名前で呼んで

 龍一にとってその再会は突然だった。

 かつて甘い夜を過ごした美しい妙齢の女性、それがまさか静奈の母親だとは思っていなかった。いや、そもそもそこまで考えが及ぶわけがない。


(……そうか。竜胆の様子がどこか既視感があると思ったら咲枝だったのか)


 ここに来てようやく、以前に静奈に見た反応の答えが出た。とはいえ、この状況は正直なことを言えば龍一の胃をキリキリと締め付けてくるかのようだ。


「お母さん?」

「静奈……その様子だとここにご飯を?」

「えぇ……お母さんもここに来るのね?」

「……以前にここに来たことがあるのよ」


 おそらく、静奈も咲枝も困惑はしているはずだ。咲枝はともかく、静奈は龍一が自分の母と肉体関係を持ったことがあるなど知りはしないだろう。最悪知ってしまったらどんな顔をされるか……少し前までなら一切龍一は気にしなっただろうが、二人の関係性を知った今となっては話は別だ。


「……おい龍一、お前は本当にやっちまう男だな?」

「……うるせえよ」


 黙って見守っていた店長も、流石に予想しなかった出来事に笑いを堪えられそうにない様子だ。


「獅子堂君? どうしたの?」

「……あぁいや」


 今までにないくらいに頭を働かせている龍一、こちらに静奈が向いていることで咲枝の表情は彼女に見えていない。咲枝はジッと龍一を見つめていたが、どうやら龍一の焦りを明確に感じ取ったらしい。


「静奈、そちらの方を紹介してくれる?」


 っと、そのように咲枝は口にしたのだ。

 あくまで初対面を装うように、それこそ龍一と静奈に配慮した形だった。静奈は困惑の表情から一転し、龍一のことを咲枝に紹介した。


「こちら同じクラスの獅子堂龍一君、前に質の悪いナンパから助けてくれたの。それから彼と仲良くさせてもらってるわ。……その、この間ご飯を作りに行ったのも彼の家なの」


 そこまで話すのかと龍一は驚いたが、咲枝はそうだったのとむしろ納得したような顔をしていた。静奈はまだ龍一のことについて話したいのか、彼女の口から出る言葉はまだまだ止まりそうにない。


「今日も彼の家でご飯を作ろうと思ったの。そしたらここに今日は来るってことを聞いて……お酒を飲まないか監視! そう監視の為に付いてきたの。だからお母さんが危惧するようなことは何もないわ」


 どうやら静奈は咲枝に対し、この店に来たのはあくまで龍一の監視だということを伝えたいようだ。決して龍一に無理やり連れてこられたのではなく、自分から付いてきたと告白することで敢えて龍一に対して嫌な感情を抱かせないようにしたのもありそうだ。


「なるほどね。そんな出会いがあったの……静奈」

「え?」


 咲枝は口元に手を当ててクスッと笑い、龍一に改めて目を向けた。


「娘がその節はお世話になりました。ありがとう獅子堂君」

「いや……俺は別に見かけたから助けただけだ」

「それでもよ。優しいのねとても」

「そ、そうなのよお母さん! 獅子堂君はとても優しい人なの!」


 力強い静奈の様子に龍一も咲枝も目を丸くした。大きな声を出した静奈はハッとするように下を向き、少しお手洗いに行ってくると言って席を立った。静奈が居なくなったことで、残ったのは龍一と咲枝だけだ。


「さてと……まさかこんな再会になるなんてね?」

「あぁ……元は俺が蒔いた種だが、こんな繋がりがあるなんて思うかよ」

「そうね、私の方こそビックリしたわ」


 咲枝は立ち上がって龍一の隣に座った。そこはさっきまで静奈が座っていた場所だった。彼女はそのまま龍一に身を寄せ、その胸元に抱き着いた。


「お、おい……」

「離れろ、なんて言わないでよ? 誤魔化してあげたんだもの、これくらいご褒美をくれても良いでしょう?」

「……ったく、久しぶりみたいなもんなのに積極的だな」


 どんな事情があるにせよ、こうやって異性に抱き着かれたら抱きしめ返すのも体が癖として認識している。その太い腕で咲枝を抱きしめると彼女は甘い吐息を零し、もっと強く抱きしめてと口にした。


「娘と付き合ってる……わけではないのね?」

「まあな。あいつ、とんだ行動力の塊だぞ。クラスメイトとはいえ、知り合ったばかりの男の家に来て飯を作って……それでこんなところにまで付いてきやがった」

「それだけあなたを気に入ったということでしょう……ズルいわね」

「あん?」

「何でもないわ


 満足したのか咲枝は体を離した。

 それにしてもと、改めて龍一は咲枝の姿を見た。静奈と同じ長い黒髪を結い上げ、少しだけ大胆さを見せつけるように胸の谷間が僅かに見える。流石静奈の母だけあってスタイルは抜群だ。


