【第1部完結!】ジーザスクライスト・オーバーパワー!
輝井永澄
第1夜 「J」の降臨
その男が池袋の街に降り立ったのはたぶん、僕がその
それまで、彼がどこでなにをしていたかなんてことは知らない。夜になるとこの街に集まって来る僕らみたいな不良少年たちの間でも、彼のことを知っていた奴はいない。
そいつは――「
* * *
その頃、この街にはいくつかのグループがあって、それぞれが縄張りを主張し、鎬を削りあっていた。どこそこで喧嘩があっただの、誰が誰を潰しただの、そういう話は昭和の漫画の中だけかと思いきや、今でも割とあるものなのだ。ある店の客層が一夜にして入れ替わった、なんていう話だってある。
いつ暴力に巻き込まれるかもわからない危険な街。だけど、それはたまらなく怪しい魅力を放つ街でもある。なにをさせられているのかわからない学校や、未来への希望が持てない仕事や――そういう退屈さに取り繕われた日常にはないなにか、剥き出しのまっさらなものが、猥雑さと頽廃と暴力の中にあるって、僕らは信じていたのだと思う。
だから、僕みたいな弱っちい人間でも、夜な夜なこの街に出入りしたりしていたのだけど――力を持たない人間にとって、それはやっぱり危険なことなんだって、この時僕は思い知らされていた。
「……ここではこれをやらないやつに人権はねぇってわけヨ。わかるだロ?」
金髪を逆立たせた赤いジャージの男が、だらしなく舌を出しながら顔を近づけ、言った。タバコ臭いその息に、僕は顔を背ける。
「や、そういうのはちょっと……」
僕がそう言って拒絶する横から、イリヤが割って入った。
「俺らクスリとかやらねーから。関わらないでくれよ」
「あァ……だりーなァお前……」
赤いジャージの金髪男はそう言って、目を空に泳がせる――と、次の瞬間、イリヤの股間を蹴り上げた。
「……んげぼ……ッ!」
「イリヤ君!?」
声にならない声をあげ、路地裏の片隅にイリヤがうずくまった。赤いジャージの金髪男がげらげらと笑う。
「いいから買えよ。安くしとくって言ってんだゼ? 仲間に入れてやるってよォ」
そう言って金髪男はいきなり、イリヤの髪を掴み、無理やり顔を上げさせる。
「や、やめろよ!」
今度は僕がイリヤと金髪男の間に割って入った。その様子を見て、金髪男が周囲の仲間たちとまたげらげら笑う。
「……なあオーガ。こいつさっさと漬けちまうかヨ」
「あー、そうするかぁ……可愛い顔してるしよ……」
オーガ、と呼ばれた仲間のひとり――2m近くありそうな恰幅のいい身体の上に、不釣り合いな童顔を乗せた大男の目線が、ねぶるように僕の身体の上を動いていることに、その時僕は気がついた。いや、ちょっと、勘弁してくれ――
「ほら、口開けろよ。すぐに終わるからヨ」
金髪男はピルケースから白い錠剤を取り出し、僕の顔に近づけた。
「い、いやだ……やめて……ッ!」
「おい、抑えろ」
手足をじたばたさせる僕を、他の男たちが抑える。金髪男は錠剤を僕の顔に近づけた。その向こうに、下碑た笑みを浮かべる「オーガ」の姿――
「……ちょっと君たち、なにしてるの?」
そのオーガの背後に、藍色の制服を着た男が二人、立つ。警察官だ――僕はそのとき、自分が未成年で、夜中にこんな場所をうろついているということを忘れて心底ほっとしたんだ。けれど――
――パグンッ!
