【黄金の鶏皮亭】の女将さん
殻半ひよこ
本日の一品:【勇者のための魔王討伐まかない丼】
【悪しき魔王は旨き飯にて腹から倒せ】の貼り紙は、今やすっかり壁の模様と大差無い。
年月と日光と冒険者の大言壮語に晒され続けたせいで変色し、かつては見るものに生唾を飲み込ませもう一品の腹の空きを誘った料理画も、その決意を賞賛し勇ましく旅路にエールを送った文言も、まさしく賞味期限切れ。劣化を尽くした挙句、触れば崩れて塵になりそうな有様だった。
もっとも、それに文句を言うような者もいない。
窓から差し込む陽の色もそろそろ変わろうかという頃合い、店にいるのは先程帰った客の皿を片している女将の一人だけ。
歳の頃は、二十の半ばを過ぎてしばし。上背は小、志はそれなりに大。髪の色はつやめく黄。
職人としてはまだまだ若造の部類だが、幼い時分より食うのもこしらえるのも好きで、近所の飯屋のおじいに見込まれ厨房の端をうろちょろしながら仕込まれた腕前と舌は、立派に人を喜ばせる技を覚えている。
「ふわぁ……」
そんな女将が、大口を開けて欠伸を一つした。
はふはふ、とだらけた顔で目を細め、
「いっやぁ、平和、平和……今日ものんびりで、結構だねぇ……」
今となってはこの体たらくだが、昔は確かにあったのだ。
この店に大勢の客が入り、余裕こいて欠伸をする暇も無い時期が。
それは、例の“壁の模様”な貼り紙が、国政の一環で領地の料亭・宿屋に配られた時代。
【悪しき魔王は旨き飯にて腹から倒せ】。
時の王は、先々々々代王より続く魔族との長きに渡る対決に、新たな指針を持って望まんと、一世一代の賭けに出た。
それが要するに、魔王を倒さんと旅立つ者への食事補助。
国庫を解き放ち、全国津々浦々から食材を買い集め、流通させ、認定を得た者が立ち寄った際の食を保障させる制度は、多くの冒険者を生んだ。
それだけならまだ、普通の補助だったのだが……王は、やり手というか、変人というか。
冒険の先へ先へ、魔王への道のりを進むほど、豪勢で特別な飯にありつけるようにした。
この理由に対して王は、
『より危険な戦いを潜り抜けた後ほど、旨い飯で労うべきじゃろがい!』
との回答を残している。
かくして、世紀の奇策は実行に移された。
最初の意図としては、冒険の大きな不安要素でもある食の確保の不安を無くすための補助制度であったが、次第次第に別の意味で知られるようになった。
——魔王を倒す冒険に出れば、食いっぱぐれない。
——しかも、進めば進むほど旨い飯にありつける。
時に素直な欲求は、清廉なる大義を食い尽くす。
【ちゃんとした飯で力をつけて魔物を倒して魔王を討つ】という目的だったはずの冒険出発は、いつしか【旨い飯を食うために旅に出る】逆転現象を引き起こした。
原因は当然ある。
国庫を解き放ち、世界中に応援要請を出し……神の奇跡か悪魔の悪戯か、この施策は、二重の意味でうまく行きすぎたのだ。
百年に一人の料理人が無数に要請に頷いたり。
千年に一つの食材が偶然にも各地で採れたり。
幸運が重なったおかげで、旨い飯は旨いのみならず、食った者のレベルをアップさせスキルをもたらし、直接に危険な冒険の役に立つまでとなった。
順路ごとに進んで各地の美味を片っ端から味わう、ついでに魔物を倒して人の役に立って名声まで得られる一石二鳥——
——誰からともなく。人々はこの施策と美食の旅を、【魔王討伐グルメツアー】と呼んだ。
人々が湧き立ち、我先にと進んでいった、
「……あーあ、なっつかしいねえ」
そんな時代を思い出し、静かな店内で、黄色の女将が独りごちる。
黄金時代の波も、匂いの名残まで去った場所。
それが、ツアー始まりの地である王都より、数えて二番目の小さな町の隅にある大衆食堂、【黄金の鶏皮亭】だった。
「まったく落ち着いたもんですな。あの頃がもう、夢みたいじゃん」
理由を何処に求めるか。
そんなのは、例の制度が大成功したからに決まっている。
食事補助の大当たりで、輩出された数多くの冒険者は、破竹の勢いで魔王討伐へと進んでいった。その結果何が起こったかと言えば、力の入れどころ、配分の変化——大チャンスへの予算集中だ。
