piece 8. 生クリームの迷い
その日の夜はリゼに言われた通り、貰った紅茶瓶を枕元に置いて眠った。
リゼのミルクティは振りまくのはためらわれる美しさで、これを無駄にしないためにも何も起こらない事を祈った。
しかしそれが打ち破られるのはすぐだった。
目を閉じる前にどこからともなく生クリームが染み出て来たのだ。
「う、うそっ!」
生クリームはぐぬぐぬと集まり何かを形作っていく。それは手になり足になり、上半身が完成するとついに顔が完成した。
できればその顔にはならないで欲しいと願っていたけれど、現れた顔はやはり――
「累先輩……」
生クリームだったそれは失踪した棗累の顔を作り出した。
いつも太陽のような笑顔を見せていたのに、今は怒りを露わに歯ぎしりをしている。何かを発声するわけでは無いようだけれど、何か言いたげに口を動かしている。
しかしまだ生クリームは固まり切っていないようで、素早く動くわけでも力付くで締め上げてくるわけでもない。
葵に手を伸ばそうとするけれどその動きは緩慢で、ぼたりぼたりと生クリームが流れていく。
「と、溶けてる?溶けて――あ、そ、そうだ!リゼさんの紅茶!」
これを掛ければ溶けると言っていた。
今でも溶けそうなこの状態からさらに溶ければリゼ達の元へ逃げる事はできるだろう。
(でも先輩が消えちゃったらどうしよう)
溶けるだけなら消えないのだろう。けれどもし消えて記憶も全て無くなってしまったらと思うと、それはまだできなかった。
(……脚を溶かせば時間稼ぎにはなるかも。全部消さなくても少しくらいならきっと……大丈夫よ……)
今の生クリームは完全に直立している。
のこぎりの様に切断するわけではないし、それくらいならやってみようとリゼの紅茶瓶を手に取り生クリームの足に振りかけた。
すると紅茶が降りかかり飛び跳ねたところはあっという間に液体になり、足を失った生クリームはべちゃりと床に倒れ込んだ。
「ほ、ほんとに溶けた」
溶けた生クリームはすぐに元の形には戻れないようで、うゆうゆと蠢くが集まる事はできないようだった。
「……今のうちにリゼさんのとこに行かなきゃ」
ちらりと生クリームを見ると、何か叫びたそうに口を大きく広げて腕の力だけで進もうとしている。葵は慌てて残りの紅茶を腕にかけて完全に動く手段を封じた。
そんな思い切った事ができたのは、生クリームの顔はたしかに棗累だが見た事も無い醜い表情でまるで別人のようだったからだ。
憎まれていたとしても、それでもこんな姿になるとはどうしても思えなかった。顔だけを葵に向けて這いつくばる姿は滑稽だ。
(……何だろう。妙にスッキリした……)
仕返しをした気にでもなったのだろうかと、葵は自分で自分の事を疑った。
周囲から非難されるのは棗累のせいだと思った事はなかったけれど、どこかでそんな思いもあったのかもしれない。
(ううん。無い。そんな事無い。無い……)
葵は自分に言い聞かせるように首を振って、生クリームを部屋に置き去りにしてパジャマのまま家を飛び出した。
*
二十二時を回っているから閉店しているかも、と後から気付いたが変わらずオープンしているようだった。
葵はほっと安心して店内へ飛び込んだ。
するとそこには以前と同じお姫様のドレスを纏ったリゼと黒尽くめのリンが立っている。
「リゼさん!リンさん!助けて、助けて下さい!」
「あ、来たわね」
「先輩だった。先輩の姿をしてたんです。もう人でした」
「落ち着いて。紅茶で溶けた?」
「と、溶けました。手と足だけ溶かして」
「ならまだ人ではないわ。形作っている途中ならオーダーケーキにする事ができるわ」
大丈夫よ、とリゼは優しく抱きしめてくれた。
リンは滑らかな手触りの大きなストールを羽織らせてくれて、ようやく自分がパジャマのままだった事を思い出す。
