罪にさよならを、愛に救いを

未唯子

第1話.幸せを綴る愚かさ

 青春の煌めき。戻りたくても戻れないあの日。


「30歳になってもお互いに独身だったらさ、結婚しよーぜ」


 卒業式。そんな大事な日なのにいつも通り寝癖のついた髪。風に揺らしたキミが笑う。本気にしてはいけない戯言。幼いが故の無知。むず痒さに胸が痛む。それでも手放せない宝石。

 そんな遺物を最近よく思い出す。声も匂いも笑った顔すらもハッキリと思い出せないのに。





 忙しない朝だ。「あーん、起こしてよ〜」と子供みたいな声を上げた凌介が歯ブラシに歯磨き粉をつけた。明らかにつけすぎてしまった事実に凌介は顔を顰めたが、そんなことは瑣末すぎて気にしてはいられない。今は仕事に遅刻しないことが最重要事項だ。


「何回も起こしたよ〜?」


 朝ごはんは?と尋ねた私に、口の端を泡まみれにした凌介は頭を左右に振って答えた。すでに作ってしまっていたが、私が2人分食べれば無駄になることはない。だから別にいいのだ。


「やべ、行ってくるわ!」


 ジャケットを手に持ったまま凌介は私の頬に軽くキスをした。どれだけ遅刻しそうでも凌介は寝癖を整え、基礎化粧品や日焼け止めを肌に塗り、香水を纏う。「いってらっしゃい、気をつけてね」と送り出した凌介を、寝坊して遅刻ギリギリだったとは誰も思わない。いつも通り、爽やかで格好いい、長内凌介だ。


 凌介を送り出したら残った家事を済ませ、私も仕事へ行く準備を始めた。大学卒業後に就職した会社は凌介との結婚を機に退職した。凌介が強くそう願ったことが最たる理由だったけれど、私も私で大して仕事への未練などなかった。真面目に一生懸命頑張ってはいたが、凌介の願いに反抗し、私の人生を懸けてまでやっていきたいものではなかったのだ。結局一人で家にいることに息が詰まりだしたので、頼み込んでパートに出させてもらったことには失笑を禁じ得ないけれど。


 私がパートをしている午前中から夕方までの時間は主婦が多かった。それ以降は学生の子たちがシフトに入っている。

 私より少し上、いや、一回りほど上の主婦の先輩たちは暇を見つけては最近ワイドショーを賑わせている芸能人の不倫話で盛り上がっていた。


「まぁ、不倫は良くないことよ?だけどしたくなる気持ちも分かるよね〜」

「そうそう。あの人素敵だな、って思うこともあるよ」

「杏ちゃんは?」

「え、え、私ですか?!」


 突然振られた話題に必要以上に吃ってしまった。いや、話を聞きながら私はどうかな、と考えていたにはいた。だけど、私は……。


「杏ちゃんは思ったことないでしょ!だってあ〜んなに格好よくて優しいご主人がいるのよ」


 パート仲間の酒井さんが凌介を手放しに褒める。その言葉にこの場に居た全員がうんうんと深く頷いた。

 なぜみんなが凌介とことを知っているか。それは慰労会という名の飲み会の送り迎えをしてくれたり、凌介のたまの平日休みには私のパート先に顔を出して、みんなに差し入れをしてくれたり、ということがあったからだ。


「え〜、でも人生なにがあるか分からないですしね〜」


 そう言って話を合わせたのは勿論建前だ。そもそも私は不倫否定派。いや、肯定派がいるかどうかも分からないが。とりあえず、新たな人と恋を始めたいなら離婚してからお好きにどーぞ派に属している。なので不倫をする人の気が知れない。

 そして先ほどみんなが頷いたように、凌介はとても素敵な人なのだ。私の人生での最大の幸福は凌介と出会い結婚できたこと。そう思えるほど凌介に感謝や敬愛こそあれ、不満など万に一つもなかった。まぁつまりなんというか、不倫は他人事。私の生きている世界線では存在しない事象であった。




 パートはだいたい午後3時に終わる。そこからスーパーに晩ご飯の材料の買い出しに行って、帰宅。夕飯を作りながら凌介の帰りを待ち、2人でご飯を食べながら今日一日の出来事を話し合う。そんな平凡で平和な毎日が私の日常。そして守るべきもの。


「あっ、今度の日曜日はご飯どうする?」

「んー?日曜日?……あっ!結婚式か!」


 日曜日という単語を聞いた凌介はお箸を止めて首を傾げた。しかしすぐに思い出したようで「俺のことは気にせず、楽しんでおいでよ〜」と和かな笑みを見せた。


「高校の同級生だっけ?」

「そうそう。あ、新婦は男子バレー部のマネージャーしてたんだよ」

「へぇ。じゃあ、俺も見たことあるかな」


 凌介はそう言って記憶の引き出しを開けたようだが、結局「わっかんないなぁ」と困ったように眉尻を下げた。


「もう14年も前だもん。さすがに覚えてないでしょ」

「うへー、そんなになるかぁ。早いねぇ」

「ほんと、早いねぇ」

「ん、じゃあバレー部の奴らも来るの?結婚式」

「どうだろ?私、男友達とは誰一人として連絡取ってないから分かんないや」


 誰一人。そう言ったが、高校時代の男友達と呼べる存在は一人しかいなかった。

 御影徹志。彼はバレー部のキャプテンをしていた。クラスの男子やバレー部仲間といつも馬鹿騒ぎをしていた。かと思えば彼は高校生とは思えない懐の深さを持っており、明るく頼りになる彼をみんな慕っていた。私も彼としょうもない口喧嘩を毎日しながらも、彼を好いていた。いや、それはもちろん友達としての好意だ。


