第157話 フィクション

 最近、日曜劇場「VIVANT」をネットフリックスで集中して観ています。この作品、滅茶苦茶に面白いですね。すでに観られた方にとっては、「今更?」みたいな話題だと思います。僕は朝が早い中央卸売市場に勤めていることもあり、夜のゴールデンタイムの情報にとても疎い。世間で大きな話題になってからその情報を知ってしまう時間差は、いつもの事だったりします。「レンタルビデオで借りようかな?」と思っていたら、ネトフリで公開されていました。まだ全編を見終えていないのですが、物語の展開の速さ、キャラクター設定の面白さ、仕組まれた謎解きはかなり俊逸です。計算された脚本の妙を感じました。僕は面白い物語を創作したいと考えているので、とても参考になる作品でした。実は、この作品の重要なシーンで泣いてしまいました。50歳を超えてから、少し涙もろいところがあります。あれ!? 虚構の作品に、なぜ感情移入しているのだろう?


 ――最近泣いたのはいつ頃ですか?


 子供の頃は、親に叱られてよく泣きました。子供って、純真で自分の感情にとても素直です。そうした子供が大人になっていくと、段々と自分の感情を抑えるという技術が身に付いていくものです。人前では、簡単に涙を見せない。泣きたいときに涙を堪えたり、怒りたいときに口を噛みしめて感情を抑えることで、世間との調和を図ろうとするからです。そうした気持ちを抑えて自分を客観視する姿勢が続いていくと、それが通常運転になってしまいます。慣れていくことで、自分の感情がどれなのか分からない。この心の関係を、僕たちは「本音」と「建て前」と呼んで使い分けています。バランスよく使い分けている内は良いのですが、「建て前」に傾き過ぎると、心の乖離が始まり「うつ病」になったりします。


 太古の昔、僕たちのご先祖様が狩猟採取で生きていた頃は、このような「うつ病」は無かったとされています。お腹が空いたら木に生っている果実を食べたり、獣を狩って腹を満たします。性行為をしたくなったら、その場で快楽を堪能します。遊びだしたら、疲れるまで走り回ります。自分の感情と行動が、いつも一緒で時間差がない。財産を蓄えるという概念もないので、他人を羨むこともない。実は、楽園だったのです。


 旧約聖書によると、アダムとイブは知恵の実である林檎を食べたことで楽園を追放されました。この故事を具体的に人類に照らし合わせると、農耕文化の発展と捉えることが出来ます。農耕は様々な技術革新を生み出しましたが、なかでも重要な技術が「時間の概念」の創出でした。月の満ち欠けや太陽の動きから、一年が365日であることを理解します。春夏秋冬という季節の移り変わりがあり、麦の種を蒔く時期に最適なタイミングがあることを知りました。


 農耕文化の発展により飢えからの解放が期待されましたが、それは叶いませんでした。何故なら、収量が増えるとともに人口も増大していったからです。あまりにも人口が増えてしまったので、狩猟採取の生活に戻ることが出来ません。自転車操業のように農耕を拡大していかなければ、多くの人民が飢えてしまうのです。ここから飢饉に備えて「備蓄する」という概念が生まれました。


 農耕文化の発展や近代の産業革命は人間に様々な知識を与えましたが、同時に「未来に備える」という行動を習慣づけます。良い大学に入学する為に勉強をする。老後の生活の為に貯蓄する。天国に行くために善行を行います。狩猟採取で生きていたご先祖様は、感情の赴くままに行動を起こして、直ぐに結果を手に入れていました。ところが現代の僕たちは、未来に得られるであろう果実を手にするために、一生懸命に努力をします。やりたくはないけれど頑張ります。しかし、欲しい果実はいつもお預け状態。行動と結果にタイムラグが生まれているのです。時に、この期待が裏切られて果実を得られないことがあります。いや、多くは期待が裏切られることばっかりなのではないでしょうか。そうした現実を理解した上で、僕たちは「本音」と「建て前」を使い分けています。


 知識を得てしまった人類は、実はその知識によって心の乖離を起こしています。日常的にずっと起こしています。例えると、ゲージで飼われているハムスターが、回し車で走り続けている状態です。走っても走っても、ゴールがやってこない。何のために走っているのかすら分からなくなってしまいます。生きている意味が分からなくなった僕たちは、つい目先の快楽に溺れます。自分からすすんで奴隷になっていくのです。


 システム化されたこの現代社会に逆らって生きていくことは難しい。今更、エデンの園に帰ることは出来ないからです。環境を変えることは出来ませんが、自身の認識を変えることは出来ます。「本音」と「建て前」のタイムラグを埋める為に「哲学」が生まれました。「哲学」についてはあまりにも範囲が広すぎるので、ここでは触れません。


 ところで、ズレてしまった「本音」と「建て前」を、とりあえず一致させる魔法があります。それが「物語」だと思うのです。僕たちは、小説や漫画それに映画といった娯楽を楽しみます。純粋に面白いから人々は物語を楽しむのですが、そこには感情が刺激されるという効能があります。サピエンス全史的には、この「物語」を「虚構」と呼びました。「虚構」の仲間には、宗教を始めとして貨幣や株式会社、それに国民主義や社会主義といったイデオロギーがあります。これらに共通するのは、この世に物質として存在しない「概念」を信じるという行為です。これは、ホモ・サピエンスだけが扱える「魔法」なのです。詳細は、「サピエンス全史」を読んで欲しい。


 「物語」は、現実ではない世界です。誰かの空想の産物を楽しむわけですが、エンタメ作品は特に視聴者の幸福感を刺激します。その中毒性は、もしかするとアルコールや薬物よりも激しいかもしれません。「物語」の良い悪いは別にして、上手く付き合うことで笑うことが出来るし泣くことも出来ます。自分の中の感情を刺激することはとても大切です。ストレスが溜まる現代だからこそ、素直に感情を発散させたほうがスッキリできます。


 僕がこのようにエッセイを書いているのは、実はストレスの発散の為です。頭の中のうやむやを言葉に置き換えることで快楽を得ています。小説を書くという行為は、エッセイよりも更にその効能が大きい。そもそも感情が揺り動かされないと、小説は書けません。エッセイはロジックが中心ですが、小説はロジックだけでなく読み手の感情をコントロールする技術が必要になるからです。


 ――あまりにも面白くて朝まで小説を読んでいた。


 このような経験をされた方は多いかと思います。「小説」は、読むよりも書く方がその快感は大きい。30万文字もある拙著「逃げるしかないだろう」の推敲に、僕は半年以上も時間を要しました。でも僕にとって、それは苦行ではありません。推敲を行うたびに、僕が想像した世界に再度入り込みます。推敲しながら、笑うし泣きました。そのくらいに物語に入り込んでしまうのです。そんな僕の姿を見たら、きっと頭がおかしくなったと心配されたでしょう。今は、将来に書くであろう聖徳太子の物語の為に勉強中です。勉強そのものも面白いのですが、書き始めたらもっと夢中になれるでしょう。日曜劇場「VIVANT」よりも面白い物語を生み出したい。

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