恐るべき企み!

 私がトイレの住人となって半日、ようやく腹具合が落ち着いて廊下に出る頃には、秋の日はすっかり暗く黄昏ていた――。


 無論、旅立つことなどできようはずもなく。体の中のなにもかもをすっかり絞り出した私は、自らの身体を支えるのも辛いほどにもうふらふらのふらっふらだった。

 壁を支えにようやくあてがわれた客室にたどり着くと、ベッドに横たわりそのまま目を閉じる。

 限界だった。

 いろいろと。


***


「勇者……もう、あんな口先ばかりの無能な神官なんて、放って置いて行きましょうよ。私たち、三人で仲良くするのが一番よ」

「そんな……フィア……そんなこと……」


 マレフィアが、勇者の膝の上に跨り、するするとローブを脱いで白い肌を露にする。

 恥じらいか、勇者は目を伏せ顔を背けていた。しかしその眦には微かに朱が差し、年頃の青年らしく女体の神秘に心惹かれているようでもあった。


「白のっぽ、やくたたん。たたかうしない。魔王たおす、ベルたちいればじゅぶん!」


 そう言いながら、まだあどけなく幼さの残る少女――ベルラが、勇者の首に抱きついて、彼の鼻先に自分の鼻を擦り合わせる。


「あっ、だ、ダメだよ……そんなこと……!」

「あら、いいじゃない……私たち、三人、仲良く……ね、ベル……」

「ん。ゆーしゃ、ベルたちでまもる。だいじょぶ」


 ぺろ、とベルラの舌が勇者の頬を舐める。

 マレフィアが勇者の頭を抱き寄せ、ふかふかの胸にぎゅうと埋めた。


「あぅ……ぁあ、そんな……僕は……僕……」


 勇者は……

 勇者……は……


***


「迷うな! 私を置いていくなどとんでもないぃ――!」


 ガバァッと身を起こし、叫んだ。

 しん、と静まり返る屋敷。

 ひんやりとした空気。

 ぶるりと震えて、私はいまの光景が悍ましき悪夢だったと理解した。


「ぅ、ゆ、夢か……そうだ、そうだとも。勇者が私を置いて行くなどと、迷うわけもない。そもそもなんだ、三人であんな……不埒すぎるではないか!? なにをどうするんだ!? 三人で!?」


 わからん。

 なにもわからん! 未知が過ぎる。私の知識の深さを持ってしてもその先は闇だった。


「へっくし! ぅう、寒い。窓が開けっ放しではないか。腹を下したのみならずこの上風邪まで引いたら……」


 本当に置いて行かれるかもしれない。ゾクッとした。

 ベッドから降りて、風に吹き上げられるカーテンを掻い潜り窓に手をかけた。

 外はすっかり暗い。

 薄曇りの雲に隠れた小指の爪ほどの月は空の頂点に差し掛かろうとしていた。真夜中だ。

 微かな月明かりが僅かに照らす部屋の中、ベッドサイドには水差しとグラスが置かれているのが見えた。

 それとメモ。


“せめて水分はしっかり摂ってください フォルトより(代筆マレフィア)”


 そのメモを見て、私の心はほろりと解けた。

 嗚呼、勇者よ……なんと心優しい……。

 やはり勇者が私を置いて行くなど、あるわけがないのだ。

 私は有り難く水を飲もうとして、しかしそのキンキンに冷え切った水に躊躇いを覚えた。

 まだ腹具合も快癒とはいかない。そこにキンキンの冷たい水は危険ではないか? と知識と経験に基づく警戒心がよぎったのだ、


「やはり、せめてぬるい白湯から……。勝手に厨房を借りるのは、やはりいかんかなぁ」


 湯を沸かすくらいなら良いだろうか。

 そろ、と扉を開けて、廊下を見渡した。

 

 ――カタン


 ふと。耳を掠めた微かな物音。

 私の心臓がドキリと跳ねる。

 まさか、泥棒ではあるまいな!? 部屋の窓からこっそり入り込んだ輩だったら困るぞ。私の戸締りの不用心のせいになる……。

 私は思わずペンを握りしめ、物音の方へそろそろと足音を立てないよう気をつけながら進んだ。

 いざとなったら得意の腹から大声で、勇者やベルラが駆けつけてもくれるだろう。

 

 ――キィィイ


 物音のした先でまたもや物音がする。

 これは、こっそりと扉を開ける音だろう。

 やはり泥棒か。

 

 あ、いや、違う……!

 

 廊下のランプの小さな灯りに、微かに浮かび上がる姿。

 ふわふわと柔らかく波打ち、きらきらときらめく金の髪。薔薇色の頬。若い、彼女は……ラーナ嬢!

