かったけど、あんなにすぐ終わると思わなかった」
「うーん、そうだね。」
二人でしばらく、水槽の前でひとが流れていくのを見ている。
「見たかった?」
「え?」
「いるかのショー見たかった?」
「ああ。そうだね。イルカ、見て見たかったかも」
「…」
「ていうか、見たい見たくない以前に、水族館のショーって言えばイルカのショーがあるのが当たり前だと思っていたから、ちょっとびっくりしたっていう気持ちかも」
「ふうん。」
「…」
「いるかってさあ、でかいよな」
「え、まあ、そうだね」
「いるか、ってさあ、見たいって思うじゃん。…で、友達とか彼女誘って見に行ったりするじゃない。そうしたら、想像してたイルカの二倍くらいはでかいんだよな」
美里は笑って「たしかに、そうかもね。けど鮫も、思ってたより大きくてびっくりするよ」
「うーん…鮫は、まあそうだけど。けど、びっくりしない?いるかって、小さい頃から何回も見ているはずなのに、目の前で見るたびにいつも俺は、ウワー!って思うし、それにジャンプの高さもありえない」
「ああ、そうだね。そう言われると、見たくなってきたかも」
「そう?」星野は美里の方をのぞき込む。
「うん。」
「俺、アシカ嫌いなんだ」
「へ、そうなの。」
「うん。何か、アシカってさあ、人みたいだよ」
「…だからもしかしてさっきいなくなってたの?」
「そういうわけじゃないけど。」そう言って星野は、うしろに何があるわけでもないのに、顔を背けて見せる。
「こじんまりしやがって、って思うよ」星野は、呟くようにして言う。「それに比べるとイルカはすごいと思う。大きいし、それに閉じ込められているのにすごいジャンプをして、ここが狭い陸地だってことを感じさせない。皆に歓声を挙げさせるし。」うーん、と美里は応える。
「ねえ、今度イルカ見に行こうよ。俺の実家の近くに、イルカいる水族館あるから。バスに、三十分くらい乗らなきゃならないけど」
「良いけど、でもなんで?」
「なんで…なんで、って、いる?」星野が、頭をかきながらこぼす。
「ねえ、もしかしてさあ、あなたって、アシカもそうだけど家族連れも苦手なんじゃない?」
「え?」
「だって、何かさっきから落ち着きがないし。ショー、すごいいっぱい人いるよね。わたしも子どもあまり得意じゃないけど、こう、訳もなく元気な人から押されるの、星野くんはもしかすると嫌なのかなあと思って。わたし帰っちゃったのかと思ったもん」
「…うーん。まあそういうわけでもないんですけど」
「…」
「でもさあ、水族館は大好きなんだ」
星野は言う。
「わたしも、結構好き。ここで会うってことにはびっくりしたけど」
「そう?でも俺、結構来るよ、ここ」
「どれくらい?」
「どれくらい、って…例えば、待ち合わせだとか」
「ええ」
「全然好きじゃない人とかとも来るよ。」
「…」
「あと、付き合うか付き合わないか、どうしようかなっていう人とも来る」
「ふーん」
「ああ、でも、確かにそうかも」
美里が、隣にいる星野の方を見る。「嫌いかもな、俺。家族連れとか…」
「ふうん。で、イルカは大好きなんだ」
「うんそう」
ふううん、と言って、美里はちらりと時計の方を見る。もう既に初めにあった時から二時間は経過していて、時計の長い針が十二時ちょうどをもう直ぐに指そうとしている。
「どうする?」
「え、なに」
「報告終わったし、アシカ、一応見たし、解散する?それとも、お昼ご飯食べに行く?」
「ああ、そういうこと。俺は、どっちでもいいよ。このあと、動物園へいってもいいし」
「えー!」
「美里さんは、動物園の方が好きだろ。」
「動物園…そんなに好きじゃないけど」
「え、そうなんだ。もう、でも見終わったし、とりあえず出よう。」星野は立ち上がり、美里もつられて立ち上がる。出口付近まで行ったところで、星野は美里を呼び止めるために、先を歩いていた美里の腕を取る。
「ちょっと、ごめん。買い物してくるからまっててくれる?」
「うん、分かった」
じつは、こんなふうに星野が美里を呼び止め腕を引っ張るたび、美里はなんとも言えないような気持になる。
