第139話 ヤマト王権での饗宴

 青い空、長閑な風、照り付ける太陽。今日は、小春日和というよりは少し汗ばみそうなくらいに暑い文化の日でした。祭日ではありますが、朝一番に中央卸売市場に向かいます。数時間だけの接客の仕事を終えて自宅に帰ると、真っすぐに台所に向かい皿洗いを始めました。まだ朝の7時を回ったくらいで、嫁さんも子供たちもまだ寝ています。休日の朝のいつものパターン。この時間がとても好きです。皿洗いが終わったら、次は朝食準備です。メニューはいつも同じ。ご飯と目玉焼きとお漬物。昨晩の残り物があればそれも食べます。炊飯器の中を確認しました。


 ――あっ! ご飯がない。


 うっかりしていました。皿洗いの前に、ご飯の準備を先に済ましておくべきでした。今から早炊きでお米を炊くことも出来ますが、硬い炊きあがりになってしまいます。それではあまり美味しくない。美味しいごはんが炊けるまで、じっと我慢しても良いのですが、でもな〜。何か嫌だな~。


 ――そうだ!


 良いことを思いつきました。以前に購入したまま、ほったからしていた穀物があるのです。それは「粟」です。弥生時代から大陸由来の米の水耕栽培が始まりました。だから、日本で穀物といえば普通は米のことをさします。しかし、日本に他の穀物がなかったわけではありません。それこそ縄文時代から食された穀物が、稗(ひえ)や粟(あわ)それに黍(きび)になります。昔話の桃太郎にも出てきますね。キビ団子。貧乏な百姓は、米を食べずに稗や粟を食べた……みたいな話も聞いたことがあります。どんな味がするのだろう。前々から興味があったんです。今日はこの粟を食べてみることにしました。


 僕が購入した粟は1合の量目です。おおよそ一人前。お米に比べると、粟はとても小さな粒になります。胡麻粒よりも小さい。鼻息だけで飛んでいってしまいそうです。こんなにも小さな粟を、収穫して食べられるように加工するのは考えただけでも大変そうです。昔の人は、どの様にして精米、いや精粟を行っていたのでしょうか。もしかすると皮付きだったのかな? まったく想像ができません。


 調理する段取りはお米と一緒で、まずは洗います。粟をボールに入れて、水を注ぎました。お米を研ぐ感覚で手を突っ込みます。軽く洗いました。ところが、粟が手にベットリとくっ付いてしまうのです。ボールの縁にも一杯くっ付きました。それらの粟をていねいに水に沈めて、ボールを傾けます。ゆっくりと汚れた水を捨てました。その静かな水流だけで、粟が浮かび上がり逃げていこうとします。かなり扱いにくい穀物です。


 片手鍋に洗った粟を入れて、粟に対して3倍ほどの水と少しの塩を入れました。ガスコンロで火にかけます。沸騰をしはじめたら、極々小さな弱火にしました。ネットで検索したレシピでは、火にかける時間は15分とあります。ヘラを使ってかき混ぜながら、粟の様子を観察しました。ヘラを動かすと、そのヘラや鍋の縁にまたしても粟がくっ付いてしまいます。やっぱり扱いが難しい。その内だんだんと水分が減ってきて、ドロッとしたスライム状になります。逃げ場のなくなった水蒸気が火山の噴火のように、スライム粟の表面で時々小さな爆発を起こしました。小さな粟が飛んできて、僕を攻撃します。ちょっと熱い。混ぜるヘラにも抵抗を感じました。


 ――もう、頃合いかな?


 レシピでは15分とありましたが、まだ10分少々。粟は小さな粒ですから火の通りが早いみたい。このまま更に火をかけると糊になってしまいそうです。僕の感覚を信じて火を止めました。完成です。炊けた粟をお茶碗によそいました。目玉焼きと糠漬けもテーブルに並べます。いよいよ朝食です。


「いただきます」


 炊けた粟に、お箸を伸ばします。少し粘っこくて、いつものご飯のように食べることが出来ました。塩を少し入れているせいでしょうか。ほんのりと甘い。異質な風味もありません。お漬物との相性も悪くない。案外と美味しいです。強いてあげるなら、口当たりが糊状なので米のような食べごたえがありません。食べやすいけど物足りない……というのが第一印象でした。ただ、この粟は現代の精製技術で加工しています。昔は籾が取り切れていなくて、もっと口に触り雑味が多かったのではないでしょうか。これは僕の勝手な推測になります。