 そしてその扉は……勇者の泊まる、客室!


 ラーナ嬢がそろりと音を立てずに勇者の部屋に入っていく。

 私はそれを、見た。見てしまった。

 カッと全身に血が巡る。

 これは、どういうことだ。グルグルとものすごい勢いで思考がめぐりめぐる……。


「まさか……既成事実を……!?」


 ウー・サンクス氏の狙いが、やっと見えたと思った。

 しつこく我々を逗留させようとしたのは、自分の娘と勇者の仲を取り持とうという魂胆だろう。

 もしや私が腹を下したのも、その策略の一環ではないだろうか? 食い物か飲み物に薬を盛られたのかもしれん。

 長く留め置いてゆっくり籠絡するつもりが、勇者も頑なに旅立ちを早めようとするのに痺れを切らし、強引にも既成事実を作り上げて勇者を囲い込もうということだろう。

 これならば辻褄はあう!

 

 もし、勇者が、まことに魔王を倒したとき。

 彼の名声と栄光は凄まじいものとなる。

 その時、いかに彼の築き上げる人脈の近しいところにあるか、でその後の人生や成功にも大きな差ができるだろうことは確かだった。

 目端のきく商人が、投機的に勇者に賭けるのも不思議なことではない。それだけサンクス氏から勇者への期待が高いということでもある。それ自体は素晴らしい。

 だが、しかし!


 捨て置けん!


 そのような策略や計略で、まだ若い勇者やお嬢さんの未来を縛るような真似。

 断じて捨て置けん!


 勇者は責任感の強い青年なのだ。

 既成事実を作られたら否やとは言えまい。

 しかし今後心から愛する女のひとりふたりできるかもしれんのだ。

 勇者の心の重荷になるものは、不要――!


 私は心を決め、廊下を駆けた。

 そして決然と。

 扉を開け放ち、言った!


「待てぃ! それはまだ早い! あたら若い時を無駄にするようなこと――」

「……! おまえっ」


 果たして。

 勇者の泊まる客室に居たのは、溌剌とした愛らしい美少女、では、なかった。

 どこか妖しげな、悍ましい気配を漂わせた女……。


「な、なんだ……待て、それは宝剣ルクスフルーグ……何をしグェっ……!」


 一瞬息が詰まった。  

 ドンッと激しく背中を壁に打ち付け、クラッと目眩がする。

 まるで蛇のように蠢くラーナ嬢の金の髪の一房が、私に絡みつき、押しやり、そして驚くべき力で締め上げてきた!


「うっ、ぐ、ぐっ……な、に……もの……」


 チカチカと視界が明滅する。それでも私は、どうにか声を絞り出した。

 ギチギチと絡み巻き付く髪を必死に解こうとしながら。


 誰何しはしたものの、そこにいるのは確かにラーナ嬢ではあった。

 だが。

 鮮やかな緑だった瞳は、爛々と光る恐ろしげな深紅色に変わっていた。

 ラーナは、勇者が片時も離さずに抱えている宝剣ルクスフルーグを手に取った。


「ゆ、……しゃっ」


 ギチッ、と髪が喉を圧迫する。

 声が出ない。

 しかし、だが、勇者は気配や物音には敏感なはずだ。

 眠っているとはいえ、大事な剣を奪われてまだ起きないなど……。

 嗚呼……まさか、勇者も薬を……。


 ズキズキと頭痛がしてくる。

 締め上げられた首から上で、血管がドクドクと激しく波打つのを感じた。

 ウー・サンクス……奴の狙いは……。

 ラーナ……この娘は……。


「ふ……。まさかおまえが起きてくるとは、予想外だったわ。お間抜けさん」


 宝剣ルクスフルーグを手にしたラーナが、緩やかに私を振り返る。


「でも、起きてきたのがお間抜けなおまえでよかったわ。……どうせ、なんにもできやしない。このまま……死ぬ、だけ」


 クスクスと鈴を転がすように笑う顔は、今朝見たラーナ嬢そのままだった。

 だが、明らかに雰囲気も気配も違っていた。

 不覚だった。

 まさか、魔性の者がひとのふりをして、堂々と我々の前に現れるなど。情けないことに、考えてもいなかったのだ。


「安心なさいよ、お間抜けさん。可愛い勇者はすぐには殺したりしないわ。あのエルフや、獣人は……ふふ! おまえが寂しくないように、すぐに後を追わせてあげる!」


 赤い瞳をギラギラと光らせながら、ラーナはおかしそうに、楽しそうに、きゃはきゃはと笑っていた。

 無邪気な少女そのもののよう。

 しかし、彼女の髪はなおも強く、きつく、どこまでも私の首に絡み、絞め続けた。

 