なにか鈍い衝撃音が路地裏に鳴り響き、警察官が冗談みたいに吹っ飛んだ。まるでピンポン玉が跳ねるみたいに、反対側の壁に激突。そのままずり落ちたその後ろで、コンクリート壁にヒビが入っているのが見えた。
「なっ、貴様……ッ!」
もう一人の警察官が身構えるよりも早く、オーガがその拳を返す。これまた冗談みたいに警察官が吹っ飛び、勢い余って路地裏から表通りへと転がって行った。
「あーあ、やっちまったか……おい、逃げっゾ。そいつらさらっていっちまえ」
金髪男がそう言って、僕の両脇の男たちが腕に力を込める。
「ちょっ……やめ……ッ!」
うずくまっていたイリヤも腕を掴まれ、連れて行かれそうになっていた。僕は抵抗するが、細く短い僕の手足ではどうにもならなかった。
「くそっ……」
僕はオーガを見た。その恵まれた体格を見て、小柄な自分の身体を恨む。
「……そんなに熱い目で見ちゃって、可愛いなぁお前。ぐふふ……」
オーガが僕を見て、舌なめずりをする。その嫌悪感と恐怖が、僕の脳内にぐるぐると回転し――そして、火花となった。
「……ふざけるなよ……」
こみあげてきた怒りのままに、僕は顔を上げた。だいたい、この街は誰のものでもないのだ。暴力を傘に来て力任せに幅を利かす連中になんて、屈してたまるか――
「ああン? なんだっテ?」
金髪男が僕の顔を覗き込み――僕はその顔に、唾を吐きかけた。
「……ッ! こいツ……ッ!?」
金髪男は裏拳で思い切り僕を殴りつけた。掴まれていた腕を離され、僕はアスファルトの上に倒れ込む。
「あーあ、これでもうお前、生きて帰れねエなア」
金髪男はそう言って僕の腹に一発、蹴りを入れる。熱いような痛みと共に、胃液が逆流し、息が吸えなくなって僕は激しく咳込む。しかし――
「……お前らなんてクソだ! 絶対この街から叩き出してやるぞ! お前らのリーダーとかもまとめてな!」
身体の中に残ったい呼吸を振り絞り、僕は吼えた。
「……本当、元気がいいナア。おい、オーガ」
金髪男がこめかみをヒクつかせて応じた。オーガが頷き、僕の前に来る。
「こいつくれてやるから、やっちまえよ。そんでお前の奴隷にでもすりゃいいゼ」
「ああ、いいなぁそれは……」
オーガが僕に顔を近づけた。獣みたいな匂いがして、僕は顔をしかめる。オーガはその僕の頬を舐めるかという勢いで顔を突き出してきた。
(僕に、もっと力があれば……)
そしたらこんな奴らに負けないのに。友達を守れるのに。この街をもっと自由にできるのに――噛んだ唇から血が口に入り、鉄みたいなその味を僕は呪った。大人たちがどんな綺麗ごとを並べようと、暴力で全てが支配される世界を、呪った。ケダモノみたいなこの街の悪党どもを、脳味噌から火花が出るくらい、呪った――
「……あのー」
不意に、間の抜けた声が路地裏に響いた。まったく空気を読まない、気の抜けた声。まるで、道を尋ねるみたいな緊迫感のなさ。
「……ああン?」
金髪男が振り向くのと、僕が顔を上げてその声の主を見るのが同時だった。そこに立っていたのは、グレーのパーカーにキャップを被った男。クセの強い髪をねじ込んだそのキャップの鍔の下から、やや垂れ気味の涼し気な目元でこちらに問いかける。
「この辺に牛丼屋って、ある?」
「……はァ?」
――場違い、というのさえも場違いなくらいのその質問に、僕の心はつい、金髪男とシンクロしていた。たぶんオーガも、イリヤも同じだっただろう。道を尋ねるような間抜けな声だとは思ったけど、本当に道を尋ねてどうするんだ。
「お前、これがどんな状況か見えねェのか?」
「いやあ、なんとなくあんたらなら知ってるかなと思ってさ」
帽子の男は鍔に手をやり、その奥で笑みを浮かべた。
「なにしろ、安いもんしか喰ってなさそうだしね」
「……あぁン? 喧嘩売ってんのか、てめェ?」
金髪男がそう言うと共に、オーガが前に進み出た。帽子の男もそこそこの長身だが、オーガと比べればまるで大人と子供だ。しかし、帽子の男は涼しい顔でオーガを見上げ、答える。
「意図が正確に伝わって安心したよ。あんたら頭悪そうだからさ」
「……ッ!」
金髪男と仲間たちの顔色が変わった。見事な喧嘩の売り口上――僕はその男の堂々とした佇まいとその態度に、半ば呆れかえっていた。目の前の大男が警察を吹き飛ばしたのを、見ていなかったとも思えないのに――
「……わかった。死ね」
金髪男がそう言うと同時に、オーガが動いた。その巨体からは想像できないようなスピードで、丸太みたいな腕が飛ぶ。
――ドゴォン!