元より人類の希望がため、収益採算を度外視してのある種の博打であった食事補助。事大詰めに至り、それ以降にはもう人間の領土も飯屋も存在しない危険な魔王軍領地へ踏み込んだ以降は現場へのケータリングが始まったのだが、その予想外の支出と食材調達をカバーする為に、切り詰める必要のある箇所が出てきた。
すなわち。
王都から最初のほうの村での、サービス停止である。
止むを得ない事情ではあったのだ。
今まさに目標に手をかけそうな、第一線で大エースの冒険者御一行がいるという時に、そちらへの援助を疎かにしてはしようもない。どんな食材も、本当に旨い目玉の部分は一握りで、それはもっとも食うべき人の皿の上に乗るべきではないか。
【黄金の鶏皮亭】は削られる側のリストに入っていた店であり、今から半年前に【冒険者補助指定食事処】の看板を店先から下ろした。以降、王家御用達の小売から山と食材が届くことも、連日店の前にも並べたテーブルを埋め尽くす冒険者で賑わうことも、雇いのスタッフと共に目の回る忙しさに振り回されることも無くなった。
この状態を、暇と呼んではいかにも切ない。
五年前、【魔王討伐グルメツアー】の始まる前に戻っただけだ。テーブルは店内だけ、四人がけが二つ。カウンター席が三つ。女将一人で回せるこじんまりとした、どこにでもある平和な飯屋。
先代店主のおじいが早隠居を告げた際、彼女に店を丸ごと継ぐ条件は一つ、【屋号はそのまま使うこと】だった。
しみったれた店構えに不釣り合いな名前を当時は散々恥ずかしがったものだが、今では別の意味で照れ臭い。
あの当時。
間違いなく、創られてから一番、豪勢で繁盛して立派だった時期のこの店を知っている冒険者が……今の【黄金の鶏皮亭】を見たら、どう思うだろう?
「……なーんて。んなこと、起こりゃーしませんけどね」
波は去った。
此処に立ち寄った冒険者たちは、先へ、前へ進んで行き、今はもっと旨い部分を見ている。彼らの華々しい英雄譚の中で、【最初の城から二番目の店】などは、後の印象にいくらでも掻き消される。度々出版される【冒険者が選ぶ美味かった店】の本にも名前は上がらず、吟遊詩人は食レポせず、凱旋の帰り道にだって、わざわざ寄らないに違いない。
「ま。こんな時代に料理人やってたおかげで、私なんかがいい夢見れた、ってところでしょ、うん」
どうにか食っていける程度の客入り。
他所からわざわざここを目当てに尋ねる者もいない、地元の馴染みの客相手の普通の飯屋。
そういうので別にいい、と女将は頷き、ふと、腹を押さえた。
「……さてさて。ちょうど客も途切れたことですし」
自分の胃袋もねぎらうか、と伸びをする。
【黄金の鶏皮亭】はこじんまりした飯屋だが、厨房だけはちょっと立派だ。
先代おじいのこだわりで、氷精霊の庫あり、火精霊のかまどあり。お祈りと供え物の手間こそあるが、おかげで食材は鮮度を保ったままで保存出来るし、火力の調節・火の当てかたの工夫で調理の幅がグンと広がる。おじいは思い返すだに慧眼だ。伊達に四六時中食い物のことばかり考えて、万年貧乏していない。
『#俺(おら)ぁよ、若ぇころからそりゃあもててもてまくったもんだが、全員断った。残念だが、もう鶏肉にぞっこん惚れ込んでるんだってな』との言葉が懐かしい。馬鹿だ。でも、だからこそ、おじいの作る鳥料理は、美しいほどの味だった。それこそ、女房以上に知り尽くしている、というふうに。
さて。
女将が改めて庫を確認すると、何ともまあ広々していた。
部位ごとの鶏肉は細々少しずつ、メニューにある品を一人前作るにはどう見ても足りない。つまり、もう今日はカンバンで、次に客が来られても断るしかない。
その様を見て、女将は「うし」と嬉しそうに頷く。
「かんっぺき。こういうせせっこましさに関しちゃー、おじいも超えちまいましたかねー?」
もともと今日は、そろそろ店を閉める時間だった。
つまり、食材は底を突いたのではなく、使い切ったというわけだ。