 私の、意識は、ぷつりぷつりとぶつ切りになる。

 無力だった。

 勇者は眠りについたまま。

 このまま、彼が目を覚ましたら、どうなるのか。

 朝になり、私や、マレフィアやベルラの死を知るのか。

 嗚呼……どれほどに嘆き、悲しみ、自責の念に駆られることだろうか。


「ぐ、っ、ぅ……」


 いかん。

 そんなことは、絶対に、あってはならぬ。

 勇者の心は、私が、この私が、護り、そして正しい方へ導かねばならぬのだ。


「バァイ♪」


 ラーナが、別れの言葉を口にする。

 私は、残る気力を振り絞り、絡みつく髪に、愛用のペンを振りかぶり突き立てた!


「ギャァァァァァァァアア!!」


 恐ろしくけたたましい叫び声が屋敷中に轟き渡る。

 ブチブチと髪が千切れ、力をなくした先が私の首からはらはらと散っていく。


「がはっ……は、はぁっ!」

「ぐっ……き、きさま……な、なにをした!? なにをしたのよっ」


 ばちっ、ばちばち、と千切れた髪に、そこからラーナ自身に、微かな電流のような光が迸りまとわり付いていた。

 正直、一か八かの賭けでしかなかったのだが。私のペンは、信仰の続く限りインクの尽きぬ特別な物。それそのものが信仰の聖具と言えた。ゆえに、もしや、あるいは!? 効くかもしれない。と、思った結果のこれである。


「か、神の……お力の、賜物だ……魔性の者よ……!」


 とりあえず、強気でいく!


「生意気な……間抜けな神官のくせに……私の、髪を……。きれいに、きれいにした髪を……り許さない。許さない! おまえは、死ぬより苦しい目に遭わせてやる……!」

「ひっ……」


 残るラーナの髪が、うねり荒れ狂う百万の大蛇の如く、猛然と私に向かって伸びてきた!


「ゆ、勇者……はやく目を覚ま――」

「遊び踊るマナよ以下略“シャインアロー”!」


 カッ! と眩い閃光が、暗い廊下を煌々と照らして走り抜ける。


「ギャァァァァァァァアア!?」


 再びのあの悍ましい悲鳴が響き、バヂヂヂヂッ! と焦げ付いた嫌な匂いと音をさせながら、ボドボドボドっとうねり狂った髪束が千切れ落ちていった。


「勇者は無事!?」


 駆けつけてきたのは、マレフィアだった。

 

「あ、あぁ、おそらく。しかし、全く起きるけはッ……! な、な、な、なんという破廉恥な格好だ、君は!?」


 魔導書を抱えやってきたマレフィアは、ひらひらスケスケした羽織りものの下に、し、した、したぎ、のみ!?


「失礼ね。エルフ族のオーソドックスなネグリジェよ。……屋敷中みんなすっかり魔法で眠らされているんだわ。私すらも眠りにつかせる強催眠よ。勇者もベルも、なかなか起きないかもしれないわね」


 そう言いながらマレフィアが、私の前に立ちはだかり、ラーナに向き直った。

 わ、私の前に。

 スケスケの羽衣のように神秘的なガウンから、見える、下着姿の……尻。


「ラーナ、ここまでよ。消し炭にしてあげるから覚悟なさい」


 マレフィアが容赦のない言葉を放つ。

 しかしラーナは、千切れ落ちた髪にすっかりショックを受け、まるで放心状態だ。


「くっ……うぅ、うぅう……! わ、わたしの髪……。また、髪が……せっかくお力を分けて頂いた、のに……」

「なに? なんですって。ラーナ、あなたはいったい……」

「許さない……! おまえたち、ぜったいに許さない!!」


 狼狽え、ふるふると頭を振り、悲しげなその様子は年相応の少女そのままだった。

 しかし、ラーナが叫ぶ、その声は。

 怨嗟と憎悪に塗れた呪詛そのものだった。


「きゃっ……! な、なによ、これっ」

「い、いかん……嗚呼っ、神よ……!」


 ブワッ……!

 と。一気に、一瞬で、ラーナを中心にして広がっていく闇。

 呑まれればどうなるのか、わかりはしない。

 ただ本能が、恐れた。

 私は聖印の代わりにペンを握りしめ、祈った。


「神よ……! どうか勇者を、我らを、お守りください……!」


 微かな光がペン先からうまれる。

 祈りに呼応したように。

 しかし、それよりもずっと強く激しい闇の波動が、我々を呑み込んでいった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る