裏切りの代償はその命で

和泉鷹央

婚約破棄と新たな旅立ち

 その夜のパーティーは、余興というには過ぎた場の盛り上がりを見せていた。

 貴族子弟子女の多くは、十五・六歳になると婚約し、結婚する。

 長男・長女の多くは家を継ぐか、どこかに養子に入ることが多い。

 その場合は、たいてい実家よりも有力貴族の元に行くことになる。

 

 結婚する前には社交界にデビューして、多くの人々に自分を売り込むことも必須条件だ。

 そうした彼らにはやはり、予行演習という者は必要で。

 十二歳から十六歳まで、すべての貴族の子女が通うことを義務付けられている学院の夜会は、その前哨戦にはぴったりの場所だった。


 人の集まりというものはどこの世界でも、どこの社会でも力ある者の側に群れるものだ。

 だからこそ、学院でも有数の名家の出身でありながら、孤独に夜会に参加している彼女はとても浮いて見えた。


 ラクーン公爵家の第二令嬢ナフティリアは、いままさに、おひとり様のど真ん中に自らを置いていた。

 彼女にはこのローストス王国の第三王子エリオスという婚約者がいるのだが、彼は夜会が始まる前も、始まってからもまったく会場に姿を現わす気配がない。


「どうしろって言われるのかしら。暇だわ‥‥‥」


 夜会の会場となっている学年のホールは、賑わいに満ちていて、その中に混じることもができない自分のことを恨めしくさえ思ってしまう。

「今夜は誰とも混じることなく、一人で待つように。いいな」とは、婚約者の言いつけで、身分が上の彼氏の命令には従わなければならない。


「ナフティリア様、あちらでご一緒にお話をいたしませんか」

「ラクーン公爵令嬢。どうか僕と踊っていただけませんか」

「あなたが一人でいらっしゃるなんてありえないことだ。我々と一緒に将来についての話をしましょう」


 そんなお誘いがやってきては「ごめんなさい」と、断るのも心苦しくなってしまう。

 夜会が始まった頃はそんな彼らも多く行ってきた。 

 でも中盤を過ぎてしまった今となっては、もう誰も彼女に声をかけてこない。

 むしろ、そんな時間まで一人でいることに周りは奇妙な視線を注ぎ始めていた。


「あの御方、ずっと一人でいらっしゃいますわ」

「ナフティリア様でしょう? エリオス殿下のお姿が見えませんわね」

「お二人は婚約していらっしゃるのに、珍しいこと」

「そういえば、お昼頃に、殿下から何かを言いつけられていたような‥‥‥」


 会場の隅に用意された長椅子に一人座り、寂しそうに佇んでいる彼女を見て、周囲はあれこれと余計な詮索を始める。

 そのうちに、昼間の二人の会話がなにやら普通の口調ではなかったかも? なんておかしな発言が飛び出して、二人はもしかしたら破局寸前なのかもしれない。

 そんなふうに、遠巻きに噂する人々の脳内では、彼女がなにか粗相をして殿下をおこらせたのではないか、と噂が飛び交い始めた。

 そんな時だ。

 彼女の婚約者たる、第三王子エリオスが、会場に姿を現したのは。




2

「見て! 殿下がいらっしゃったわ」

「本当ね。それにしても随分と遅く‥‥‥ねえ、お連れの令嬢はどなたかしら」

「さあ? 初めて目にする御方ですけど。でも、綺麗な女性」


 ざわざわと会場が別の意味でにぎわい始める。

 ナフティリアはそのとき、さっきまで座っていたソファーからテラスの席へと移動していた。

 会場には幸せそうなカップルがたくさんいて、その中に混じっていると一人で彼のことを待つのが辛くなってしまったのだ。

 

「何かしら」


 会場のざわめきがそれまでのものとちょっと違った雰囲気に変わった。

 そして聞こえてくる声は、こちらに向かってやってくる誰かのことを噂しているもので、その口調はどれもが疑いや戸惑いに満ちたものに感じられた。

 テラスは会場の床から数段、下に階段を降りたところに設営されている。

 そこに誰かが足を踏み下ろした音を耳にして、ナフティリアは後ろに顔を向けた。


「エリオス殿下‥‥‥そちらの方は一体?」

「ここにいたのか、お前のことを探したぞ!」

「あ、はい……申し訳ございません殿下。ちょっと夜の風に当たりたくなりましたので」


 彼は見知らぬ一人の令嬢に、その腕を貸していた。

 彼女は夜の闇に映える綺麗な銀髪を腰まで伸ばし、知的な苔色の瞳に吸い込まれそうになるような雰囲気を携えた、小柄の女性だった。

 自分の金髪に黒の瞳とは対照的だ、とナフティリアはその美しさに驚きの声を漏らす。

 さっきまで会場を沸かせていたのは、彼女の登場が原因なのね、と理解した。

 

