piece 9. 棗累失踪の十分前
それは園芸サークルの上級生から新入生が集まり、大学近くの神社で開かれるお祭りへ行こうと決めた日の事だ。
「累先輩を誘う?」
「そうそう!やっぱ来てほしいじゃん!」
「せっかく園芸サークルなんて入ったのに全然会えないんだもん」
園芸サークルの新入生は全部で十七名。この全員が棗累目当てで、誰一人植物の世話などしていない。
彼女達だけではない。所属する女子は全員彼が目当てで、真面目に植物の世話をしているのは部長にあたる男子生徒だけだ。
しかし弟第一の棗累はこうした集まりに顔を出す事は無いし、何なら彼も植物の世話になど出ては来ない。ただ女子生徒を集めたい男子が看板として顔を出させるだけなのだ。何故弟との時間を割いてまでそんな事を引き受けているかは分からないが、ともあれここに棗累がいない事に新入生女子一同が不満の声を上げたのだ。
「でも断られたんでしょ?弟さんが一緒に来れるなら別だろうけどさ」
「でも一時間くらい良くない?ほら、葵仲良いんだからそれくらいやってよ」
「そうそう。この前も先輩と二人でお喋りしてんの見たんだから」
分かりやすい嫉妬と嫌味で、このレベルは日常茶飯事だった。
すれ違いざまに誰とも分からない女子から「何であんな子が気に入られてんの」と罵られる事も少なからずある。けれど暴力沙汰になるほどではなかったし、仲が良いと思われるのはちょっとした優越感も感じていた。
「まあLINEするだけはしてみるよ」
「え?葵LINE知ってんの?」
「うん。弟さんに誕生日ケーキ用意したいから美味しい店紹介して欲しいって言われたから地図送った」
「えー!?だっれも累先輩の連絡先なんて知らないのに!」
「地図必要だっただけだよ」
「ずるーい!ねえちょっと頑張ってよ!一時間だけでいいしさ!」
「……聞くだけだからね」
押しに押されて仕方なく誘いのメッセージを送ったけれど、考える事も無く断りの返信が届いた。
そのやりとりの画面を見せ、部長や先輩がそれ以上は止めろと止めに入っててようやく全員が諦めた。ごめんね、と何故か部長が頭を下げてくれて、向日さんは悪くないって累にはちゃんと言っておくからね、と気遣ってくれる。
累がいなくても俺達がいるだろー、と男子生徒も先輩も盛り上げてくれてようやくその場は収まっていった。
そして当日に事件が起きた。
葵のLINEに累からメッセージが届いたのだ。
『行かなきゃいけないから迎えに来て下さい』
その一言と、近くの病院の住所が送られて来た。
嬉しいというより妙だなと言うのが率直な感想だった。まず『行かなきゃいけない』というのはおかしな言い方だ。必要性に駆られるのならサークルメンバーから誘われた段階で思いそうなものだ。
だとしても『迎えに来て』というのが分からない。全員で待ち合わせしてるのは伝え済みなのだから迎えに行く必要が無い。
しかも病院という事は確実に弟さんの病院のはずだ。そんな大事な場所を教えるだろうか。弟の話はしても、病院の場所を知られる事は極端に嫌がると聞いた事があった。何でも過去お見舞いに来た友達が騒いだせいで体調が悪くなった事があるらしく、それ以来どんな仲の良い友達であっても絶対に近づけさせなくなったらしい。
「それが何で……というか何故に敬語……」
違和感しかないメッセージには不信感があったけれど、それくらいの何かがあったのかもしれない。
けれど累の頼みなら断る選択肢は無い。サークルのメンバーに累先輩が来るかもしれないから先に行ってて、と伝え後から追いかける事にした。
病院は大学のすぐ近くだった。
この大学を選んだのは弟の病院に近いからだという噂はあったが、本当だったんだなと感心していると、急に一人の女性に声を掛けられた。
四十代だろうか、少し疲れたような顔をしている。患者の家族だろうか。
「
「え?いえ、えーっと……」
その呼び方一つで不信感が最大値を記録した。
字面で『ひまわり』と呼ぶのはよくある事だ。けれど知り合いでは無いし、葵の名前を音ではなく文字でしか知らないという事になるが、そんな認知の仕方があるだろうか。
じろじろと疑いの目を向けているとそれに気付いたのか、女性は慌てて頭を下げた。
「棗累の母です」
「えっ!?」
「ごめんなさい、急に。あの子のLINEでお祭りに誘ってくれてるのを見て」
「え、あ、は、はあ」
「迎えに来てって送ったの私なんです。どうしても連れて行ってあげてほしくて」
「……はあ……」
本人は弁明してるつもりなのかもしれないけれど、葵は嫌悪感を覚えた。
本当に母親かどうかは分からないが、母親だとしても勝手にLINEを見て勝手に返事をするなんて非常識すぎる。しかも弟を想っているから断ったというのに、それを無理矢理連れ出せというのは母親としてどういうつもりなのだろう。
「あの子が女の子と親しくしてるのなんて初めてなの。昔から結にべったりだから」
「……あの、止めてもらえませんか。累先輩弟さんの事すっごく大事にしてて、名前は誰にも教えてないんです。何かあったらいけないからって」