 咲枝は腕の伸ばしてテーブルに置かれていた自分のグラスを手に取った。ワインが入ったそれを揺らし、色気を感じさせる動作で喉に流し込む。


「……うん、やっぱり美味しいわね店長さん」

「ありがとよ。贔屓になってくれるとなお嬉しいんだがな」

「考えておくわ。普段は娘が居るからこういうところには来ないのよね」

「そいつは残念だ」


 咲枝が店長と和やかに会話をする中、龍一は少し別のことを考えていた。

 漫画のヒロインである静奈だが、彼女の母親に関してはチラッとしか出てこなかった記憶がある。もしかしたら、龍一が静奈に簡単に近づけたのもこのような裏設定があったのではないかと訝しんだ。


「それで龍一君」

「なんだ?」

「そのうち知られると思うけど私たちのことは静奈には黙っておきましょう。ふふ、こんなことは提案しなくてもあなただってそれを望んでるでしょ?」

「それはな。俺が軽蔑されるだけなら別に良いが、もしバレたら少なからずあいつも咲枝に対して何も思わないわけがないからな」


 軽蔑されて離れていくのもそれはそれで楽で良いかと考えたがどうしてかそのような未来が想像できなかった。あんなにも行動力の塊でとことん距離を詰めてくる静奈なのだから、案外このことも受け入れるのではないかとさえ龍一は思える。だからといって決して口にすることはないが。


「そうかしらね。何となくだけど……あの子はそう思わないんじゃないかしら」

「は?」

「私の想像だけどね。ほら、戻って来たわよ」


 どうやら静奈が戻ってきたようだ。

 一応調子を取り戻したらしく、彼女の表情はいつも通りだった。しかし、静奈が戻って来たのを見て咲枝が龍一に抱き着いたのだ。


「な、何をしているのよ!」

「何ってちょっとお酒の勢いでね? 本当に凄い筋肉ねぇ♪」

「離れてお母さん!!」


 物凄い形相になった静奈が龍一から咲枝を引き離す。滅多に見ることはないであろう静奈の必死の姿に、咲枝も心の底から楽しいのか笑っていた。そして、咲枝に対抗したのかどうか分からないがグッと静奈が龍一に距離を詰める。


「なんで?」

「……こうしたかったから」


 それだけ言って静奈は口を閉じた。

 さて、既に龍一と静奈は飯を済ませている。腹を満たす当初の目的は達成したので二人は席を立った。


「それじゃあお母さん、先に帰るわ」

「えぇ。私も遅くならないうちに帰るわ。龍一君、娘をお願いね」

「分かった」

「……?」


 咲枝の言葉に首を傾げた静奈だったが、龍一が歩き出したことで隣に並んだ。龍一としても今回の再会は肝が冷えたが妙なことにはならなくて安心した。ふぅっと息を吐いたが、店を出たところでまだ危機は去っていないことを彼に突き付けた。


「……もしかして獅子堂君とお母さんは知り合いだったの?」

「なんでそう思ったんだ?」

「名前呼び……してたし、それに雰囲気で何となく分かったの」

「……………」


 確かにそうだったなと龍一は頭を掻いた。

 行動力の塊であると同時に鋭さも兼ね備えているらしく……いや、よく観察していると言うべきだろうこの場合は。


「ま、前に知り合ってあの店に行ったんだよ。でも咲枝……あの人がお前の母親だとは知らなかったぞ?」

「……そうよね。凄く驚いていたし」


 どうやら静奈はそれで納得したようだ。

 だが、まだ彼女の言葉は終わらない。先ほど咲枝が龍一の名前を呼んだこと、それを踏まえて彼女はこう口にした。


「私も……名前で呼んでいい?」

「名前?」

「うん。私のことも名前で呼んでほしい……ダメかしら」


 名前で呼ぶ、そんなものは考える必要もなかった。


「分かった。静奈……で良いか?」

「あ……えぇ♪ 龍一君!」


 名前を呼ばれた静奈は満面の笑みを浮かべた。

 それから二人は明るい街中を並んで歩く。心なしか静奈が龍一に対してかなり近かったものの、やはり龍一は安心したのもあって気にはしなかった。





「……だからあの時、お母さんは凄く機嫌が良かったんだわ。あれは絶対――」


 静奈の小さな呟き、それは龍一には当然聞こえなかった。




【あとがき】


まあこうなります。

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