「タージマル王女オリビア様だ」

「タージマル‥‥‥? あの国の王族は滅亡したはずですが‥‥‥?」


 それは、十数年前に隣国である帝国との戦いに敗れ滅亡した国の名前だった。

 王族はすべて死刑に処され、国民の多くは奴隷として海外に売り飛ばされたと聞く。

 そんな亡国の王女、といきなり言われても信じがたいものがあった。

 婚約者は怪訝な顔して現実を受け入れることができないでいるナフティリアに、厳しい視線を突き付ける。

 燃えるような赤毛と青い双眸が、彼の怒りを体現するかのように、会場の光を背に受けて輝いていた。


「僕の発言が信じられないというのか、お前は」

「いえ、そんなことは。大変失礼いたしました」


 相手が王族というのならば、例え失われた国のものであっても、その身分は保証される。

 ナフティリアはエリオスと同じ王族だが、王位継承権を持たない。

 その意味では、一段下がった公族となるから、オリビアという女性を目上の人として礼儀を尽くさなければ鳴らなかった。


「初めまして、オリビア様。ラクーン公女ナフティリアと申します。本日はお会いできて光栄です」

「よろしく」


 こちらは膝を折って挨拶をしているというのに、あちらは壇上から、まるで汚い物でも見下ろすかのようにしてふんっと鼻を鳴らしてくる。

 その様はこの場にいる誰かにやるせない怒りを叩きつけるような、憤然としたものを感じさせた。 

 私の至らない行動がこの王女様の怒りに触れたのだろうか。

 もしそうだとしたら早々に彼女に謝罪しなくては――。

 そう思っていたら、エリオスが口を開いて宣言した。


「ラクーン公女ナフティリア! お前にローストス王国、第三王子エリオスの名に於いて、僕との婚約破棄を申し付ける! どうしてこうなったかは理解しているな?」

「婚約‥‥‥破棄?」

「そうだ。お前は僕に相応しくない。この第三王子エリオスには、お前のような卑怯で恥知らずの輩は、必要ない!」


 いきなりの婚約破棄宣言。

 あまりにも唐突すぎるそれは、一瞬、ナフティリアの思考を奪った。




3


 そんないきなり――どうすればいいの!?

 否定も肯定も、どちらの言葉も脳裏に浮かばない。

 自分の置かれた状況が好ましくないことだけは理解できた。

 さらにそれを受けてしまっては実家の名誉にかかわる、という保身的な思考がその後に浮かんでくれたのは、ある意味、良かったのかもしれない。


「お、お受けいたしかねます‥‥‥殿下」

「なんだと?」


 震える唇から小さくそう切り出すのが精一杯だった。

 静かで穏やかな海岸に立っていたら、いきなりやってきた怒涛の荒波に揉まれてしまい、息をすることも忘れてしまうことにそれは衝撃的な宣告だった。

 心の中に生まれた嵐はまだおさまることを知らず、ぐいぐいと理性を圧迫していく。

 それはまるで冷たい氷の牢獄の中に閉じ込められてしまったような、そんな錯覚をナフティリアに覚えさせた。


「このような場でそのような宣言を為されても、お受けいたしかねます。父にしかられてしまいます」


 どうやってこの牢獄から抜け出したらいいのだろう。

 ナフティリアは一度目を閉じて、大きく深呼吸をする。

 怒れる父親の顔が、まぶたの裏に、浮かんでは消えた。


 誰か助けて。

 その想いは残念ながら言葉にならなかった。

 ぜー、はーっとなかなか呼吸が元に戻ってくれない。

 焦れば焦るほど狼狽してしまい、何を答えるのが正しいのかがわからなくなる。


「ああ、それなら問題はない。会場に着く前に、既に許可を得てあるからなッ」

「え? 許可、とはなんですか、エリオス」


 その単語を聞いて、ナフティリアは自身の体から、一斉に血の気が引くのを感じた。

 まさか、まさか‥‥‥と、エリオスの次の言葉を待つ。

 告げられたそれは、この世でもっとも聞きたくない言葉だった。


「僕に婚約破棄される情けない娘など、公爵家にはふさわしくない。お前を一族から追放する、だそうだ。貴族籍をはく奪するともおっしゃっていた。残念だな、公族からいきなり身分を奪われて、これからどうなるのやら」