おじいの代から、火の日は早仕舞いで、水の日が仕入れで休みと決まっている。『暇で食材を悪くさせるな、仕入れた分を捨てるような真似はすんな』とぎゃんぎゃん言われた教えは思い返すだにやかましく、例の客入りの読めなさも忙しさも段違いだった黄金時代にあってもこの決まりを死守しきったのは、女将の密かな自慢だった。
「こういう切れっ端のあまりもんでも、まかないにすんなら十二分、ってね」
むしろ、制限があってこその腕の見せ所だ。
庫に残っていたのは、鶏肉の切れ端がいくらかと野菜が少々、卵が三つ。あと、かまどのほうに保温で置いているものがある。
近頃店で出し始めたところ、最初は不思議がられたものの、合わせる料理によってはパンよりも人気なあれ。
これで何をどう仕上げるか。
日持ちのする油や塩、ソースや香草の一通りは揃っている。まかないは女将にとって、魔術師や錬金術師の実験と似ている。ここから新発見に繋がることもあるし、失敗さえも美味しいデータ。自分がお客の勝手飯、誰に気兼ねの必要も無い。
「そうだなぁ……これならいっそ……いやいや、うーんと……」
そんなふうに、悩ましさと楽しさを揉み込んでいる最中だった。
店の戸につけていた、来客を知らせる鈴が鳴ったのは。
「……んぇ?」
驚きも無理からぬ。
特に広くもない町で、客層もほぼ決まっていた店である。ここ最近の経験からして、昼時間の鶏皮亭に来る最後の客は、木工のデナンダと相場が決まっていた。そこから遅れること一時間、こんな、営業時間ぎりぎりに飛び込んでくる客に、女将はまったく覚えが無い。最初の往生から二つ目の町では既に、通りすがりもなくなって久しいと言うのに。
「やー、いらっしゃい。すいませんねお客さん、実は今日、もう」
顔を上げながらの言葉が、言いさして止まる。
そこにいたのは、見覚えのない客だった。
熟れ始め、といった頃合いだろう年齢。ここしばらく、安心して休める天井とは縁がなかったのであろう埃じみた風体。身につけているのは、人界領の王城に近いこの場所には似つかわしくない鎧で、その腰に提げている剣はそんじょそこらの武器屋には百代先でもお目にかかれないような立派な鞘の一振りで。
そしてその青年は、実にこの場所に相応しい顔をしていた。
腹が減って腹が減ってしょうがない、冒険者の顔だった。
「ご無沙汰してます、チェスタさん」
先ほどの鈴より、倍は頼もしいでかさの腹の虫が鳴る。
精悍なる青年の顔には、微塵も覚えがなかったが。
その腹の虫には、確かに覚えがあった。
女将は驚きのあまり、大口を開けて言う。
「…………うっそ。きみ、もしかして、バート? 【七転び】のバート?」
青年はにっこりと笑うと、懐かしいフレーズを、【黄金の鶏皮亭】に久しぶりに響かせた。
「チェスタ姉ちゃん、腹減った!」
〆
冒険者食事補助制度は、冒険者をどんどん先へと送り出すためのものであったが、もちろん全員が全員、ひょいひょい進めるわけではない。
豪勢な朝食を腹一杯食って意気揚々と出発するも、道中手強い魔物に撃退されてとんぼ返り。朝と同じ店でしょっぱい晩メシを食べる手合いも大勢おり、そういう追い返されの割合は、魔物が手強くなる=王城から離れるほどに増えていく。
なので。
その少年は、女将にとって印象深かった。
他の者たちが料理を食って力をつけて何なく突破していく道中で、躓く・やらかす・跳ね返されるを繰り返す少年。何度も何度も店に戻ってくる、夢を抱えた駆け出しの冒険者。
意気こそ人一倍だが、実力が伴わない。口さがない者も親切な者も、
曰く、『向いてないからやめておけ』。
曰く、『魔物のメシになるだけだぞ』。
後から来てそう言った連中も、少年を追い抜き先へ行く。
少年は意気揚々と旅立って、痛い目に合って帰ってくる。
そんな日々は一月ほど続き、ある日彼はついに、朝出て夜に帰ってこなかった。
三年前のことである。
「……ちょっと。なぁにしてんのさ」
三年ぶりに帰ってきた常連は、テーブルでもない店の隅っこに腰を下ろしていた。
「こっち来なよ。こんだけ空いてんだから、わざわざそんなとこ座んない」
呼ばれた彼は、きょとんとした顔を浮かべる。それから、「つい癖で」と微笑む。
