勇者

 

 闇の中に煌めく刃。

 ぽたり、ぽたり、滴る赤。

 血溜まりに立ち尽くした勇者と。

 倒れ伏す……


「あ……、ば、ばかな……」


 ベルラ!


「フォルト……! フォルト、目を覚ましなさい……! フォ……」


 マレフィアが、声を張り上げる。

 その体は、血塗れ……。

 ごぼ、と口からも血を吐いて、マレフィアが血溜まりに沈む。

 


 なんだ。

 何が起こっている?


「……! は、そ、そうか。不死王、これも貴様の……術!? なんらかの。幻覚」


 そうだ。そうに違いない。

 いかにも邪悪な者がやりそうなことだ。

 恐ろしい幻覚を見せ、狼狽えているところをザクっ! と。


「そう、思いますか。神官よ……」

「ひっ」


 あのゾクゾクするような声が、私の耳元でした。


「これは、我が見せる悪い夢……おまえの勇者が、このような凶行に走るはずがない……と」

「と、当然だ……! 勇者は、仲間想いで、義に篤く、正義感が強く、ゆえにルクスに選ばれた崇高な青年!」


 私は強く抗弁する。

 つまらない幻覚。あり得ない出来事。信じる方がどうかしているのだ。

 ちょっとびっくりしたが。


 しかし。

 不死王は、おかしげに笑った。


「勇者……ルクスに選ばれし崇高なる青年……使命感を燃やし、弱きを助け……悪を、討つ……フォルト。それが、おまえの、まことの在り方……なのですか?」


 不死王の言葉に、勇者がびくりと肩を震わせる。

 ゆっくりと、振り返る。

 色をなくした顔は紙のように白く。

 紫の瞳がゆらゆらと心細げに揺れて。


「ぼ……ぼく、は……」


 掠れる声。

 

「い、嫌だ……くるな……くるな……くるなぁっ」


 剣を振り回す。

 何もない、居ないはずのその場所で。

 その姿は……まるで……。


「恐怖にかられ、ただ目に付くものを切り捨てる。……使命感など、ない。崇高な志など、ない。おまえの、勇者は……それこそが、おまえの幻想に過ぎないのですよ。神官」


 トン、と背中を押された。

 私の体が揺れ、ふいに、足の存在とその動かし方を思い出す。

 踏み出した。

 歩けた。


 私は……


「ゆ、勇者よ……!」


 怯えて剣を振り回す彼の元に駆け寄る。


「落ち着くのだ、勇者よ。いま、君がなにを見ているのかはわからぬが、そこにはなにもない。あるのはただ、幻影……。気を確かに持つのだ。君は、勇者なのだから……!」


 私の声が。

 届いたのか。

 勇者が、私を見る。

 

「勇者よ……勇者フォルトよ……そうだ、私だ。レリジオだ。この闇は、恐るに足らず。君の剣ならばすぐさま清め払えるはず――」


 勇者の目が見開かれる。

 その顔が、恐怖に歪む。

 

「ゆ――」


 目の前を、何かが流れた。

 

 ピッ、と数本、散る……それは、私の髪。


 遅れて理解した。

 勇者が、私に切り掛かってきたのだと。

 

 私は、何かに足を掬われ、後ろに転んでいた。そのおかげで被害が数本の髪だけで済んだのだ。

 勇者の、紫の瞳が……なおも私を見る。

 その瞳に宿るのは、やはり、恐怖の感情に見えた。


「う、うわぁぁぁぁああ……!」


 勇者が声を上げる。

 それは雄叫びというにはあまりに悲痛な響きだった。


「ゆ、勇者よ……! 落ち着け! 目を覚ま――ぁぁあわわわ!」


 なおも、勇者の剣が振りかぶられる。

 問答無用でその剣が私に振り下ろされる。

 私は、慌てて身を翻しその刃から逃れ転がった。


「な、なぜだ……勇者よ……! なぜ私を……!?」


 いや、違う。

 勇者が相手取っているのは“私”ではない!

 おそらく不死王の幻影の魔法的ななにかで、私の姿が恐ろしい魔物にでも見えているのだろう。

 もしかしたら声も!? 


 だとしたら、だとしたら……


「お、おのれ不死王……! 勇者に幻影を見せているな!?」


 術者をどうこうしなければならないのか?

 どうこうとはどうやって!?

 そうこいかしているうちにも、


「う、う、……うわぁぁあ……!」


 勇者が追いかけてくる。

 剣を振り上げ、私に向けて容赦なく振り下ろしてくる!


「ひぃっ……! め、目を、目を覚ますんだ……! 君は、勇者……!」


 また転がり避けながら、私は勇者に呼びかける。

 いつ、どんな時も。

 勇者は私の声に耳を傾けてきた。

 私のことを信頼してくれている。

 たかだか幻影程度に、我々ふたりの絆が壊されることなどあるはずはないのだ。


「ぐっ……ぅ、うぅっ……!」


 勇者が、眉を寄せて苦しげに顔を歪めた。


「……勇者。勇者。勇者。勇者。そう、おまえは、やはり、そう……なのですか。おまえは、そうあることを、本当に望んでいるのですか。勇者よ……心から、おまえは……」


 不死王が、勇者に語りかける。

 あの声。

 奇妙に心を波立たせる。


「勇者……! その者の声に耳を傾けてはならん! そいつは……」

「ぼ、ぼく……は……」


 勇者が、声を絞り出す。

 苦しげな。今にも泣き出しそうな顔。


「僕は……勇者……僕が……やらなきゃ……僕が……僕が……倒さなくちゃ。やらなきゃ。やらなきゃ……」


 剣を握る手が、震えている。


 勇者……。

 その姿は、あまりにも痛々しく。


「もう……やめてしまいなさい……。おまえが、どれほど己を犠牲にして奉仕したとて、この世界はおまえを……“おまえ自身”を見ることはない……。“勇者”でなくなったら、そうでないおまえには、なんの意味も……価値も、ない」


 ぞわりと心を逆撫でしていくような不死王の声がする。

 勇者の瞳が揺れる。


「勇者として正しくあろうとすればするほど、“おまえ”は摩耗し、魔王を倒せば勇者も用無し。“おまえ”の居場所はどこにもない。……そう、わかっているなら、もうおやめ。あまりに憐れだ。見ていられぬ」


 不死王の青白い手が、勇者の肩に添えられた。

 私は。なにか。私もなにかを言わねば。


「ゆ、勇者よ……! そのような者の言に惑わされるな……!」


 私の、呼びかけに。

 勇者は。


「……れ、り……じお、さん……?」


 漸く、私を見た。


「ああ! そうだ、勇者よ!」


 そうだ、不死王の声がどれほど恐ろしく魅力的に聞こえようと。

 私と勇者の絆は……


「フォルト。その神官こそが、最たるもの。おまえもわかっていたでしょう? ……その神官が求めているのは“おまえ”ではない。おまえが勇者でなくなれば、あっさりとおまえを見捨てる。“真のおまえ”を知れば、幻滅する。わかっているでしょう」

「だ、だまれ不死王……! これ以上勇者を惑わせるような物言いは――」


 勇者の剣が、振り上げられる。

 勇者の瞳が、私を見ていた。

 私は、息を呑む。目を瞠る。


「ゆ……」


 勇者が、泣いていた。


「僕は……僕、は……ぁ、あ、ぁぁあ!」


 剣が振り下ろされる。

 勇者が、私を。

 切り捨てる。


 なぜ。

 私と彼の絆は、こんなにも脆かったのか?


 勇者……勇者……。

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