「そんなっ。お父様がそんなことを‥‥‥? 娘に確認もせずに、そんな理不尽なことをなさるはずが―――ッ!」

「本当のことだ。この通り、お前との婚約を破棄する書面に公爵閣下の署名も頂いている。見るがいい、婚約破棄の条件にはお前の身分を奪い、平民にするとも書かれてある」


 そう言って第三王子は忌々しい物を叩きつけるかのようにナフティリアに一枚の書面を放り投げた。

 それは勢い余って彼女の顔面にぶつかってしまう。

 

「写しをおまえにくれてやる。何かあった時に僕が勝手に言い出したなんてことを、どこかで吹聴されたらたまらんからな」

「う、そ‥‥‥」


 わなわなと唇が震えた。

 それは両手の指の先にまで伝播していき、足元に落ちた一枚の紙を拾い上げるのに随分と時間を要した。

 この世で一番信じていた家族に追放されるという裏切りが、ナフティリアの心を悲痛のどん底へと叩き落そうとしていた。




4

 悲しみのあまり、テラスの向こうにある大河の支流へと身を投げようと考えてしまったほどだ。

 でも、待って、と。

 自分の中で誰かがそう呼び止めた。

 その紙を確認しなければ。

 どうしてこうなったのかを、詳しく知らなければその命令に、納得して従うことなどできるはずがなかった。


「なによ、これ。どうして、こんなことを書かれなければならないの!」


 恐る恐る、その紙面をなぞるようにして一文、一文を目で追いかける。

 そこには、ありもしない現実と誹謗中傷にしか受け取ることのできない内容の文言が記されていた。

 ナフティリアが王子妃補としての特権を利用して、ついさっきその存在を知ったばかりのオリビアを‥‥‥。


「虐待? 私がです、か? だって、その御方とはいま始めてお会いしたばかりなのに。そんないい加減なことを誰が殿下にお伝えしたのですか!」

「誰だと? そんなことは関係ない。いまはお前を裁くことだけが大事なんだ!」

「無茶苦茶だわ‥‥‥」


 しかし、婚約破棄宣言書には、その仔細が述べられている。

 それを代弁するかのように、王子が陰険な声で叫んだ。

 

「公女ナフティリア。彼女こそは、亡国タージマルの王女オリビア様だ。故国の滅亡により、我が国ローストスに亡命なされた。これまで市民のなかに紛れ、身分を隠して生きてこられた。彼女の生い立ちを知りながら、王太子妃補の特権を利用して、お前がオリビア様に行ってきたかずかずの虐待の証拠は挙がっている。お前には王族に対する侮辱罪が適用され‥‥‥」

「いや、それはおかしいだろ?」

「誰だッ?」


 そう言った誰かが、すっとテラスと会場をつなぐ二つの入り口のもう片方に立った。

 声がした方向を三人が一斉に見やると、そこには留学生である‥‥‥帝国皇太子ゼフェトが怜悧な瞳を向けていた。

 

「アルゲイン帝国‥‥‥皇太子、お前か」

「帝国皇太子っ?」


 まずいところを見られたと言いたそうな顔をするエリオスと、悲鳴に近い声をあげるオリビアがそこにはいた。

 黒髪黒目の帝国皇太子はにこやかな笑みを浮かべると、グラスを掲げて見せる。

 ナフティリアには、中身がなにかまでは分からなかった。


「やあ、エリオス殿下。これは修羅場に失礼したかな? 大丈夫か、ナフティリア公女」

「え、ええ……ゼフェト。どうして‥‥‥」

「いやなに。王国と帝国は同盟関係にあるというのに、その帝国の探している仇敵がここに現れたと耳にして、な。面白そうだからやってきてみたら君が糾弾されていた」

「仇敵って、そのオリビア様が、そうだと言うの」


 ゼフェトが登場したことで、ナフティリアはちょっとだけ、心の余裕を取り戻すことができた。

 数年来の友人が側にいてくれることは、これ以上にない安心感を与えてくれる。

 それが帝国の皇太子ともなれば‥‥‥その威力は絶大だった。




5

「しかし、おかしな話だ」と、さらに面白そうにゼフェトは語り出す。 

 その瞳は決して笑ってはいなかった。


「タージマルの王族は全て死んだはずだ。あれから十数年、帝国はその残党を見つけることに躍起になってきたからな。そんなことより年齢だ。あの国の王族は確か、当時の最年少で十二歳だったはず。生き残っているとしてもそんなに若くないだろうし、外観が一致しない。やつらは銀髪に金色の瞳だ。髪色は同じだが、瞳の色までは変えられなかったのかな、オリビアとやら」