「いいのかな。そろそろ、席に座っても」
行っては戻るを繰り返す少年冒険者にも、小さいなりに意地があって願掛けがあった。
当時の彼は『自分なんかが何度も何度もテーブルを埋めたら、他のお客に申しわけがない』と言い、『いつか立派になれたら、ちゃんと席に座らせてもらう』と目標を掲げていた。女将が何度大丈夫だからと呼んでも、普段素直な少年はそれだけは頑なに断ったため、最後には根負けし、男の意地を汲むようになった。
ところで。
もちろん、その目標には問題がある。
立派になる=先へ進めた少年は次の町へと移っており、鶏皮亭で飯を食う機会がなくなった。
であるから、今こそそのやり残しを果たす時だ。
女将は肩をすくめ、からかうように手招きした。
「今の君が座れなかったら、他の誰も座れないでしょ。勇者バートくん?」
そう。
三年前、幾人から『お先に』と追い抜かれたかけだしの少年は、今、魔王領の最も奥深くへと進んでいる先頭だ。
彼より前に進み、彼より凄い飯を食っている冒険者は、王でさえおらず、吟遊詩人は彼のことをこう謳う。
最先端の冒険者、勇者バート。
「はは。うーん、感慨深いなあ。夢って結構、あっけなく叶うもんだ」
「ちょっ、やーめーてーよー。こんなちっさい店の席に座ったぐらいでさあ。もっと凄いことやってんじゃん、君……って、そうそうそう!」
厨房と接するカウンター席に座ったバートと話しながら、女将はぽんと手を打った。
「それだよ、それ。どうしてこんなとこにいるわけ、バート。魔王領からここまで、どんだけ離れてると思ってんの!」
「ああ、これのおかげ」
バートが取り出したのは、一枚の紙だった。ずらずらと小さな文字で、たくさんの名前が列ごとに書いてあって、女将はどことなく、大衆酒屋のメニュー表を連想する。
ただ。リストの最初の方に一個、光っている文字がある。
【黄金の鶏皮亭】が店を構える、まさに、この町の名前だ。
「……なにそれ?」
「この前倒した魔王四天王の最後の一人が落とした魔法のスクロール。何でも、一回だけ、持ち主はちょっとの間、今まで行った好きな場所に戻れるんだって。鑑定してもらったけど危険はなさそうだったから、使わせてもらったんだ」
「うぇえ!? ちょちょ、そんな大事なの使って、わざわざこんな店に来たってーの?!」
「うん!」
「……はー……。いや、そうだわ。君ってばそういう子だったねぇ。チェスタさんともあろうものが、えへへ、わかりきってたことで驚いちまいましたよ」
でもね生憎今日は食材がさー、と謝ろうとしたところで、勇者が先に話していた。
「多分明日、魔王との決戦なんだ。その前に、チェスタさんのごはん、食べたくて」
さすがに。
その笑顔は、どうかと思った。
「……………………はい?」
「もしかしたら最後かもしれない。戻ってこれるかわからない。勝つためのゲン担ぎじゃないけど、僕が、これまでいちばんがんばる気力をもらったご飯って、やっぱり鶏皮亭の料理だったから。これで、勢いつけようと思って」
「ちょい。ちょちょい。ちょちょちょちょい」
「だから、お願い! 注文はね、魔王もやっつけられる飯! お願いね、チェスタさん!」
思わず。
首が動いて、そちらを向いた。
厨房の食糧庫。そこには、今日も今日とて女将が務めを果たした結果がある。幾年もの営業で培われた勘が今日も今日とて発揮された成果がある。
すっからかんで、ほとんど何もない。
鶏皮亭が、国からの素材補助を得ていた全盛期のようなものなど到底作れぬ……誰に気を使わない賄いが精々の残り物が、使われたそうにこっちを見ている。
女将は言った。
鶏のように胸を張って。
「まっかせなさい」
〆
(……ってぇ、なぁに言っちゃってんですかねぇ、私ぃ!?)
カウンターを隔てた向こう側、厨房にて屈み込んだ女将は頭を抱えた。
よくぞ大口を叩いたものだ。料理人とは1を10に仕上げるものであって、0から1を生み出す魔法使いでは断じてない。ありもしないものを食べさせることはできない。
どうする。
今からそこらを駆けずり回って、食材を調達する?
(……無理だぁ、それも……!)
