京で生まれて、今日考えた。

おくとりょう

2022年

2月

京都人の『いけず』について。

 特徴的な回りくどい話し方から、「腹黒」、「性格悪い」などと言われがちな京都人。私はその『京都弁』の根底には相手への信頼があるからではないかとも考えています。

 例えば、深夜に騒がしいご近所さんに対する『いけず』。

「昨夜は遅くまでお楽しみだったみたいですね。毎晩、賑やかで、羨ましいわぁ」

 これは「うるさい。静かにして」ではなくて、「騒がれてる音が近所に聴こえていますよ」だと私は思っています。


 まず、世間でよく言われるポイント。

 なぜ、直接「嫌だ」と言わないのか。この例では、「うるさい」と具体的に言わずに、「賑やかで羨ましい」と一見、肯定的な言い方をしています。

 これについて、私は不要な揉め事を避けるために敢えて、そうに言っているのではないかと考えます。

 直接的な「うるさい」「やめろ」という言葉は、否定的であったり、攻撃的であったりします。しかし、相手を否定したり、攻撃することは争いのきっかけにもなりかねません。

 不満を伝える際、「静かにして欲しい」などのお願いをする言い方もありますが、それも結局は相手の行動を否定しているともとれます。

 一方、肯定的な言い方は、揉め事を誘引しづらくなります。

 例えば、前に挙げた深夜の騒音の件。「うるさい」という不満が見えにくく、その場の会話では分からないままになることもあり得ます。もし伝わっても、そこから揉め事には(比較的)なりにくいかと思われます。

 ただ、その回りくどい言い方のため、「京都人は陰湿だ」などと言われてしまうのですが、ここで重要なのは『深夜に近所に音が聴こえていた』という事実を伝えているということです。


 この不満は隠して、事実から肯定的な言い方をするというのが、京都弁の特徴だと思います。

 ここでは主観的な「うるさい」気持ちは伏せていますが、「賑やか」ということで『近所に音が聴こえていた』ということは伝えています。つまり、遠回しに言うことで、相手が自身が気づくように仕向けているのです。自分の失敗は他人から言われるより、自身で気づく方が反省しやすいですよね。

 また、具体的な言葉の裏側でのコミュニケーションなので、頭を使い記憶にも残りやすいようにも思います。

 そういったことから、直接的な言葉で伝えるよりも次回から改善されやすく、京都人の話し方の特徴として今も残っているのではないかと、私は考えました。


 しかし、問題もあります。

 それは、『誰しも周囲への気遣いを持っている』という前提のもとに成り立っているということです。

 この例では、「お楽しみ」「羨ましい」という言葉も一緒にあることで、「楽しくてお気づきじゃなかったかもしれませんが、音が周りに聴こえてましたよ」となります。暗に『普段であれば、こんなに騒がないでしょうけど』という意味も含まれているのです。

 つまり、『周りに気づかいのできる人』として扱われているのです。


 これは、もしかして過大評価で、過信だったのかなと思うことが、たまにあります。

 社会の中では、気づかい合い、助け合うのが当然だと私は思っていました。が、『自分さえ良ければ、周りがどうなろうとも関係ない』という考え方もあります。

 自分は周囲から見て、どうなのか。客観的な自身の行動を理解できなければ、遠回しな言い方だと、いつまで経っても分かりません。

 もちろん、常に他人ばかりを優先すべきというわけではありません。それでも、可能な範囲での助け合いは必要ではないでしょうか。


 昨今、相手を罵ったり、蔑むための手段として扱われる京都弁をしばしば見かけます。

 文化的に、意見を言葉の裏に隠しているだけで、京都弁はヘイトスピーチのための言語ではないと思います。私は、相手の失敗を否定するためではなく、改善するきっかけのための道具として、使って欲しいです。

 相手をおもんぱかるための京都弁は、社会をより生きやすくしていくことにも繋がると思っています。

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