私たちの世界は

文虫

第1話

私は重い足取りで職場までの道のりを歩いていた。いや、そうでもないかもしれない。別に陰鬱というわけでも、機嫌がいいというわけでもないのだから、普通に歩いていたというのが正しい。


普段通ってる横断歩道が、何故か封鎖されていること以外はいつも通り、特に好きでも嫌いでもない職場までの通勤路だ。


仕事にやりがいなんて考えたことはない。出世とかもしたいと思わない。1人っ子で、両親も少し前に私を置いて他界してしまった。

とても悲しかったことを覚えている。とても悲しかったが、もう結婚を催促されることもないと気が楽になったことも覚えている。


ふと、両親は天国に行けたのか気になった。


近年の毒親や親ガチャなんていう言葉が飛び交う奇妙な社会で、私は大当たりの親を引き当てたと思っていた。いつでも私のことを考えてくれて、叱る時は叱って、褒める時はとことん褒めてくれた。

将来のことを相談した時、あなたのしたいことをすればいいよ、そう言ってくれるいい両親だった。


あんな立派な両親だったのに、何故こんな不良品が生まれたのか、歳をとるにつれてそんな想いが頭の中を駆け巡るようになっていた。

今思えば、そんな劣等感に苛まれる私を気遣った言葉を、私は勝手に結婚の催促だと勘違いしていたのかもしれない。


大した親孝行もできなかった。孫の顔を見せてあげたかった。もはや私の中はぐしゃぐしゃになっていた。せめて天国にいて欲しいと思った。


横断歩道の代わりとなる向こう岸へのかけ橋を探していた時、大きな歩道橋が見えた。ちょうどいい、あれを使おう。


歩道橋に近づくと、ある物が目に入った。まだまだ若くて綺麗な、母と思しき女性と、5歳にも満たない幼い少女だ。

仲睦まじい光景に奥歯を噛み締めることになるかと思えば、何やら揉めているようだった。


少女は歩道橋の上で大泣きし、母親は困りながらも愛娘をあやしていたのだ。歩道橋の上、という非常に目立つところで大泣きされては、母親としてはたまったものではないだろう。


ところで何故少女は泣いているのだろうか。気になった私は、歩く速度を少し早めた。

少女の声が聞き取れる場所まで進み、耳を澄ますと、「やだやだ」と叫んでいるように聞こえる。


なるほど。歩道橋の上は大人からしてもかなりの高さだ。ましてや階段を降りるなんて、あの歳の子供にとっては相当怖いことだろう。

私は勝手に納得して歩道橋の1段目に足をかけた。


母親は登り始める私の姿を視認して、羞恥の心からか、未だに泣き止まぬ愛娘を抱き抱えて階段を降り始めた。慌てて抱いたためにバランスが不安定で、急な角度の歩道橋の階段を降りるには危ない体勢であると言えた。


私は念の為、落ちてきても支えられるように身構えていたが、その心配はなく親子は無事に階段を降り終えた。

母親はさぞ安心したことだろうが、私にはとても不可解なことがあった。


少女は母親にハグされるように抱えられていた。つまり階段の下ではなく、歩道橋の上を見ていた。にも関わらず少女は泣き続けた。いやだと言い続けた。

降り終えた地点で少女は座り込み、より大きな声で泣き続けた。いやだと言い続けた。

それはさながら遊園地から帰る時の子供のぐずりのようだった。


ああなるほど。怖くて降りたくなかったのではなく、上にいたかったから降りたくなかったのか。私はとても納得して、その仲睦まじい親子から目を離した。


少女の気持ちは分からないが、多くの人々が憂鬱に感じる歩道橋を、嬉々として登ることが出来る少女が多少羨ましくもあった。


少女だけではない。この世に何か1つでも好きな物がある人、生きがいがある人が羨ましいと感じている。それがあれば生きる理由になる、そしてそれは私にはないものだ。


私はいたって普通に階段を登り続けた。顔を下に向けて、階段を登る自分の足を眺めながら、登り続けた。




頂上に着いて顔をあげると、そこは天国のような世界だった。


歩道橋の上からの景色は圧巻で、まるで自分が神になって、この世界の全てを見ているような気がした。

日々の生きることに忙殺される人々を上から見下ろしている感覚は素晴らしかった。


足から吹き上げる風は、自分が雲の上にいるような多幸感を得られた。

いつもより近く感じる空に浮かぶ雲は、おいでおいでと手招きしている天使に見えた。


1歩1歩と進む度、歩道橋を歩く自分の足跡が今まで聞いたどんな音より心地よかった。足音が耳に響く度に、その他の全ての音がこの世から消えた。


進行方向から吹く風は、私の全てを受け入れてくれるかのように、私を抱き締めては去っていった。


歩道橋の上は私にとって天国のような場所だった。両親が行って欲しい世界そのままのような場所だった。


私は、涙を流した。

こんなにも素晴らしい世界があるなんて、思いもしなかった。もし天国がこのような場所だとしたら、私は今すぐここから飛び降りよう。


飛び降りる……飛び降りるなんて……勿体ない。

少なくとも、私は1日2回もこの天国に来ることができる。

この歩道橋を登る度に、生きている幸せを実感できる。


天国に行くのも悪くないが、せっかく生きているだけで天国に行けるんだ。死んでしまうなんて勿体ない。

私は出口へと足を進めた。


降りの階段へたどり着き、見下ろすと至極当然の感情が湧き上がる。


いやだ、降りたくない。


あの少女の気持ちがよく分かった。

歩道橋の上が天国に感じる人間にとって、地上に降りることは、この時間が終わることは苦痛でしかない。


少女と違う点があるとすれば、私には抱き抱えて、あやしてくれる人がいない。私は大人だから、自分で降りないといけない。


私はゆっくりと、階段を降り始めた。


好きなものができた。それだけでこんなにも輝かしい世界になった。特になんとも思わなかった通勤路への足取りが重くなった。

それは幸せなことなんだと思った。


私は自分の仕事の中で好きなものを探すことにした。それだけで足取りが軽快になった。


私は死にたくないなと思うようになった。

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