バートは言っていた。自分が魔王領から鶏皮亭に戻っていられるのは、魔道具の力で、ちょっとの間だけだと。
その“ちょっと”が具体的にどのくらいかもわからない以上、食材調達に時間をかけたせいで、料理が出来る寸前にタイムアップ、一口も味わえず生殺しのサヨナラなんて可能性さえある。
そんなのはダメだ。
結局は一つだ。
今、店内にある、自分用のまかないが精々の切れっ端の寄せ集めで、食べ盛りの青年を満足させる用意せねばならない……!
(そっれは、わかってる、んだけどさぁっ……!)
そこらの適当な酔いどれに「何でもいいからシメの一品ちょうだいな」と言われてるならば、「はいはい、お代はいんないから、味に文句はつけなさんなよー」とでも開き直るだろう。
だが違う。
相手はバート。あのバート。
人類の希望であり、最先端の勇者であり、明日には魔王と決戦するという相手に送る……ともすれば、最後の晩餐だ。
もし。
もしも。
自分がここで、半端で適当でマズい飯でも出したなら。
勇者のやる気はガタ落ち、腹の底から力が湧かず、本来の技も引き出せず、あわれ魔王にけちょんけちょんにぶちのめされる?
そうなったなら世界は滅亡? 支えを失い皆は絶望?
要するに。
女将の皿で、人類がヤバい?
(なんか、片田舎の飯屋の女将に、世界の命運、かかっちゃってます……?)
ああ。一体全体、何がどうしてこうなったのか。
ほんの一時間前は、自分の器に相応しい日常の中にいて、適当な賄いをこしらえて食ったら早仕舞い、店を閉めて明日の仕入れの支度を済ませてのんびりしようと考えていたのに。
そうして。
また田舎からのんびりと、前線の戦いに、こっそりエールを送る毎日へ——。
「楽しみだなあ!」
「ひゃわいっ!?」
カウンターから予期せぬ大声を投げられ、思わず立ち上がりながら裏返った声が出た。
「三年振りの鶏皮亭! 何を作ってもらえるんだろ!」
「あ、あっはははは! そりゃもう期待して待ってなさい! びっくりさせちゃるからさ!」
慌てたあまり、自分の言葉を味見する余裕もなかった。出してから死ぬほど後悔した。
「チェスタさん。僕、立派になったって、さっき言ってくれたよね」
「……うん。それはもう、間違いなく!」
だからこそ困っている、とはまさか言えない。
彼がもし、あの頃の少年であったなら、こんなふうに悩んだりはしなかった。
思えば色々やったものだ。
誰よりも常連らしい常連になった子供は、普通の客より距離が近く、遠慮がなく、時には新料理を試させて貰い、失敗したり、成功したり。
そんなバートが。
一見してわからないくらい、立派になって訪ねてきた。鶏皮亭の味を求めて。
「えへへ。なら、今度はこっちの番だね」
人懐っこい、だけではない声。
厨房から覗いた彼は、冒険で逞しくなったのだろう、ふてぶてしい顔で、ニヤリと笑い。
こんなふうに、挑発した。
「同じ三年間で、そっちは、どんなふうに立派になったか——お手並み拝見、チェスタさん」
口が空いた。
間抜けな顔を晒しながら、女将の瞳は、三年の熟成を遂げた彼を……そして。
その奥の壁を見ていた。
壁にある、くたびれた張り紙を見ていた。
そこにはこんな文句がある。
【悪しき魔王は旨き飯にて腹から倒せ】。
「…………あっはは」
恐ろしさが、解ける。
緊張を、纏う。
ぱん、ぱん、と、下拵えのように頬を叩けば、しかるのち口元に笑み。天然の、自然な、演技でない、本物の、上質な、笑い。
物心ついた時にはもう、厨房をうろついていた。
【黄金の鶏皮亭】を、先代店主のおじいから、屋号ごと引き継いで七年。
雨の日も、風の日も、事故で食材が急遽仕入れられなかった日も、世間が【魔王討伐グルメツアー】に沸いている時も、その波が去って以降のの緩やかな日々も、毎日、毎日、毎日毎日、毎日毎日毎日毎日。
腹減りどもをカウンターの向こうに回して戦い抜いてきた女将が。
これもまた、先代おじいの代から受け継ぐ、
「言葉で腹は膨れんね。一丁、皿で語ろうか」
〆
【黄金の鶏皮亭】はおじいの代から、契約した養鶏場より素材を卸す。
家族で営むその場所の、規模は小さいが仕事は丁寧。大量飼育と大規模出荷の大手では出せない育て方が強みで、一頭一頭の体調を手間暇かけて事細かに見ながら、土地の魔力を日々浴びて育った鶏の味は、牛にも豚にも幻獣肉にも引けを取らない。