 ただ、粟の調理そのものはけっして難しくはありません。水と一緒に茹でるだけなので、古代においては重宝したと思います。お米にしても、現代のような炊飯技術がありませんから、粥にして食べるのが一般的でした。正月の終わりに七草粥を食べますが、正にあれがそうです。野菜も一緒に煮込んで工夫しました。


 他の調理方法として、お米を蒸す調理方法もあります。底に穴の開いた土器にザルを敷いて、そこに米を入れます。その土器を、別の水を沸騰させた土器の上にセットして蒸しました。現代のセイロと構造は一緒です。そうした蒸した米は、突いて餅にしました。


 古代の大和王権の政治は神事と同義です。具体的には祭りを行いました。大和王権を支える豪族たちが集まり、現人神である大王と一緒に同じものを食べるのです。このことを神人共食というそうです。この饗宴によって、大王は各地の豪族との関係性を深めていきました。豪族たちは饗宴に参加する際に供物を奉納します。その供物のことを神饌といいます。神饌には魚や鳥、野菜や塩等、各地の特産品が奉納されましたが、代表格は、お米、お餅、お酒になります。


 饗宴の席では、奉納されたお酒が振舞われました。神事ですから、そこには仕来りがあります。一つの盃で回し飲みをするのです。この盃が一つということが重要でして、神との契りになります。この形式は現代においても残っていて、結婚式の三々九度やヤクザの世界でもみられます。そうした厳格な神事が終了すると、その後は無礼講になります。胸襟を開いての楽しい宴が始まるのです。二次会では、巫女による歌舞が披露されました。この歌や踊りも神への奉納になります。アマテラスが岩戸に隠れた時、アメノウズメが踊り狂った神話がありますが、ここに起源があります。


 参加する豪族たちに、物部氏や大友氏がいました。彼らは対外的に武力を行使する豪族になります。対して、葛城氏、蘇我氏、巨勢氏、平群氏、紀氏といった武内宿禰を始祖とする豪族は、比較的内政に強い傾向がありました。内政とは饗宴における食膳奉仕、つまり宴会部長です。


 葛城氏の傍系には、的臣や塩屋連がいます。的とは矢で獣を狩ることになります。つまり的臣は、獣を狩り大王に奉納していました。塩屋はその名の通り塩を精製して大王に奉納します。平群氏も塩に関りが深かったようですが、その支配地域に膳氏(かしわうじ)がいました。膳の名前の由来は、料理の皿に柏の葉を使ったことから転じたとか、饗宴の席で柏手(かしわで)を打って料理を催促したからとか推測されています。どちらにせよ、膳氏は饗宴の席では重要な役割を担っていたようです。


 飛鳥時代は、王権への従属・奉仕の制度として部民性が布かれていました。その名前から、どのような仕事をしていたのか知ることが出来ます。食事に関する部民を少し紹介させていただきます。雀部、造酒部、大炊部、春米部、田部、鳥飼部、猪甘部、塩屋部等です。そうした部民を豪族たちが支配して、大和王権における饗宴を支えていました。


 飛鳥時代に大きな権力を握った蘇我氏は、本貫地にいくつかの説がありました。その内の一つが、奈良盆地を流れる宗我川流域になります。この辺りの湿地帯には菅(すが)という多年草の草が生い茂っていました。菅は「清々しい」の語源になっており、清浄という意味が含まれています。神事において菅は、新撰の敷物に使われていました。そうした蘇我氏の傍系には御炊氏がいます。宴会部長そのままの名前ですね。


 歴史的に最初に頭角を現した蘇我の棟梁は、蘇我稲目になります。彼には堅塩媛(きたしひめ)という娘がいました。欽明天皇の妃になり12人の子女を生みます。堅塩媛という名前には「塩」が含まれています。実は、彼女は饗宴の席で巫女の役割を担っていたようなのです。歌を歌ったのかもしれませんし、舞を舞ったのかもしれません。そうした彼女が、欽明天皇に見初められて妃になりました。二人の間に、推古天皇が誕生します。彼女の諱は、豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)です。名前に「食」の字がありますね。母親と同じく巫女だったと考えられています。


 飛鳥時代に蘇我氏が権勢を誇ったのは、大王の外戚だったからです。外戚になるためには、娘と大王が婚姻関係になり子孫を残す必要があります。その出会いの場として、神事にまつわる饗宴が重要だったのでしょう。最近は、蘇我氏に関する文献も読んでいますが、酒や米に関する歴史も勉強しています。ちょっとずつですが、当時の人々の暮らしが見えてきました。面白いです。

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