全裸男性かく語りき

@IEND

この尻を見よ

 ──ええ、初めは自分の目を疑いました。その日は一日中求人誌とにらめっこで、ずっと神経も張りつめていましたから、気づかないうちにうたた寝をして夢を見ていたとしか思えない現実感のない光景でした。全裸の男が公園のベンチで軽やかに昇降しながら、快音を立てて尻を叩いていたのですから!


 もちろん、迷わず警察に通報しました。怖かったのと、それから少し腹が立ったのもありました。こちらは途方に暮れているというのに、この男は晴れやかな笑顔で、尻を叩く時には楽し気にリズムさえ取って見せているのです。「勘弁してよ、オッサン」電話を切った私は、思わず舌打ちをしてしまいました。


 その舌打ちが思いの外大きな音を立てたのでしょう、男がこちらに振り向きました。マズい、異常者に気付かれた。何をされるか分からないぞ──顔の引きつる私を見て、何を思ったか彼は意外と人懐っこい笑顔を作り、再び昇降運動に戻りました。私はその場を離れる事もせず、男の動きを注視していました。なぜかその背中が「よく見ておけよ、若いの」と言っているように思えたのです。


 男の動きをぼんやりと見ているうちに、目下の悩みが思い出されてきました。信頼していた上司の裏切りで会社を逐われ、結婚まで約束した恋人もあっさり私の下を去り、今までの人生で長い時間をかけて手に入れたものをほんの一瞬で失ったのです。たとえ再就職に成功し新たな愛を手に入れたところで、キャリアも時間も取り戻せるものではありません。失ってしまったものの大きさを考えると、こうして求職活動をしていても、どうしようもない虚しさに少しずつ心が食い荒らされていくような……。


 パァン! という快音が思考の雲を吹き飛ばしました。男が相変わらずの人懐っこい笑みでこちらを見ています。「心配するなよ、俺を見ろ」何だかそう語っているようで、その時の私には不思議な頼もしさが感じられたのです。


 いえ、実際に男は私を諭そうとしていたに違いありません。人間は元々素っ裸で生まれてきたのではないか。地に足の着かない所まで登って、また大地に戻る。それを繰り返しているだけで、君は何も失ってなんかいない。降りた先には、また昇るための足場があるはずだ。そう、全裸で昇降運動を繰り返すその姿は、今の私が置かれている苦境とその答えを表現したものだったのですから……!


 だがしかし、人生が昇降運動の繰り返しなのだとしたら、昇ったところでまた落ちるだけ、やはりそれは虚しいものなのではないですか──私は声に出さず、男に──いえ、師に呼びかけました。必死に汗をかき、息を切らして昇って降りて、それで結局同じ所に戻るだけ、残るのはただの全裸のオッサン一人。それは地獄のようなものではないのですか。いつしか私は縋るような気持で問いかけていました。「師よ、どうか教えてください、この世は無間地獄なのですか?」と。その時です。彼は一声、こう叫びました。


「びっくりするほどユートピア!」


 この世は生きるに値するか、その答えは素早く、そして明快でした。この世界は理想郷ユートピアだ。終わらない昇降、それがたとえ永劫の繰り返しだとしても、そのステップの一つ一つは今まで見た事もない驚きに満ちている。だってそうだろう? 君だって、まさかいつもの帰り道で全裸のオッサンが踏み台昇降をしているなんて、思いもしなかったはずだ──確かにその通りでした。「びっくりするほどユートピア!」というたった一言を通して、その教えは、乾いた土に水が染み込むように、私の心を潤していきました。


 道を示された感動で滂沱の涙を流す私を横目に、師は再び快音を立てながら尻を叩き始めたのです。思えば、この尻を叩く快音だって同じ事です。角度、気温、湿度、尻たぶの具合、その全てで音は変わり、一つとして同じ音はない。鳴り響いた後は何も残さないにも拘わらず、この音に私たちは驚かずにはいられない! 

 

 全てに納得した私は、家路につくことにしました。一日中求人誌を見て疲れていたはずなのに、足取りが軽くなっているのが自分でも分かりました。あれこれと思い悩んでも、生きるというのは本当はとてもシンプルな事だったのです。考えるべき事はただ一つ、「尻を叩いた時にどれだけ良い音が出せるか」それだけだったのですから。どこか遠くで鳴っているサイレンも、この偉大な発見を祝福しているように思えました──。


 ***


 ──次のニュースです、夜の公園に現れ全裸で奇声を上げていた男が、市民の通報で駆け付けた警察に逮捕されました。男は当時酒に酔っており、警察の調べに対し「あの時はどうかしていた。何も考えていなかったと思う」と供述しており──


                   -了-

 

 

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