——氷精の蔵に残った部位はそれぞれ少量。テールもも手羽中ささみ、そして皮。
——レシピは無い。今から創る。道標は経験と舌。これまでに培った人生すべて。
今日の分の仕事は終えたと休んでいた炎精のかまどに、供え物とお祈りを。返った返事はしぶしぶだったが、相手もおじいの代からの厨房の守り人だ。サボらないし手を抜かない。ただちょっと、こういう場合はやる気に火がつくのが遅いだけ。
火力が高まるまでの間、並行して作業を進める。
厨房に立つ料理人は、一秒たりとも無駄にはしない。
既に戦いは始まっている。この段取りで勝負が決まる。混ぜ合わせる調味料。素材の良さは鶏の領域、ここからが人の工夫。配合が残らず目分量。地図もない冒険のようだ。おっかなくってワクワクする。
それでも、空を、大地を、旅路の最中に見るように、当てにするものがある。
一度だけ思い返すのは、これを出す客人の顔。
大変な体験をして、腹を空かしたバートの顔。
————うん。
壁際に寄り、厨房の窓を開ける。そこには、先代おじいが若い頃に植えた一本の木がある。身を乗り出して手を伸ばし、生っていた実をもぎ取り、すん、と匂いをかいだ。鼻を抜ける鮮烈さに、女将は笑った。
それが最後の一片だ。これで揃った。もう、何も足りないものはない。
調理はなめらかに。包丁が踊る。火がはしゃぐ。混ぜ合わされたソースが波打つ。厨房の排気口から煙が出ていく。その匂いに、どこかの誰かが腹を鳴らし、唾を飲み込み家路を急ぐ。
夕の日が暮れている。
何処の誰でも腹減り時だ。
——そうして。
「お待ちどう」
今、一番近くにいる腹減りのために。
【黄金の鶏皮亭】女将が、盆を持ってやってきた。
「あんまり急な来店だったもんで、有り合わせなのは勘弁してよね。ま、それだからこそ——きみのための一品、なんてのが作れたんだけど」
自分の出来る限りの仕事を、忌憚なくやりきった。
そんな表情と共に、飯がカウンターを越えてくる。
勇者は、息を呑んだ。
唾も飲んだ。
彼の前に差し出されたのは、
黄金のパーティだった。
「めしあがれ。【黄金の鶏皮亭】特製——勇者のための魔王討伐まかない丼だよ」
こんな器を、バートは見たことがない。
球をぶった切った下半分に、可愛らしい鶏の絵が描かれている。女将はそれを、ドンブリという食器だと説明する。
中身でまず目につくのは、中央に立つ一本の小さな旗。
楊枝を用いて作ったのであろう芯に、バートが愛用する剣を簡略化した剣の絵がある。
「メニュー外の一品ってことで。常連への、こういう心遣いくらいしてもいいでしょ?」
そう。
まさしく心遣い……食べる側への思いやりが、器には詰まっている。
旗の周囲を埋めるのは、頼もしくひしめく鶏肉たちだ。
大きさはどれも一口サイズで均一だが、形状が違う。それぞれ個性的な鶏の各部位が賑やかにパーティを組み、こんがりと焼けたそれらは、鮮やかな黄色のタレを纏っている。
「味付けはご存知お馴染み、テリヤキ・ソース。きみのいっとう大好物」
その下は更に、ふわふわの炒り卵が敷かれている。焼かれた鶏肉が寝転がる柔らかなベッドを見て、思わずバートは笑ってしまう。
「懐かしいなあ。まるで……あの頃、僕が何度も倒れ込んだ——この町の草むらみたいだ」
思い出に記憶を投げかけたが、しかし、今は懐かしさよりも訴えかけるものがある。
腹が鳴った。
バートはスプーンを取り、いざ、先陣を切る戦士めいて、丼に最初の一口を切り込む。
それで、驚いた。
鶏肉の下、炒り卵の下……二つの黄金の奥から出てきたのは、見たこともないものだった。
無数の白き輝きが、スプーンに乗っている。
一粒一粒が、目を奪われそうに美しい。
「懐かしいだけじゃ、私の成長試すのには足りないっしょ? それね、最近、馴染みの業者さんから仕入れたもんでね。テリヤキ・ソースの起源でもあるキョクトーって地方の、コメっていう食べ物。大丈夫だから食ってみな?」
バートは、スプーンの上に乗っているものを、まじまじと見つめた後、一息に口へと運んだ。
果たして。
その後はもう、何の言葉もなかった。
彼の口はただ、喋るためより食べるためにだけ使われた。
がつがつ。
がつがつ。
がつがつ。
がつがつ。
スプーンを動かす手が、丼を味わう舌が、止まらない——!