「有難う御座います」
「二人とも下がっていろ」
「え?あ……」
リンの視線の先には男が立っていた。
それは手足が再生した生クリームの棗累だった。ひたひたと真っ直ぐ葵に向かって来るが、その進路にリンが立ちはだかる。
しかしそれを無理矢理突破するような事はしないようで、生クリームはぎりぎりと歯ぎしりをしながらリンを睨みつけている。
「先輩……」
「まだ大丈夫よ。あれならまだ廃棄しなくて大丈夫」
「助かりますか」
「どういう状態を助かったと判断するかによるわね」
リゼの言葉が聴こえたのか、生クリームはリンからリゼに目を移した。
飛びついて来たらどうしようと思ったけれど、何故か生クリームはぴたりと足を止めた。それどころかぼたりと腕が溶け始めている。
「……襲って、こないんでしょうか……」
「迷ってるのよ。あなたを殺すかどうするか」
「まだ、先輩は私を許してくれるかもしれないって事ですか?」
「それは私には分からないわ。でも迷うという事はあなたを殺すのは間違ってると思う節もあるんじゃないかしら」
「当然だ。弟の傍を離れる判断をしたのは彼自身だ。それなのに君に殺意を向けるなど愚かしい」
「でも……亡くなる瞬間まで傍に居たかったと思います……」
葵も棗累から弟の話はよく聞いていた。
聞いていたというより、話題のほとんどが弟の話だった。それ以外の話題をしてもらえる人間は一人もいなくて、つまりは葵もその他大勢に過ぎない事実を突きつけられて悲しくもあった。
けれど引き離して奪ってやろうなんて思った事は無い。幸せそうに弟の事を語る笑顔こそ太陽そのものだったからだ。
「ねえ。あなた本当に彼を無理矢理連れ出したの?」
「そ、そうです。夏祭りに行こうって誘ったんです」
「誘っただけで連れ出せるかしら。もし最愛の弟と天秤を掛けてあなたを選んだのなら生クリームになんてならないわよ。愛情がひと欠片でもあるならああはならないの」
「……それくらい憎いんだと思います。本当に弟さんを大事にしてたし」
「でも無理矢理連れ出すなんて無理だと思うけど。成人男性引きずって歩ける剛腕じゃないでしょ、あなた。彼が弟の傍を離れてでもあなたに付いて行こうって決め手になる何かがあったんじゃないの?」
「決め手なんて、そんな……」
リゼにいつもの微笑みは無く、紅茶色の瞳でじいっと見つめてくる。
濁りの無いその眼差しはまるで裁判で判決を待っているような気持ちになり、葵は思わず目を逸らした。
「あの生クリームは何処に出て来たの?」
「……私の部屋、ですけど」
「前に言ったけど、あれはどこでも自由自在に現れるわけじゃないの。発生源となる人間から出て、じわじわとターゲットに近付くわ。家に出たなら生クリームの発生源となる人間はあなたの自宅住所を知ってるのよ。彼はあなたの家を知ってるのかしら」
「……それは……知らないと思いますけど……」
同じ大学とはいえ、生徒の個人情報がホイホイと手に入るわけでは無い。
いくら仲良くなれたとしても、LINEで繋がっただけでそれ以上の情報など持っていないし聞いてもいない。
「でもあなたは大学以外の彼の居場所を知ってるわよね」
「知らないです。大学以外でなんて会った事無いし」
「それは嘘ね。だってあなた無理矢理彼を連れ出したんでしょう?待ち合わせたんじゃないなら彼のプライベートな場所に行ったはずよ」
「……それは……」
「もう一度聞くわ。生きたければ正直に答えてちょうだい」
リゼは杖を取り出しくるりと回した。
その軌跡は星屑が舞い落ち道のようになっていた。
「あなたは自分の意思で嫌がる彼を無理矢理連れ出したの?」
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