派手な音がした。素手の喧嘩の音じゃない。その音が鳴った先で、帽子の男が吹っ飛び、近くに積まれていた段ボールの山に突っ込んでいた。
「へっ、馬鹿が……」
金髪男が勝ち誇って言った。オーガは拳を振るったそのままの体勢で、段ボールに突っ込み、コンクリートに叩きつけられた男を見下ろしていた。僕は――倒れた男の足を見ながらしかし、なにか言いようのない高揚感が沸き上がるのを感じていた。
「……なに?」
オーガが言う声が聞こえた時、僕は見ていた。視線の先で、帽子の男が立ち上がるのを。膝の埃を帽子で払い、再び頭に乗せ、平然とこちらに歩いて戻ってくるその様を。その背後に、光のようなものさえ感じたのはさすがに錯覚だっただろうか。
「いいパンチだ」
帽子の男がオーガの前で立ち止まり、言った。
「だからもう一発、殴らせてやるよ」
男は先ほど殴られたのと反対側の頬をオーガに向かって突き出した。金髪男も、オーガも、呆気に取られて男を見ていた。
「ほら、どうした。早くやれよ」
「……グムゥゥゥ!!」
男に挑発され、オーガが再び、拳を振るった。左手で振るったさっきの一撃と反対側、大きく振りかぶった右の拳での、全力の一撃。
――ガゴン!
その次の瞬間、僕らが目にしたもの――それは、オーガの拳の一撃を受け、微動だにせずそこに立っている男の姿だった。
「右の頬を殴られたら、左の頬も差し出せ……ってな」
オーガの拳を顔面に受けたまま、帽子の男が言った。
「グ、グオオオォォ!?」
突然、オーガが苦悶の叫びをあげた。先ほど振るった右の拳を抑え、苦しんでいる。見れば――右の拳が、砕けている――!?
「……俺になにをしても、絶対に勝てないってよォォ!? これでわかったかこのデカブタが!」
帽子の男が声をあげた。
「ヌオオオォ!」
オーガがまた、吼えた。両腕を広げ、帽子の男に掴みかかる。しかし――僕の目から見ても、はっきりとわかった。オーガは、自分より一回りも小さい帽子の男に完全に呑まれている――!
――バキィッ!
次の瞬間、リーボックのスニーカーを履いた帽子の男の右脚が、オーガの横っ面にめり込んでいた。右の
「あ……ひぁ………?」
カウンター気味に入ったその一撃に、オーガの身体は横薙ぎに泳ぎ――白目を剥いて、地面に激突し地響きを立てた。
「ひっ……」
「オーガが、一撃で……!?」
金髪男と取り巻きたちが情けない声をあげる。帽子の男はそちらに振り向き、声をかけた。
「こいつ連れてどっか行けよ。通行の邪魔だろ」
「…………ッ!?」
金髪男たちは一瞬、戸惑いの表情を浮かべた。しかしその後は素直に、3人がかりでオーガに肩を貸し、その場を去った。
「ふん、つまんねーな」
帽子の男は手をぷらぷらとさせながらそう言って、その場を立ち去ろうとした。
「あ、ちょ、ちょっと待って!」
僕は男に追いすがり、声をかける。帽子の男は振り返った。
「……なにか用?」
「あ、いや、その……」
垂れ気味の目に温和な表情でそう答える男の顔は、先ほどオーガの一撃を喰らったと思えないほどきれいだった。髪の色は薄く、よく見ればその瞳も青みがかっている。細面に鼻筋の通った、端正な顔立ちだった。年齢は僕と同じくらいだろうか。
イリヤも僕の後ろからやってきた。自分たちを助けてくれたこの男に、僕はなんと声をかけようか、数瞬迷い――そして口を開く。
「牛丼、喰いに行こうよ。奢るからさ」
「……お」
帽子の男は一瞬、驚いたような顔をしたあと、ニカッと笑った。
* * *
「……ふうん、興味深いな」
北池袋の片隅にある雑居ビルの一室。「天塚組」と書かれた組事務所の一室で、白いスーツに身を包んだ男がデスクに足を乗せ、呟いていた。オールバックに撫でつけた頭の後ろに手を組み、口元には笑みを浮かべている。
「どうします、若頭?」
隣に立っていたスキンヘッドの男が尋ねた。男は切れ長の目をそちらに向ける。
「どうもしないさ。悪魔どもとやり合ってくれるなら都合がいいだろう?」
「しかし、《聖杯》は……?」
「いいから放っておけよ。頃合いを見て挨拶にでも行くさ」
「へい」
スキンヘッドの男は頭を下げ、部屋を出て行った。白いスーツの男はデスクから足を降ろし、タバコに火をつけた。ゆっくりとそれを吸い、美味そうに煙を吐く。
「
ひとりでそう呟き、くっくっと含み笑いをする。
「ま、どうなろうと……この世界の行く末はこの、大天使ミカエル様が見定めさせてもらうぜ」
男はそう言って、火をつけたばかりのタバコを消し、携帯電話を手にしてデスクから立ち上がった。
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