「まぁ、異性の友達なんてそんなもんか」

「そーそー、そんなもん」


 取るに足らない日常の会話を演出できただろうか。私だって数ヶ月前まで忘れていたのだ。それなのになぜか結婚式の招待状をもらった途端、私は御影徹志を思い出すようになった。後ろめたいことなどなにもない。学生時代の男友達。それなのに凌介へ彼の名前を口にすることは憚られた。


「ま、楽しんでおいでね」


 どこまでも優しい凌介。私の夫。何の不満もない結婚生活。それはこの先もずっと、未来永劫続くものだと信じていた。




 いつもは着ない華やかなワンピースを纏い、くるりと回ってみせた私に、凌介は「お〜、めっちゃ可愛い〜」と瞳を輝かせ拍手を送った。

 見る人が見れば大袈裟なお世辞だと眉を顰めるだろう。しかし凌介は至って真面目、本気の本気で私を褒めている。凌介は決して絶世の美女ではない私のことを"世界一可愛い"と心の底から思っているのだ。


「変じゃない?」

「うん、マジでめっちゃ可愛い。似合ってる。変な男が言い寄ってこないか心配!」

「……それはないから!」


 さすがに言い過ぎだと否定した私に、凌介の視線がもの言いたげに動いた。


「分かった……気をつけるね、言い寄られないように」


 自分で言ってて恥ずかしい。しかし凌介は満足そうな表情を見せたので、この言葉を欲していたのだろう。


「迎えに行くからね?」

「必要ならお願いするね」


 ニコリと笑って遠回しに遠慮を伝えたが、彼には上手く伝わっていないようだ。「ずっと起きてるから〜!」だなんて、冗談か本気か分からない言葉を並べて凌介は私を見送った。……いやいや、彼はもちろん本気だ。そんな彼の気持ちを考えると、次の日仕事なんだから、いつまでも待ってないで寝て、とは口が裂けても言えなかった。




 友達との待ち合わせ場所に着けば、ほぼ同時にやってきたリサが「久しぶり〜」と私の手を握った。


「ほんと久しぶり!え、何年?」

「ワタシの結婚式以来じゃない?だから……2年……?」

「うっそ……え……スピード感すごいね」

「ほんとほんと。あっという間だよねぇ」


 しみじみとした空気が漂う。普段はそんなこと意識もしていないが、学生時代の友人とこうしてたまに会えば時の流れの速さをどうしても感じてしまう。


「とりあえず式場に行こっか?」

「あ、待って待って。杏に言ってなかったんだけどさ、植田と御影も待ち合わせしてんの」

「そうなんだ!わ〜、久しぶりに2人の名前聞いたよ」

「ふふ。杏は会う機会がないもんね」


 女子バレー部だったリサは、今でもたまにバレー部の集まりで植田くんとも御影とも会っているようだった。


「てか、男バレの子たちも来るんだね」

「植田と御影だけね。二次会にはもう少し呼んでるって言ってたよ」


 同窓会みたいだな、と思うと同時に、どちらを着て行くか最後まで悩んだパンツスーツじゃなくてワンピースを着て来てよかった、と説明のつかない安心感を覚えた。


「わりぃ、待った?」

「あー、植田おっそーい」

「え、マジで待たせた?わりぃわりぃ。塚原も悪かったな」


 久しぶりに呼ばれた旧姓に気恥ずかしくなる。「全然、そんな待ってないよ」と肩をすくめれば、植田くんはホッと胸を撫で下ろした。


「ってか、塚原めっちゃ久しぶりじゃね?元気してた?」

「ほんと久しぶりだね!元気だったよー!植田くんは?」

「俺も元気元気!」


 バレー部の中では小柄な彼ーー恐らく日本人男性の平均身長ぐらいだろうーーは、私の中の記憶のままニコリと人懐っこい笑顔を見せた。


「植田くん結婚したんだよね?」

「ん?そうそう、割と前にね。そういう塚原も。噂では聞いてたよ、ほら、名城のキャプテン」

「長内凌介ね」


 植田くんの声に被さるように、随分と高い位置から声がした。私と植田くんに影がかかる。


「おっせーよ、徹志!」

「おいおい、お前もさっき来たばっかだろーが」


 俺は見てたぞ、とニヤリと意地の悪い笑みを浮かべたその人物は、上がった口角そのままに私へ視線を向けた。


「久しぶり、塚原」

「……御影。……全然変わってないね」

「え、それってどーゆー意味?今の俺は、大人の男の色気ムンムンだと思うけど?なぁ?」


 同意を求められた植田くんとリサはあからさまな苦笑いでそれをサラリと流した。正確には流せていない。遠回しの否定がヒシヒシと伝わってくる。


「てか、そうだそうだ、"長内凌介"!あのイケメンのキャプテンな!」


 御影の話を打ち切り、植田くんは話題を前へと戻す。


「いやー、あのイケメンと塚原が結婚したって聞いたときはぶったまげたよなぁ?」

「おいおい、植田くん。キミ、それは遠回しに塚原を貶しているね?」


 揚げ足を取った御影の言葉に、植田くんは「いや、長内と塚原が不釣り合いってわけじゃなくてね?!」と慌てた。


「大丈夫、大丈夫。そんなつもりがないこと分かってるよ」

「マジか、良かった〜」

「今のは御影の性格の悪さが出たね」

「おい近藤、発言を慎め」

「そもそもそのイケメンキャプテンが杏に猛烈アプローチしてきたんだから、ね〜?」


 リサが揶揄うようにツンツンと私の二の腕をつつく。「マジかよ?!詳しく聞きたいわ〜」とはしゃぐ植田くんとは対照的に、御影は「ふーん」と興味なさげに呟いただけであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る