(かわいそうなひと)
美里は、星野が笑うたびに、どうしてもそう思えた。世間から見れば、どう考えても哀れみを受けるのは美里の方だろうと思えたのに、けど、星野の明るさが、自分がどんな風に見えているのか全て知っていながらもあえてする無防備さが、そう思わせていた。今、ここで会っているのは人と人との縁の一番最後尾に戸惑いながら並んでいるような瞬間でしかなく、自分たちの関係はまだ何ともつかない、淡い、それも、醜悪なことに対する共感のようなものでしかなかった。それを忘れて星野がやさしくするたび、美里はそれがいつまでも続くわけがない、進んでしているのでしかない思い込みのように思えて仕方がなかった。
もし自分が、明日から星野と連絡を取るのを辞めたり、世間体を気にして会うのを拒んだりすればすぐに無くなってしまう関係なのだろう、と美里は、ここは来る前から思っていた。星野はけれども、そんな前提などないかのように美里に接しようとする。(なんのためだろう?一体この人はなにがしたいんだろう?)美里は、売店にいる星野が買い物をしている様子を見ていた。まだ若くて、細い体に、流行のファッションをまとっている様子。それと比べると、自分は結婚もお流れになり、何も手には持っていない、ふらふらと行き場をなくしてしまったいい歳の女でしかなかった。
「ねえ、あなたって、すごく人の腕つかむ人なんだね」
美里は、戻ってきた星野に言う。
「えっ。そうかなあ。」二人、歩きながら話す。
「うん。」
「えっ…ごめん。痛かった?」
「痛くないけど、いや、何か、誰とでも仲良くするのが普通の人なんだなあと思って。」
「え?そんなことないよ」
「兄弟とかいる?」
「うーん、一応いるけど、姉しかいないよ。なんで?」
「ううん、何か、似合ってるなと思って。そういう…立ち位置みたいのが」
「よく分からないけど。ちょっと、美里さん、手出してみて」
「え?」
「いいから。」
星野は、水族館から出た後で長く続く、植え込みが点々と続く広場を歩いていて、その道のさなかから脇に避けるよう、星野は美里を引っ張ってきた上で右手を掴んで出させる。
「そうじゃなくて、こう。そうそう」
美里は導かれるままに腕を前に突き出し、手の甲を空の方へ向ける。
星野が何かごそごそとしていると思うと、何かを美里の指にぶら下げる。「なに」美里が手を寄せそれを見ようとするのを制して、星野は美里の指先まで自分の顔を近づけて、指の先に唇を当てて見せる。
美里が驚いて、手を引っ込めると、星野は満足げにニヤニヤと笑っている。美里が、自分の中指にぶら下げられたものを見てみると、それは水族館で大量に売られていた、鈴付きのペンギンのキーホルダーだった。
「それ、あげる」
「…ありがとう」
「びっくりした?」
「びっくりしたけど…」
「美里さんって、俺のこと嫌い?」
「いや、嫌いじゃないけど」
美里の戸惑いとは裏腹に、星野は満足げにして再び道を歩きだす。
「…俺さあ、高橋さんと結構いろいろなところへ行ったんだ。
…こういう話してもいい?」
「うん」星野の陽気におされて、よくない、とは言い出せそうにもない。
「で、さあ、何かよく分からないままに思い出とかも沢山あるんだよな。」
「ふうん」
「…高橋さんて、結構強引だろ。好きなもの、嫌いなものもはっきりしてるし。そういう前でいたら、俺は何もないなって感じていたけど、でもそれも心地よかったんだよな。
今日…なにかそう思った。はじめて思った。ここへ来てよかった、って思った。美里さん、ありがとう」
「うん。…わたしこそ、こんなものもらっちゃって」
星野はそれを聞き、笑い声を立てたかと思うと、やっぱり、なにも考えていない、と言って笑う。美里が、一体何だろうと思って星野の方を見る。
「俺、さあ、姉は居るけど実は、両親いなくって、母親の姉夫婦の所で育ったんだ。」
「そうなの。」
「さっき、聞いてきたから」
「ああ。星野くん、何か弟っぽいなと思って」
「俺が?」
「うん。何かね、すごくいろいろなこと喜ぶし、いつも楽しそうじゃない。」