「そんな、その話は嘘よっ! 私は間違いなく、タージマルの王族だわ!」

 

 あり得ない、自分は無実だと、オリビアが叫んだ。

 追撃するように、ゼフェトが質問する。


「証明は? 証拠はどこにある」

「殿下が、エリオス殿下が! 殿下と公爵様が認めて下さったもの!」


 殿下はともかくとして、公爵? その名前にナフティリアとゼフェトは顔を見合わせる。

 会話の間に彼は移動していて、ナフティリアの側にやってきていた。

 ナフティリアを立ち上がらせ、友人を守るようにしてその背に庇っていた。


「どこの公爵様だ? だいたい、この王国に亡命した事実はどこにある? 仮にお前のことを亡国の王族だと認めたとして、我が帝国との関係を、この王国はどう考えるのだ。なあ、エリオス。これは両国の同盟を破棄するという認識でいいのか? 俺は皇帝陛下にそのように報告するぞ」

「まっ、待て! それは待て! これは高度に政治的な問題なんだ、皇太子のお前だって口出しをしていい話じゃない」

「高度、ねえ? まあ、……確かにな。それは一理ある。だが、今聞いた事実は報告させてもらう。それが俺の義務だからな。ところで‥‥‥」


 そこまで言い、ナフティリアと青ざめているオリビアを交互に見やったゼフェトは、ナフティリアの手の中にあった婚約破棄宣告書を奪うようにして取り上げた。


「ゼフェトっ、なにするの!」

「お前は黙ってろ。こんな証明書一枚で、人一人の人生を狂わしていいものか。第一、結婚の約束までしたこのクズ男に、お前が泣かされることが、俺は情けなくて仕方がない。怒りしか湧いてこないんだ」

「でも――あなたが関わったら、それこそ帝国と王国の問題なるわよ」

「そっ、そうだ。ゼフェト、お前が立ち入っていい話じゃないんだ。さっさとここから出て行け。これはこの国の第三王子としての命令だ。お前ですら従わないなら、捕縛することになる」


 頭に血が昇ったのか、考えなしのエリオスの発言に乗るようにして、オリビアもまた叫んでいた。


「そうよ、帝国の人間は去りなさい! 今はエリオス殿下が婚約破棄を宣告されている、真っ最中なんだから! 無関係なよそ者は出ていくべきだわ」

「へえ、無関係。なるほど、それは面白い。なあ、ナフティリア」

「……ゼフェト、それ以上、言わない方がいいと思う。あなたまで巻き込みたくない。私のために怒ってくれているのは嬉しいけれど‥‥‥」

「被害者のお前がそれを言ったら駄目だろ? 婚約発表を受け止めてやればいい。そうしたら、ここに書いてある通り、お前は貴族を辞め平民になるんだろ」

「うん……」


 ナフティリアはこれで何もかも解放される。

 そんな半ば自暴自棄になった顔をして、呻くように言った。

 



6

「それなら都合がいい。俺の帝国に来いナフティリア。俺はお前が欲しい!」

「なっ! ‥‥‥こんなところでなにを馬鹿なことを言ってるの! あなたまで、不敬罪で逮捕されて処刑されるわ」

「帝国の皇太子の俺を罰すると? 面白い話だ」

「こんな馬鹿なことをやる連中だもの。なにをしでかすか分からないじゃない」


 だから、あなたを巻き込みたくないからここから出て行って。

 ナフティリアが指さしたその先には、テラスの出口が待っていた。

 その向こうにはこのやりとりを固唾を飲んで見守る学友たちと、いつのまにやってきたのか講師や学院が雇っている衛士たち、教授連まで顔をそろえていた。


「私のことを婚約破棄するのは合法でも、この場所から連れ出すことは多分、違法だわ。たとえあなたが帝国の皇太子でもこの国の法律は曲げられない、でしょ? 私は婚約破棄されて貴族じゃなくなっても、まだこの国の国民なんだから」