(……っしゃ!)
その様を見ながら、内心で女将は喜びのポーズを取る。
客との距離が近い大衆食堂稼業にとって、この瞬間に勝る達成感はそうそう無い。相手が何も言わずとも、自分の狙いがバッチリはまったのは、匙の動かし方一つでわかるのだ。
丼に使用した五種の部位、もも・ささみ・ほぐし手羽中・テール・皮。下拵えとタレにより味付けの均整が取れたものとなるが、同じ鶏肉であっても、素材の味の濃淡も食感もはっきり違う。
今回、女将はそれをこの丼のアクセントとした。
部位ごとに味わいや食感が異なり、それぞれを楽しませることで飽きが来ない。長旅と激戦で腹の減り切った身体に、濃い味のタレで【メシ食ってる感】を存分に与える。
鶏肉の下に敷いた炒り卵は、砂糖と牛乳でふんわり甘めに仕上げた。
古来より、しょっぱい×甘い=無敵。双方向に揺れ動く味のシーソーは、人を無限のパクパクへと誘って離さない。これ世界の理。
極め付けにして隠し味は、テリヤキ鶏肉に散らされた、もぎたてのレモンの皮を細かく削いだもの。
濃厚タレの海に泳いでなお清涼、さわやかな風味は疲れた身体の食欲を奮い立たせ、次の一口を加速させる。
こういう時のコメは、パンに出来ない仕事をする。
パンが大きな塊であるのに比し、コメは一つ一つが小さな細かい粒の集まりであること。もっちりとちぎり食うパンに対し、柔らかく、噛み切りやすく、飲み込みやすいのがコメであること。
そうすると、何が起こるか。
ぐいぐい食える。
がつがつやれる。
これを見守る時間こそ、料理人の特権だと女将は思う。
自分の作り上げたものが、怒涛の勢いで胃袋に収まっていくこの様子。この達成感。幸せに飛び込んでいる、この時間。
ああ。
飯を作り、飯が食われる。
かくも、生きていることは素晴らしい。
「————————はぁ」
短くも激しい食事が終わった。
コメの粒ひとつ残らぬ見事な平らげ。バートはコップの水を一気に飲み干し、ようやく目の前で自分をにこにこ眺めている女将に気づく。
「美味かったっしょ……なぁんて、聞くのは野暮だよねえ。あっはは、おそまつさまでした」
少しだけ、恥ずかしそうに、ばつが悪そうに。
してやられた、という感じの表情を浮かべた勇者は、
「すみません」
いきなり、テーブルにぶつからん勢いで頭を下げた。
「え。な、ちょ、なんなのさ、いきなり」
「僕、わかってました。このぐらいの時間、【黄金の鶏皮亭】がどうなってるかって」
「ん、あー……あーあーあー」
相手が何を言っているのか、女将には察しがついた。
数年前の一月程度とはいえ、毎日毎日通い詰めていた常連客。仕入れの日もその前日のことも知っていた。
食材もからっけつになって、あとは賄いに使う残り物くらいしか……突然の賓客をもてなせるようなものが、残っていないことだって。
「……昔とは、事情も違う。僕が行ったら困らせちゃうだろう、って思い浮かびもしたんです。でも、僕。どうしても、我慢できなくて。ここのご飯が、食べたくて。……そんなわがままに、チェスタさんは、しっかりと応えてくれて——」
「やっれやれ。おばかだねえ、バート」
勇者が、顔を上げた。
田舎町の普通の飯屋の女将は、胸を張って答えた。
「らしくない遠慮してんじゃないですよ。きみがいっくら功績立てて、背も伸びて立派になって人類救う勇者様なんぞになったってねえ、うちの飯が食いたくて来てくれるんなら、私にとっては大歓迎のお客様なの。【黄金の鶏皮亭】は腹減りの味方、おじいの代からずぅっといっしょ。それにねえ、ほら」
女将が指を差す先を、勇者は振り向いて目で追う。
そこには、かさかさに日に焼けた、一枚の貼り紙。
【悪しき魔王は旨き飯にて腹から倒せ】。