えー、そうかなあと星野は答え、何か考えるように遠く向こうを見ながら歩く。
「楽しそうに見えてた?俺ってまさか、子どもみたい?」
「そんなことないけど、ただ、高橋さんと随分タイプ違うし、それに、なんか変な感じ」
「へん?変って、例えば?」
「えっ。すべて……かな…
何か、ここにいて良いのかなって思ってたもの」
「え、そう?いつも俺らはこんな感じだったけどなー。適当に…ああ、そうか。きみは、婚約者だったものな。」
「…」美里も星野も、休日で人の流れの多い道から外れた敷地内を足をぶらぶらとさせて歩いている。
「…俺はさあ、恥ずかしいんだけど俺は、高橋が俺の事注目してくれた時、おれはやった!と思っていて、ずっと。
だから美里さんのこと、会うまで本当は嫌いだったんだなって思った」
「ふーん、そうなんだ」
「そうだよ。」
通りを抜け、二人で並んで信号待ちをしている。
「それから仕事していくうち、なんていうか高橋は、仕事っていうものにキチンと向き合う人なんだなと思った。」
「うん」
「…いろいろ教えてもらったよ。何か、そう、多分父親みたいって思ってたんだろうな。俺は自分のこと、本当はずっと嫌いだったからさ」
「え、高橋が?」
「そう。」
「ちょっと意外」
「なに?俺?高橋が?」
「うん。だって彼はわたしの前だと、なんていうかもともと男って感じで現れたから。」
「ふうん」
「なんか、ミョーな気分」
「思い出したくない?」
「うん。」
「…ふうん。そんなもの?」
すごく傷付いた。
美里はこれまでの当たり前にあった日々がまだ自分の日常に絡みついていることを思い出し、何度目かにそう思う。
「だから別れたの。」
「…うん。」
「あなたこそ、これからどうするの」
いや、まあ、ぼちぼち、と星野は呟いて、所在なさそうに頭をかく。
「美里さんはさあ、こんなこと言ったらあれだけど、その…ぜんぜん美人とかじゃないよな」
「そ、そんなこと思ってたの?」
「うん。悪いけど俺、はじめ会うまでは、どんなタマだよって思ってたから。」
「ひっど」美里はわらう。
「けど美里さんてさ、普通過ぎるくらいに普通だし、結構何もかもやってもらうタイプの人じゃない。
高橋ってさあ、そういうのが好きなんじゃない?」
星野は言いたい事を言い終えると、一人だけすっきりしたかのように上を見上げた。
美里はそれを隣で眺めながら、そんな事を考えたこともなかったと思う。
美里にとって、今も鮮明に浮かんでくるのは星野を始めて知った時のことで、高橋の車内で絡み合っていた星野の写真のことだった。それがさっきまで、遠い水族館という巨大な暗闇の中で、ふたたび会った星野と、その写真と、いまここにいる若い男の子はまったく違う存在として感じられていた。
あのときまだ自分は、それが心地よかったのだと思う。けれど、…それを問われると、星野は自分の事など知らなくても、美里は女みたいに見える星野の顔を知っているのだと思う。
そのことはまだ言えそうになかった。
ふたたび星野の顔を見る。明るい日のもとでお互いのことをこんなふうにして、見せられている。そうするとそれは普通の空間で今しがた合い、共通点を求め合っているだけの他人同士ではじめから本当はあるべきだったと思った。
「…」
ごく普通の青年がなぜか自分の隣に居るのを、さっきから当たり前のようにまだ追っている。
…もし、あの時電話をかけていなかったら。もし我慢をして自分の気持ちに蓋をしていたら…美里は思う。目の前にあるこの真実を見ないままで高橋と、きれいに別れようとしていたら。
それから星野が言ってきたことは、星野が持つ言葉に合わせて、美里のことを傷付けないようにと彼の手元から離されるようなフィクションの類だったのだろうと思った。
美里はここへ来るまで、それから星野に連絡する前に抱いていた気持ちをようやく思い出す。
「勘違いだよ。」
「え。…そうかなあ」
「星野くんやさしいんだね」
「まさか。」
「高橋よりもぜんぜん、やさしい」
「えっ…」
星野は笑い、好きじゃない人とかたちだけだとしても結婚なんてするかな。俺はしないな。とつぶやく。