「随分と潔い決断をするんだな。じゃあその後にお前はどうする?」

「別に。出て行けといわれたら出て行くし、捕まるならそれまで」

「おいおい、頭は大丈夫か。ひどい目にあって判断が鈍っているのは分かるが、今は俺に従った方がいい」

「無理よ‥‥‥多分さっき名前の出た公爵っていうのは、私のお父様のことだと思うから。ねえ、殿下。そうなのでしょう?」


 このやり取りを聞いていたエリオスは、そう指摘されてびくっと肩を震わせた。

 まったく、情けない男だわ。

 ナフティリアは心でそう嘆いてしまう。

 なにか陰謀を企むにせよもっとまともな方法があったろうに。

 少なくとも、この場に皇太子がいることは事前に調べがついただろうし。

 何よりもこの場で婚約破棄をする必要はなかったのだ。どうしてもそれをしなけれないけない理由?

 そんなもの、どこに――。


「ああ、そういうこと」

「なんだ?」

「いいの。それより、一つだけお願い事を聞いてくれない?」


 小さく、そう耳打ちされて、ゼフェトは顔をしかめた。

 本気かと訊ねるも、ナフティリアの意思は決まっているらしい。

 ちっ、と舌打ちして、彼は彼女に、求められたものをそっと手渡した。


「ありがとう。あなたはもう行ってちょうだい。そして、二度と戻ってこないで」

「助ける努力はしてみる」

「先にこの国を去ったほうか懸命よ」

「かもな」


 囁くようとその会話を中断させる声が上がった。

 エリオスだ。

 彼は学院の衛士たちに命じて、ナフティリアの周りに彼らを配置させようとしていた。

 どうやら、捉えるつもりらしい。

 どういう名目でそんな風になるのか全く理解が及ばない。

 とりあえず彼は、自分という邪魔な存在を消したいのだと、ナフティリアの心は呆れていた。




7

「寄らなくてもいいわ。エリオス殿下の言われるとおりにしますから。抵抗はしません」

「まったく‥‥‥最初からそう素直に言えばいいんだ。お前は婚約破棄を受け入れ、このオリビア様を虐待した罪で断罪される。平民が貴族に、それも他国の王族に手を挙げるなど、死罪に等しい!」

「私は全く身に覚えがございませんが。それでも殿下が仰せになるなら、そうなのでしょう。そちらに参りますから御自由に、断罪なさるといいわ」

「いい心掛けだ。明日にも、お前の首を跳ねてやろう」

「……最低の人」


 嘲りと怒りを含んだその言葉を吐き捨て、ナフティリアはエリオスの方へと足を向けた。

 彼女が離れていくのと同時に、皇太子はさっさと踵を返してテラスを抜け出していた。

 足早に同じく帝国から留学してきている子弟子女のグループへと戻っていく。

 彼らの周りには、あちらの国から派遣された騎士たちが、主人たちを守るようにしてこの場から去るべきだと話しているのが聞こえてくる。


「見捨てられたな?」

「……お父様とどんな約束を交わしたのかは知りません。でも、そのオリビア様を擁立して亡命を許すなんて。国王陛下に聞こえたらとんでもないことになりませんよ」

「さあ? それはどうかな」

「陛下も、御存知ですか……なんて愚かなこと」

「お前にはもう関係ない話だ。ああ、そうだ。あの書面には続きがあってな」

「……最後に元婚約者として、愛情のひとかけらでも与えては下さらないのですか」

「ふん。忌々しいお前に触れることなんてしたくもないが‥‥‥まあ、いい」


 そう言い、エリオスはナフティリアを抱き寄せた。

 これから死を賜ることになる彼女は、小刻みに肩を震わせていた。

 恐怖に耐えきれなくなったのだろう。

 そう解釈した第三王子は、彼女の頭にキスをする。


「哀れな女だな。利用されるだけされて死んでいく。道具のような女だ‥‥‥最後の文面を教えてやろうか」

「その残された文面、知っております。ゼフェトと私が不貞を働き、オリビア様を虐待した証拠がある、とでも書かれているのでしょう?」

「なっ。なぜ、それお―――ッ」


 しかし、自分の胸元近くに寄ってきたナフティリアに絶望を与えてやろうと考えて、エリオスは饒舌になり過ぎていた。

 語ることに夢中になりすぎて、目の前にある危機に気づくのが遅かった。

 訝しむエリオスの顔が、いきなり苦痛に歪んだ。

 胸元にじんわりと朱の華が咲き誇る。

 

