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 アクリル絵の具や油絵の具でキャンパスを彩るのも好きだが、最近透花はデジタルイラストの練習もしている。

 しかし、構図や背景の配色を考えるときはスケッチブックに鉛筆を走らせるほうが好きだった。いくつもパターンを考えて、鉛筆を走らせてラフ画を描くと胸が躍り出す。どんな色をのせよう。どんな線で描くのがいいだろう。ついつい時間を忘れて夢中になってしまう。

 小学生たちも帰ってすっかり静寂に包まれたアトリエで、透花は机にスケッチブックを広げお気に入りの鉛筆で描く。耳にはイヤホンをつけて、あの曲を聴きながら。そうしていると、どんどん描きたい光景が浮かんでくるのだ。

 透花はあの曲にすっかり心を鷲掴みされていた。だから、イラストを描こうと思った。あの曲が表現する世界をほんの一ミリだけでも伝える方法が、透花にとって描くことしかなかったから。曲を投稿した人がもしかしたら見てくれるだろうか───そんな淡い期待を持ちながら、普段はあまり更新しないSNSに完成したイラストを載せた。当然のことながら都合のいいことは起こらず、透花にその人から連絡はなかったが。

 イヤホンから流れる曲に耳を澄ませ、息を吐きだした時だった。


「───熱心だね、透花」

「っ、わあっ!?」


 透花の顔を覗き込むように乗り出してきた黒い髪が揺れた。透花は思わずスケッチブックの上に身体を覆いかぶせて、見られないようガードする。焦りのあまり耳まで紅潮させる透花を猫のような双眸がじっととらえている。

「び、びっくりさせないでよ、纏くん」

「驚かしてないよ、透花が集中してたからじゃん」

 全く悪びれないすまし顔で言う学ラン姿の男の子は、今年中学二年生になる有栖川纏ありすがわまといだ。有栖川優一の子どもで、透花とはこの『アリスの家』に通い始めたころからの長い付き合いになる。妙に現実主義なところがあって、どこかおっとりした優一とは正反対の性格をしている。

 そして、纏が透花を呼びにやってくるということは、夜はすっかり更けているということだ。優一の計らいで、ずいぶん遅くまで開けてもらっているアトリエを閉めにやってくるのが纏の役目なのだ。透花はスマホで時間を確認すると、すでに時刻は19時過ぎ。透花は広げたスケッチブックと筆箱を鞄に押し込んですぐに立ち上がった。

「ごめん時間忘れてて。すぐ出るよ」

「そんな慌てなくていいよ。忘れ物ない?」

「大丈夫!」

 二人でアトリエから出ると、纏はドアの鍵を閉めて透花を振り返る。

「送ってく」

 さらりと言ってのける纏を透花はじっと見つめる。穴が開くほど見つめられて、纏は耐え切れずに眉をへにゃりと寄せる。ほんの数か月前までは透花の方が高かったはずの目線が、今や同じくらいの目線になっていることに透花は気が付いた。

「纏くん大人になったねえ。今ちょっとときめいた」

「はっ、はあ!?」

「姉さんは嬉しいよ、うちの子が順調にいい少年に育っててるんだもん」

「あー頭撫でんな! いい加減やめてよその子ども扱い!」

 ほんのり頬を桜色に染めた纏が透花の手を払いのける。透花は乱れた髪を直す纏を見て、昔は照れながら黙って撫でられていたころの幼い纏を思い出して、少しだけ寂しく思う。が、野暮なことは口にすまい。

「じゃあ折角だし送ってもらおうかな」

「……最初からそう言ってよ、もう」

 決まらないじゃん、とつぶやいた纏の声は春の夜風に攫われて、透花の耳に届くことはなかった。


 透花の家は『アリスの家』から徒歩15分程度の場所にある一軒家だ。

 門戸の前まで到着し、お礼を言うべく透花が振り返ると、纏は思い出したように手にぶら下げていた紙袋を見やった。それを透花に差し出した。上等そうな和紙の紙袋だ。

「そういえばこれ、お母さんから。おばさんにお礼で渡せって言われてた」

「えっいいの?」

「まるふくの大福だって」

「まじ? 最高。でも急になんで?」

「……夕爾ゆうじの制服のお古貰ったんだ。だからそのお礼」

 透花の紙袋を受け取る手がピクリと震えるのを、纏はかすかに触れた指先から感じた。しかし、固まったのはほんの一瞬で、纏が次に瞬きをする頃にはいつも通りの透花がそこにはいた。

「纏くん急に身長伸び始めたからね。成長期?」

「……うん、最近は寝てると節々痛いかも」

「あーあ、そのうちわたし抜かされるよ」

「姉貴面する日も残りわずかかもね?」

「あー生意気! ぱんち!」

「いたっ」

 他愛もない冗談を何往復かしてひとしきり笑いあった後、纏はじゃあまた、と軽く手を振って来た道を引き返していく。その後ろ姿に手を振り返し、遠ざかっていくのを見守ってから透花はようやく手を止めた。見上げると、円弧状の細い光が真っ黒な空に佇んでいて、まるでその部分だけ切り取ったみたいだった。


 あの日も、こんな三日月のよく映える夜だった。

 目を閉じたら、またあの光景を思い出してしまうような気がして、透花は頭を振り、玄関のドアを開けた。


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