下落男

無花果りんご

第1話

「ねえ、今日泊まってっていい?」

 大学時代、確か同じサークルの後輩だったような女と俺は居酒屋にいた。突然向こうから連絡があって宗教勧誘か何かかと思えば、在学時代憧れてたとか何とかで、ただ一度だけでも飲みたかったのだと女は言った。そして二十三時三〇分。充電が無くなる間際に酔い散らかした女は半ば強引に腕を絡ませてそう言ったのである。

 一晩限りの関係を持ったことはまあ、無くはない。というかある。身体のみの関係は現状はいないし、恋人も長らく不在だ。だが作る気も特になかった。セックスが特別好きというわけでもない。カップラーメンの方が好きだ。

「まあいいけど」

 俺はソフトケースから煙草を一本取り出して、咥えながらライターで火を点けた。口から煙を吐き出すと、ポケットからボロくなった二つ折りの財布を取り出す。一万円札を伝票の上に置いて、「面倒だからこれで会計済ましといて」と女に指示を出した。俺は財布の中に不在のモノを思い出して、家にそれがあるかを思い出そうとする。随分とご無沙汰だったから、多分箱のひとつもないだろう。無駄な出費が嵩む。

 好意を断ることが苦手、というかひたすらに面倒くさい。それが女であろうとなかろうと、昔から告白されたら全てにOKを出していた。交際中であろうとなかろうとそれをするもんだから、女にも男にもよく恨まれたものである。一度だけ付き合った同性の恋人が居た頃が一番楽だったなと、なんとなく名残惜しさを感じた。

 そういう自分をずるいとは全く思わない。俺は他人を傷つけることが嫌なだけだ。そして後始末をするのが苦手すぎるだけだ。結果たくさんの人が傷つく、みたいな物言いをされると頭が痛くなって誤魔化す。だから今日も後始末を放置して女を家に上げる。

「倉田くん、お会計終わったよ」

「ああ」

 女は席から立たない俺の元へ来、俺の腕を引き上げる。女は赤く染めた頬に潤んだ瞳をして、俺に抱かれる未来に胸を高鳴らせているように見えた。そしてそれがとんでもなく恥ずかしいことで、お前は今から罪を犯すのだと俺に叩きつけているようだった。

 店を出る。辺りは夜でも電灯のまばゆさがまだ一日は終わらないと主張していてしつこかった。女は俺に指を絡ませる。こいつ、泊まってって良いって、俺の家がこの辺から近いことを何で知ってるんだ。いや、俺が言ったのか。酔った頭に記憶が曖昧に流れていく。汗がノーブランドの白シャツに染み込んでいく感覚があって、洗濯が面倒だと思った。

「あ」

「どうしたの?」

 そうして流れゆく記憶の中から、俺は重要なことを思い出した。俺はポケットから財布と一緒に入っているスマホを取り出す。電源を入れると、幾多ものメッセージ通知が表示されていた。同時に、着信のバイブが俺の手に伝わる。俺は耳元にスマホを当てた。

「ごめん」

『下落男』

「いや悪かったって。帰ってたの忘れてた」

『何時間待ったと思ってんの』

「二、三時間だろ。成田に二十一時着つってたじゃん」

『早く帰ってこい』

「あー……。うん、分かった。ごめんな姉ちゃん」

 返事はなく電話は切れた。姉ちゃんの声はかなり憤っていて、俺は頭を掻いた。そういえば今日、こっちに帰ってくるから泊まらせろと言われていたのだ。姉ちゃんはおそらく、アパート前の階段にしゃがみ込んで俺を待っている。バカだから。

「お姉さん?」

 女の不安そうな顔色をチラと見た。そしてその不安は「今から俺に抱かれなくなるかも」という色をしている。俺は財布から一万円札を取り出し、女の手に握らせた。

「ごめん。姉がウチに帰ってきてるから今日はこれで帰って」

「え、ちょっと」

「わりい、俺シメられちゃうからさ!」

 俺は後始末が苦手だ。そのまま駆け出して、女を置いて家に向かう。道中でコンビニに寄って、ハーゲンダッツの一つでも買わなければ、きっと機嫌は戻らないだろうと思うと、やっぱり出費が痛いなと思った。

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下落男 無花果りんご @raindrop0222_

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