「いいかね、よっくお聴きなさい。私は冒険者じゃないけれど、それでもさ。一緒に戦ってるつもりなんだぜ。隣を歩いていけなくて、背中を送り出す側だとしても。私が、私の作った飯が、この後の一歩の力になって。そんで——腹ん中から、鶏肉の一切れまでなくなった後でも。この店で食った思い出が、『またあれを味わうまでがんばろう』って、離れた場所で君を後押しできるようにって、包丁振るってたんだ。あの頃は、そうやってずっと、私だって。魔王と戦ってる気分で、一皿一皿作ってたんだ」
それを。
そのことを、一言で現すならば。
「私だって、バートの仲間! 君をうまいと幸せにして、そんで、魔王を倒すのさっ!」
にひひひひ、と。
大層な口を、大層本気で、片田舎の飯屋の女将が言い切った。
「しっかりやれよぅ、勇者様! きみの負けは私の負けで、きみの勝ちは私の勝ち! 我らが【黄金の鶏皮亭】の評判をー、魔王程度に落とさせないでくださいよー?」
「……は、ははは。あはははははははっ」
勇者は笑い、その身体がふと、黄金の粒子に包まれ始める。
どうやら、例の魔道具の効果が切れて、強制的に元いた場所へ、魔王領へと再び戻されるようだった。
飯休憩は、終わりの時間だ。
「ごちそうさま。うまかったよ、チェスタさん。三年前と同じ……いや。あの頃以上に、元気をもらえる味だった」
「当然。私の料理だぜ? 籠ってんのさ、心ってのが」
勇者が立ち上がり、丼をかっこみ出す前に隣に避けていた旗を、指先で摘み上げる。
「気に入った? なら持ってきな。チェスタさん特製、勝利祈願のアミュレット。しかもだよ、なななんと、次回来店の際には割引のサービス付き」
「……ええ。是非、ありがたく貰っていきます。きっとまた、この店で」
「はーい、予約受け付けましたっ。おっと、キャンセルはダメだよ。絶対絶対、魔王討伐の打ち上げは当店で。そうなると、久々に店の前にテーブル並べられるよう、準備しとかなきゃですねえ」
明日の献立を考える。
祝いの予定で
訪れるその日は、黄金のように輝いている。
その楽しみが、困難を乗り越える力を、腹の底から湧かすのだ。
「ああ、そうだ。こんないいものを食わせてもらったんだ、今日のお代だけど」
「えぇ? いいっていいって、味に妥協はしなかったけど、メニューにも載ってない即興で、身内向けのまかないみたいなもんだったしさ」
「だからこそだよ。はい」
それは、ごくごく、軽い調子で。
完食後の、一杯の水のように爽やかに。
勇者が取り出して、女将の、ずっとずっと誰かのために作り続けてきた飯の匂いが染み付いた手に乗せたのは。
琥珀に輝く宝石の付いた、指輪だった。
「魔王を倒して帰ってきたら。世の中が平和になったら。僕は毎日、あなたの作るごはんが食べたいです」
「————————」
「チェスタさん。僕にとって、あなたそのものが、いちばん元気をもらえる金色です」
これまでで一番の、真剣な眼差し。剣のように真っ直ぐな、余計な味付けの無い声。
それに対して、彼女が何かを言う前に、彼の姿は消え去った。
腹減りのいない飯屋で、綺麗に食われた食器を前に、女将はひとり立ち尽くす。
しかるのち腰を抜かし、赤面し、ばくばくする胸を押さえ、かつての迂闊を思い出す。
それは、三年前。
年下でかけだしの冒険者と交わした、何気ない会話。
『なーなー。女将はさー、どんな人がタイプなの?』
『はっはっは、そうだねー。私の料理を、ちゃーんと全部、お残ししないで綺麗に食べてくれる人かなー? ほら、お野菜も残さない。好き嫌いしないでしっかり栄養摂らないと、魔王なんて倒せないよ。チェスタさんってば、きみには期待してるんだからね、バート!』
〆
さて。
この後、平和になった世の中で【伝説の勇者が食材を調達する片田舎の飯屋】が有名になり、大層繁盛するのだが。
それはまた、別の
【黄金の鶏皮亭】の女将さん 殻半ひよこ @Racca
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