「殿下っ! ひいっ――、血が‥‥‥」

「黙りなさい! 偽りの王女なんて、この人には相応しくない。あれだけ私のことを愛していると叫んだのだから、裏切るというのなら、死を以って償えばいいんだわ‥‥‥」


 そう言い、ゆっくりと顔を上げたナフティリアの顔は、エリオスの胸からあふれ出る大量の血しぶきで、紅に染まって見えた。

 周囲から悲鳴があがり、この場を覗いていた群衆はその血を目にすると、一斉に蜘蛛の子を散らすかのように逃げ出していく。

 衛士たちが駆け寄ってナフティリアをエリオスから引きはがしたときには――、何もかもが遅かった。



8


「殿下!」

「ああ、もう駄目だ。意識が、殿下、殿下!」


 学院で医術を教えている教授たちや、回復魔法に長けた魔導師達が、その場に遅れて駆け込んできた。

 彼らは各々の方法で止血をしエネオスの命を少しでも長く保とうと努力をしていたが、それはどうにも無駄なように思えてならなかった。


 ナフティリアがゼフェトから借り受けた護身用の短剣は、まずエリオスの肺の部分を貫き、そのまま上部へ。

 心臓のある方向に向けて、少女の渾身の力を以って、彼の身の奥深くへと叩きこまれていたからだ。

 エネオスがもう少し用心深く彼女のことを観察していたら、こんなことにはならなかったかもしれない。

 あと少しだけ距離を置いておけば、たとえ刺されたとしても回復魔法でどうにかなったかもしれない。

 しかし今の彼は、もう凄惨な状況に置かれてしまっていた。


「あなたなんてことを! 殿下を殺すなんて、気でも狂ったの!」


 エリオスのそばに駆け寄ろうとしたオリビアは、しかし、医療班によって引き離されていた。

 ナフティリアが手にした短剣は、相手の胴体に刺さったままで、その手には残っていない。

 丸腰の彼女を見て、後ろ手に拘束された彼女を見て、オリビアは思いっきりその頬を何度も、何度も張っていた。


「これからようやく自由になれると思ったのに! 私の家族の仇を取れると思ったのに! お前が! お前が全てをダメにしたっ―ーッ!」

「っ‥‥‥」


 同性に殴られた痛みよりも彼女が叫んだその一言が意外だった。

 まさか本当に、あの亡くなった国の王族に連なる者だったなんて。

 皇太子を殺し、悲しみと同様につつまれる帝国を、王国は急襲する予定だったのだろう。

 亡国の亡霊たちと、帝国を挟み撃ちにするつもりだったかもしれない。


 自分の知らない足元で、そんな大それた計画が進行していたとは‥‥‥そして、実の父親は娘を駒として扱い、平気な顔をして棄てることに意欲的だったことも、同じくショックだった。

 これから先、王子を殺害した犯人として、自分は処刑される。

 そう思ったら、もう恐れるものはなにもなかった。

 だから驚いたのだ。

 ゼフェトの姿をその視界にとどめたから――。


「おい、行くぞ!」

「へっ? ちょっと、何っ?」


 騒然としているテラスに、いきなり男たちの一団が乱入してきた。

 彼らの一人は、誰でもない皇太子ゼフェトで、その側には数人の騎士と魔法使いと思しき男性たちが周りを固めていた。

 皇太子はその細い身体からは想像もできない力でナフティリアを抱え上げると、部下たちが衛士たちや周りの野次馬を押し出して開いた道――その向こうに広がる運河を目指して、空を飛んでいた。


「ここまでやったんだ! 死ぬ気があるなら俺のそばにいろ! 一生だ!」


 そしたら何があっても守ってやる。

 そんな声を耳にしたかどうかというタイミングで、冷たい春先の水の中に全身が投じられてしまい‥‥‥意識は薄れていく。

 ナフティリアが次に気が付いたのは、帝国へと向かう船の中だった。

 ベッドに横たわる彼女の脇に座り、意識が戻るまで付き添ってくれたゼフェトの顔を、開いた瞳の向こうに認めた途端、安堵の涙が溢れて止まらなかった。




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