羨望鏡
小狸
短編
幼い頃から、
具体的に何が、ということではない。
誰かが――自分の持っていない何かを持っていると、羨ましい、と思った。
欲しい、と思った。
その感情はまるで湧き水が如く、彼の思考の中にあふれ、たちまち羨ましくてたまらなくなる。
例えば、新しい
例えば、持っていないカードゲーム。
例えば、自分の部屋。
例えば、暖かい家族。
例えば、突出した才能。
「いいなあ」
定型句が如く、一雄はその言葉を繰り返した。
頑固な父親と、面従的な母親という、亭主関白を体現した家の長男として、彼は育てられた。
それ故に、かなり制約の多い人生を送ってきた。
家長制度などとうに廃れたけれど、父親は長男としての彼を厳格に育てたかったのだろう。
加えて母親は倹約家で、ほとんど彼に物を買い与えなかった。
過保護に育てた――否、親の側からは何とでも言えよう。
いくら保護とて、それが過剰になれば虐待である。
薬も過ぎれば毒になるのと同じだ。
彼の
幼稚園の時、当たり前のように周囲が持っていたものを持っていなかった。
テレビやアニメを見ること、漫画を読むことも、当時は許されていなかった。
両親としては勉強に専念してほしかったのだろうが――学校は勉強だけを学ぶところではなく、人間関係を学ぶところでもある。それを理解していなかったのだろう。
話が合うわけもなく、一雄は孤立した。
初めて羨ましいと思ったのは、友達のいる子を、目の前に見た時だという。
「いいなあ」
――僕も友達が欲しいな、と思った。
そういった幼少期の欠乏は、成長と並行して徐々に広がっていった。
精神分析をすれば――彼のそれを悲劇とすることはできる。
しかし、会う人物会う人物に、自分の過去を、悲劇と、トラウマを説明することができようか。
それをしたところで、同情を誘っていると思われるだけである。
だから一雄は、よく羨ましがる子、人に嫉妬する子、として見られた。
――それだけなら、まだ良かったかもしれない。
一雄は思う。
決定的だったのは、中学一年生の時であった。
当時、ペン先が
唯一視聴が許可されているニュース番組で、彼はその情報を見た。
お小遣いなど
母に頼んでみたけれど、鉛筆で十分だろうと
発売の次の日の朝。
斜め前の席の同級生が、そのシャープペンシルを持っているのを見つけた。
彼は自慢げに、周囲のクラスメイトにそのシャープペンシルを見せていた。
内科医の息子で、鼻に突くところもあるけれど、根は良い。流行の品物を誰よりも早く持っていて、故にいつも多くの友達に囲まれていた。
それを――見て。
見た時だ。
一雄の中の羨望が、
――文学的な表現をしているけれど、それ以外に、どう表現しようか。
――心の中に、気持ちが広がって。
――それしか考えられなくなる。
――支配、されるのだ。
湧き水がこんこんと止まらないように、羨ましいという気持ちが一雄の中に広がり、支配される。
感情と行動が、不可逆的な結合を起こすのだ。
「いいなあ」
羨ましい。
羨ましい。
羨ましい。
羨ましい。
だから――盗った。
生まれて初めての窃盗であった。
体育の時間の前、教室に帽子を忘れたと嘘を吐いて、取りに行った。
ずっと見ていたから位置は分かった。机の横に掛けてあるペンケースの中である。洒落たそれのジッパーを開いていく時、自分の心臓の音が聞こえる程に大きくなった。
そして――
生まれて初めて、彼は満たされたことを感じた。
快感であったし、幸せであった。
だからこそ、彼は病みつきになった。
――あの時、誰かに見つかれば良かったのかもしれない。
――そうすれば、止まることができた。
――なんて、責任転嫁か。
シャープペンシルは自分の
盗られた男子は、帰ってきた後騒いでいて、学級会でも触れられたけれど、他クラスの誰かが盗んだということになり、一週間もすれば
特筆するべきは、その時の一雄は――罪悪感を抱いていなかった、ということにある。
窃盗――人のものを盗るということは、中学生にもなれば罪悪も感じよう。バレた時のリスク、社会的損失も、ある程度は計算できる。
厳格に育てられたからこそ、罪悪感という概念は知っているし、ひょっとすると罪の意識があったのかもしれない。
ただ、一雄の脳髄の中に溜まった羨望は、その罪悪感ごと打ち消してしまったのだ。
そして一雄は――これは悪いことに、その幸福感に、味を占めてしまった。
