第135話 聖徳太子のお母さん

 色々な本を並行読みしているのですが、聖徳太子に関しての文献でメインとしているのは、梅原猛著「聖徳太子」になります。分厚いハードカバーで全4巻。ヤフオクで、昨年に購入しました。早速読み始めたのですがかなり難しい。文体が難しいというのではなく、僕に基礎知識がないので話の展開に付いて行けないのです。他にも、日本書紀の漢文の書き下し文が紹介されているのですが、読んでも頭に入らない。全くチンプンカンプンなのです。途中で挫折してしまいました。


 あれから色々と回り道をして、先月から梅原猛著「聖徳太子」を再び読み始めています。以前の僕よりは少しは成長しました。内容が理解できる。というか、著者の梅原猛と対話をしているような感覚になったりします。梅原猛の凄いところは、日本書紀を始めとする様々な文献の情報量と、自分の足で集めた情報量が圧倒的に多いことです。古い歴史ですから情報によっては食い違っていたり、考えられないような記述もあったりします。そうした情報に対して梅原猛は、自分なりの解釈を添えるのですが一方的ではありません。反論も含め、他の研究者の視点も比較対象として紹介してくれます。非常に素晴らしい研究内容です。


 皆さんご存じのことと思いますが、蘇我馬子は聖徳太子の大叔父です。大王家と蘇我が関係する家系図はとても複雑で表で整理しても分かりにくいのですが、今回は聖徳太子の母親を中心にして紹介してみたいと思います。


 馬子の姉の一人に小姉君(おあねのきみ)がいます。彼女と29代欽明天皇との間に4人の皇子と1人の皇女が生まれるのですが、その皇女が穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)になります。彼女は腹違いの兄である用明天皇と結婚して聖徳太子を生みます。穴穂部皇女には、二人の弟がいました。穴穂部皇子と(あなほべのみこ)と泊瀬部皇子(はつせべのみこ)になります。


 蘇我馬子と物部守屋が争った丁未の乱の2年前に、30代敏達天皇が崩御します。当時の大王は、生きている間にその位を譲ることはありません。崩御されてから、次の大王を決めます。候補となる皇子は何人もいたのですが、誰よりも野心的にその地位を望んだのが穴穂部皇子でした。しかし、ちょっと暴れん坊なところがあり、蘇我馬子から反感を買います。結果、腹違いの兄が天皇に即位しました。31代用明天皇です。


 穴穂部皇子は、その決定に不服でした。抗議をするために敏達天皇の皇后であった炊屋姫(かしきやひめ)に会いに行きます。炊屋姫は、用明天皇の妹であり、穴穂部皇子とは腹違いの姉弟になります。また、彼女は後の33代推古天皇になる人です。名前がいっぱい出てきました。整理できているでしょうか……汗。


 29代欽明天皇――皇后:石姫皇女、妃:堅塩媛、妃:小姉君

 30代敏達天皇――前皇后:広姫、後皇后:炊屋姫

 31代用明天皇――皇后:穴穂部間人皇女、嬪:石寸名

 32代崇峻天皇――妃:小手子、嬪:河上娘

 33代推古天皇――夫:30代敏達天皇


 抗議に行ったはずの穴穂部皇子でしたが、喪に服している炊屋姫を犯そうとするのです。この事件が、後の丁未の乱の発端になりました。当時は、従弟であれば普通に恋愛が成立しています。しかし、大王が崩御したとはいえ、その皇后を犯そうとするなんてもってのほか。しかし、加害者は位が高い皇子なのです。構わずに暴れました。このドタバタ劇を利用したのが蘇我馬子になります。廃仏派であった三輪君逆と中臣勝海の誅殺に成功し、物部守屋を孤立させました。更には、穴穂部皇子を殺害することで朝廷の結束を固めるのです。詳細を省いているので分かりにくいですが、要は生贄にされたのです。見せしめです。


 この現実に一番ショックを受けたのが、聖徳太子の母親である穴穂部皇女でした。とても可哀想な人でして、この少し前に夫である用明天皇が崩御しています。追い打ちをかけるようにして、弟の穴穂部皇子が馬子によって殺されてしまうのです。穴穂部皇女は、弟である穴穂部皇子を何とかして助けたいと考えていたようですが、叶いませんでした。


 本来であれば、用明天皇の皇后である穴穂部皇女には大きな発言権があったはずです。しかし馬子は、前天皇の皇后である炊屋姫を担ぎ上げ、穴穂部皇女をないがしろにするのです。日本書紀には記載されていませんが、この時に彼女は丹後半島に避難したという伝承が残っています。炊屋姫も穴穂部皇女も同じように蘇我の血が流れているのに、馬子の扱いは全く違いました。


 更に不可解なのが、丁未の乱が終わった翌年です。用明天皇には蘇我石寸名(そがのいしきな)という妃がいました。彼女との間には、第一皇子である田目皇子(ためのみこ)が生まれるのですが、穴穂部皇女はその田目皇子と結婚するのです。義理とはいえ息子です。馬子の影響があったのかもしれません。二人の間には、佐富女王(さとみのひめみこ)という子供が生まれました。この佐富女王は、聖徳太子の息子と結婚することになります。……もう、わけが分からん。


 穴穂部皇女には、泊瀬部皇子というもう一人の弟がいます。彼は丁未の乱に参戦して功を成し、晴れて32代崇峻天皇として即位しました。しかし、5年後に馬子によって暗殺されてしまうのです。穴穂部間人皇女、穴穂部皇子、泊瀬部皇子は、馬子の姉である小姉君の子供たちですが、兄弟そろって立場が弱い。何故なんでしょうか?


 馬子の姉には、堅塩媛というもう一人の姉がいました。堅塩媛と小姉君は、共に29代欽明天皇の妃になります。彼女たちの子供を整理してみます。


 堅塩媛――31代用明天皇、33代推古天皇

 小姉君――穴穂部間人皇女、穴穂部皇子、32代崇峻天皇


 蘇我馬子は父である蘇我稲目の息子ですが、二人の姉とは腹違いの可能性があることを以前に紹介しました。では、堅塩媛と小姉君は同じ母親から生まれた姉妹なのでしょうか。日本書紀には記されていないのですが、古事記には小姉君は馬子から見て叔母に当たると記されていました。その叔母が稲目の養女して引き取られるのです。名前が「小さい姉」と記されているのは、そのような意味が含まれていたのです。最近の研究者の推論によると、小姉君には物部の血が流れている可能性があるみたいなのです。


 つまり、馬子は同じ姉であっても、堅塩媛と小姉君の接し方に初めから差があったと推測されます。そんな馬子ですが、妻は物部守屋の妹なのです。馬子と守屋は、ほとんど同じタイミングで朝廷の要職である大臣と大連に就任しました。大王の右腕左腕です。当然、立場的にはライバルであったと思いますが、婚姻関係が交わされているところを見ると、お互いに関係も深かったみたいです。これらの関係性を俯瞰してみると、何かしらのドラマが見えてきそうです。


 まだ勉強の途中なのですが、物語を書き始めてみようかなという気持ちになっています。まずは、時系列を整理して、ドラマをピックアップして、プロットの作成から始めなければなりません。物語を面白くするためには、その構成力が肝になります。第一章は、蘇我馬子と物部守屋が争った丁未の乱までです。第二章は、暗殺された崇峻天皇の物語になります。ここまでは、馬子が主人公の物語になります。第三章は、推古天皇が即位して二十歳になった聖徳太子が摂政的地位で活躍します。この聖徳太子と馬子との確執がテーマになるでしょう。ちょっとね……ワクワクしています。

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