「だって…」現に浮気もしていたじゃない、あなたと。と言いかけて、美里は黙る。
「ねえ」
「ん」
「俺もさあ、頑張って高橋とは縁切るよ。仕事変える。」
「ふうん」
「それから、自分一人でどうにかやってみるよ。
…そうしたらもう一回、会ってもらえる?」
美里は星野の顔を見る。それから星野が笑っているのを見て、つられて口を開く。
「うーん、うん、分かった。
お互いに頑張るっていうことだよね。これからも」
「うん。」
星野は握手を求めてくる。
ビジネスマンかよ、と思い美里は笑ってしまいそうになる。
「うふふふ」
「なに」
「星野くんてさ、見た目よりずっと男気あるんだね」
「え、そうだよ。気づかなかった?」星野は美里の顔を覗き込み、おどけた感じで言う。
「うん」美里は笑い、こんな関係、あり得るのかなと妙な気持ちで思う。
星野は、そこまで美里と同じペースで歩いて来たかと思うと、不意に立ち止まり、数歩先を歩く美咲が振り向こうとしたときに大きな声で、「やってやるぞ!!」と言う。
驚きふりむく美里。
目の前で、星野は、「埋めて見せるからな!何もかも全部!」と叫ぶ。
駅前通りに集まる通行人が当然皆こちらの方を向く。
「これくらいでいいだろ。」星野は、通行人を意に介さずそのまま、颯爽と歩きだす。
(び、びっくりした…)
美里は数歩先の星野の影を追いかけるように歩く。そうして、しばらく歩き、駅近くまで来たところで「じゃあ」と美里が言う。
「…わかった。」星野は口ごもりつつ、応える。
「じゃあ、また」
「…」
一度、黙り込んだあとで星野が再び美里に握手を求めて来る。
美里は仕方なく手を出して見る。
星野がそれを握り返し、「美里さん、僕のこと嫌い?」と言う。
「ええっ…だから、嫌いじゃないよ」
「じゃあ」
「…」
「何か言ってよ。」
「…何」
「あなたはさ、高橋から愛されてたんだよ。」
「…どこが?」
「お互い様だよ。」
お互いさま?美里は思うが、きっと星野は星野なりの素直さで周りを見、ほんとうにそう感じているのだろうと思った。それからはじめて美里は微笑んでそれに応えようとする。
ー高橋がいなければ、そもそもこんなふうにならなかっただろう。
「けどそのことを高橋が思い出すことはないよ。」
「…」美里は星野の手を握りながらうなずく。
「…それはあんな人が思い出すような事じゃなくなったんだ」
「…うん」
「美里さん」
「…ん?」
「帰るんだったら、何か言ってよ。高橋ともこれまでとの事とも関係なく、僕に向かって、何か…君の方から言ってみてよ」
美里は星野の顔を見る。
「僕たちなら、これから、ちゃんとした関係を築いて行けるんじゃない?」
「…」
「美里さんはさ、…」
「え…」
「そうやってわざわざ、隙があるそぶりをして、僕が引き留めるの待っているんだろう。」
一瞬、ふざけて言っているのかもしれないと思うが、見れば星野は真剣な顔をして言っている。
…そんな事まで考えていただろうか、と美里は思う。
「僕はそう思ったよ。」
「そんな事」
「…でさ。」
「うん」
「きちんとさ、そういうことちゃんと、嬉しいって言ってほしいな。僕は美里さんの声を受け取ってこうやってしてるんだから。
それ。
僕があげたやつ。しまわないでちゃんと見える場所に付けておいてよ」
星野は、そう言うと、行こう、と言って美里の手を取る。
それは痛いくらいの強さで、星野自身もそれに戸惑ったのかすぐに強さを緩める。
美里も戸惑う。星野の言葉に、美里のために手を緩めることに、それから前を歩く速さに戸惑う。
そうして星野のひとつひとつの挙動、選択、美里に投げつけてくる言葉のすべてから、今日の星野の気持ちがいたいほど伝わって来ていた事を美里は思い出す。
それから歩きながらーつられて歩きながら美里はふたたび、二人のことを考えて笑ってしまいそうになる。
願望 朝川渉 @watar_1210
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