「あ、ああ、そうなの?ごめんなさい」
謝る相手は私じゃないでしょ、と怒りを覚えた。
ほんの数秒だがこれ以上この人と話をしてはいけないと本能的に察知して、葵はぺこりと頭を下げて背を向けた。
累には謝罪を送らなければと思ったけれど、母親だという女性は葵の手を掴んで引き留めてくる。
「な、何ですか!?」
「今連れて来るからもう一度誘ってやってくれないかしら。ね、お願い」
「嫌です!無理矢理連れ出すなんて絶対に嫌!放して下さい!」
「結が行って来いって言えば行くと思うのよ。結に勧めるように言うから」
「だから!止めて下さい、勝手に弟さんの事喋るの!放して!」
「お願いします。あの子にはもっと外に目を向けて欲しいの。友達も大学も、結のために妥協してばっかりで」
「……妥協って……」
何が妥協なんだろうか。
葵は話を聞いているだけだったけれど、人生の全てが弟中心になっているのは誰が見ても分かっていた。
確かに弟優先でサークルの誘いを断るのは人付き合いが悪くなるし、累ならもっと良い大学入れるのになと言われてもいる。けれど本人はある程度の関係性を保てるようにサークルの活動に参加していると言っていた。きっとそれが新入生の客寄せなのだろうと思ったけれど、真相は分からない。けれどサークルのメンバーは皆彼を支持しているし、何かあれば助けてやろうと好意的だ。そういう関係性を築く努力はしているのだ。
大学のレベルなんて葵にはよく分からないけれど、意に沿わない生活を送るより弟の事を幸せに語る余裕のある日々を送る以上に大事な事だとは思えなかった。最終的に何かしらの職に付ければ良いのだ。学歴が良ければ良いか会社に入れるなんて、今はそんな時代じゃない。
「弟さんとの時間を減らして手に入れる生活なんて、きっと先輩には何の価値も無いですよ」
「でもね、それじゃあ結がいなくなった後あの子が大変な思いを」
「弟さんをないがしろにして手に入れた未来なんて楽しめるわけないじゃない!何でそんな事も分からないんですか!?」
「で、でもね」
「放して下さい!私帰ります!」
待って、と累の母親はそれでも葵に縋りついた。
恋人を作ったり遊んだりして欲しいと言っているその言葉は母親として純粋に心配しているのかもしれない。けれど葵には累を不幸にするだけの事に思ったし、もしそうなるとしてもそれは本人から望まれないと意味がない。
葵は手を振りほどこうとしたけれど、その時病院から誰かが出て来て声を上げた。
「何騒いでんだよ!」
「先輩!?」
「る、累」
騒ぎを聞きつけて駆けつけたのは棗累だった。
大学では見せた事の無い不愉快そうな顔をして葵と母親の間に割って入る。
「母さん!何度言ったら分かるんだよ!周りを巻き込むのは止めろって!」
「でもサークルの集まりなんでしょう?それくらい行ってきてちょうだい」
「結が行けるようになったら行くよ」
「いつまでも結にばっかり」
「うるさいな!俺から結を取り上げるなら母さんでも許さないからな!」
累は目を吊り上げて母親を睨んでいた。
それは憎んでいると言っても良いくらいの鋭い目つきで、少なくとも母親に向ける目ではない。
累は母親の心配そうな視線すら鬱陶しそうに背を向けた。
「母さんは結のとこ戻ってて。俺そこまで送ってくるから。行こう」
「あ、は、はい」
後ろではまだ母親が何か言っていたけれど、葵もその声には同情もできない。
(弟さんの事は知らないけどあんな言い方酷い)
まるで弟が累の人生を邪魔してるような言い方は気分が悪かった。
しかも「結がいなくなった後」という死を確信したような言葉はとても母親とは思えない。
まさかこんな事がいつも続いているのだろうか。だとしたらいつも見ている笑顔の裏に隠されたものは想像以上に重いのかもしれない。
けれどそこに同情して母親を非難するのも違うしな、と葵は黙るしかできなかった。
「神社に直でいい?」
「いえ、いいですいいです。一人で大丈夫です。それより弟さん何が欲しいか聞いてメッセージ下さい」
「あー、そしたら金魚取って来てくれる?今頼まれたんだ。結までお祭り行けとか言ってさ」
既に根回し済みだったのか、と葵は呆れた。
でもそれを受け入れて勧めたのなら、兄に楽しんで来て欲しいと思っているのだろう。
けれど葵は見た事の無い彼の弟の気持ちよりも、目の前で弟を慈しむ累の気持ちの方が大事だった。
「私得意ですよ、金魚すくい!任せて下さい!」
「ありがと。ごめんな、変な事に巻き込んで」
「いいえ。それじゃあ明日、大学に金魚持っていきますね」
そして葵は累に見送られ病院を後にした。
合流したサークルの女子にはがっかりされたが、部長や男子生徒はよかった、と安心していた。
感情的なあの母親を見た後だったからか、感情任せに文句を言う女子生徒達が気持ち悪くて仕方がなかった。
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