欲しいものを手にすると、こんなに幸せなんだ。
羨ましいものを手にすると、こんなに気持ちがいいのだ。
だったらもっと、手に入れたい。
特に中学、高校の時が、彼の窃盗の全盛期だった。
シャープペンシル、ボールペンを始めとし、高価なものや金銭も含まれる。
それだけにとどまらず、他人の才能にも羨望の範囲は拡張された。
学力は
そしてあらゆることに挑戦した。
挑戦することは大切――などという文言もあるけれど、才能とは一朝一夕で開花されるものでは断じてない。
それに「羨ましい」という理由で強くなれる才能は、一雄にはなかった。
色々なことに中途半端に、覚悟なく取り組んだ。
勿論、何一つ開花することはなかった。
――叶わないことがあるのは、
――叶うことで、代用しよう。
上手くいかなかった時は、別の――窃盗可能なものを盗んで、代わりに心を満たした。
*
これだけの所業を行っていれば、普通は周囲から浮く。常に他人へと羨望を向け続け、その溢れた感情を実行に移す、時にそれは叶い、時にそれは叶わない。その生き方は、成程普通の人間からかけ離れている。
しかし奇跡的に、誰も彼の本質は伝われなかった。
奇跡であると同時に、これは不幸でもある。
一雄の両親仲は、決して良くなかった。仲の良い家族が欲しいと何度も何度も思ったけれど、それはどうやってもできないことだったからだ。
もしも一雄の羨望が一度でも露見していれば、誰かが彼の内面に踏み込めたかもしれない。
彼の心の闇を、癒すことができたかもしれない。
しかし――一度も露見することはなかった。
短期的に見れば完全犯罪成立ではあるけれど、本橋一雄の生涯を鑑みれば、これは不幸なのだ。
誰も彼の本質に至ることはない――それはつまり、誰からも理解されないということに等しいのだから。
事実、盗みと続けるたびに心は満たされたけれど、救われることはなかった。
――満たされていく心が、心地よかった。
――物が欲しいと思った。
――手に入れたいと思った。
――独占したいと思った。
ただ世間はそれを察しはしない。
人間には伏線も過去編もない――いつだってあるのは残酷な今だけだ。
どんな悲劇的な過去があったところで、辛い目にあったところで、嫌なことをされたところで、同じことを他人にしていい理由にはならないのである。
残念ながら、それが現実というものだ。
そして大量の窃盗行為を繰り返し、背徳的な幸福感を味わい続けた一雄に、転機が訪れた。
大学を卒業し、そこそこ有名な企業に就職して――そこで一人の女性と恋に落ちた。
目立たない女性だったが、心の美しい人だった。
二人は交際し、結婚することになった。
その頃は親元を離れて一人暮らししていたから、両親の干渉はほとんどなかった。
そして結婚してから、彼はどこか、満たされてしまったのだ。
親の元で得られなかった愛。
誰かを愛し、共に生きる。
彼の欠けた心を、ゆっくりと満たした。
一人娘が生まれて、すくすくと育った。
幸せな毎日を送っていた。
娘が中学生になった、ある日のことだった。
とある出版社から、家に電話が届いた。
どうやら娘は、出版社の小説新人賞に小説を送り続けていて、そこに入賞したらしい。
現役中学生の小説家。
圧倒的な才能。
神童の誕生である。
世間からの注目を浴び、認められる。
娘の作家デビューが決まったのだ。
妻はとても喜んでいた。
一雄も、嬉しかった。
が。
その感情よりも先に、抑えていた筈の、枯れたはずの井戸から、こんこんと水が――感情が、湧き上がってくるのが分かった。
――これは。
その感情の正体を、一雄は知っている。
今まで満たされていた反動で。
一瞬よりも早い刹那で。
脳髄を、意識を、感情がどっぷりと満たす。
侵食し、浸潤する。
神童。
才能。
才覚。
唯一無二。
選ばれた存在。
褒められる。
褒めてもらえる。
認められる。
いいな。
いいな。
いいな。
いいな。
いいな。
羨ましい。
羨ましい。
羨ましい。
羨ましい。
羨ましい。
――欲しい。
一雄は、娘の首に手を伸ばした。
そしてぎゅっと握り絞めた。
心に、幸せが満ちた。
*
娘の殺害未遂容疑で、父親である本橋一雄が逮捕されたのは、令和3年2月5日のことである。
(了)
羨望鏡 小狸 @segen_gen
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます