イースカルデニアの魔女
芦葉紺
列車での出会い
重いスーツケースを見知らぬ老紳士と二人がかりで荷棚に押し込み、固い席に深く腰掛けてケイテ・ミュラーは息をつく。顎先で切り揃えた黒髪と対照的な新雪の白さの肌が人形めいた、危うい魅力のある少女だ。
学校の図書室の規模がわからないからと詰められるだけの本を詰めてきたのが間違いだったようで、家から二十分歩いてガラガラのイースカルデニア行きに乗り込んだ時点でケイテの腕はすでに疲労困憊している。これでも持っていきたかった本の半分にも満たないし、アンティーク調で気に入っているCDプレーヤーだって泣く泣く諦めたのに。
これから二回も乗り換え、最寄り駅についてからも山の上の学校までかなり歩く。一人では下ろせそうにない荷物を抱えて行くことを考えると軽く憂鬱だった。
「……あ」
そういえば、列車で読む本を取り出しておくのを忘れていた。
一応手提げ鞄の中に文庫本が入っているけれど、文字が書いてあれば何でも読む濫読家のケイテでも、寒くて狭くて外は雨のコンパートメントでドストエフスキーを読む気にはならない。『罪と罰』なんて文庫本で三冊もあるし読み切れる気がしないというのもある。
嫌な日だ。
しかし本なしでは長い旅路を乗り切れないから仕方なく『カラマーゾフの兄弟』(上巻)を開いたところに、少女特有の甲高い声が飛び込んできた。
「ねえ、隣いい?」
「……」
顔を上げ、声の主を認めるとケイテは眉をひそめた。良く言えば人懐っこい、悪く言えば馴れ馴れしい。苦手なタイプだと思った。
猫っ毛の金髪をお下げにした小柄な少女だ。ケイテほどではないが大きな荷物を抱えている。ケイテは女の子が一人でどんな用事だろうと少し訝しんだ。
ケイテが答えないので少女は焦れたようにもう一度訊ねる。
「ここ、座っていい?」
「……向かいの席が空いていますが」
「わ、声ひくっ。体調大丈夫? まだ電車出ないし駅員さんのとこ行ったら? あたしついてくよ」
悪い子ではないのだろう。むしろ見ず知らずのケイテに対してかなり親切と言っていい。
「これが普通ですので、お構いなく」
「でも……」
「お構いなく」
目線を本に戻すと少女は引き下がった。
コンパートメントの中、列車の音以外に響くのはケイテが頁を繰る音だけだ。
少女は手持無沙汰な様子で車窓の外をきょろきょろと眺めていたが、やはり退屈なようだ。数分と経たずにケイテに話しかける。
「ねえ、何読んでるの?」
黙って本の背を見せる。
「聞いたことないな……ほかに持ってる本ある? できたら貸してほしいな」
「……今出せるのは、これだけです」
ケイテが並べて見せた本の厚さに少女は顔を引きつらせた。読書にはあまり慣れていないようだ。
「ちょっと遠慮しとこっかな……。ね、名前教えてよ」
こういった人種特有の距離の詰め方にケイテはたじろぎ、十分前からの苦手意識を加速させる。
「ケイテ・ミュラーです」
そっけない答えに少女は花の咲くような笑みを浮かべた。
「ケイテね! あたしルチア、よろしく!」
「……はあ」
どうせファーストネームで呼ばれるのは予測していたけれど、案の定。
「ケイテはどこで降りるの? あたしはイースカルデニアに行くからセントノリスまで」
イースカルデニアの生徒なのだろうか。産業革命期のまま時が止まったようなこの国の中、とりわけ昔の名残を顕著に残す格調高いイースカルデニア校に、この底抜けに明るい少女はどこか似合わない気がした。
それより今、ルチアとかいうこの子は、セントノリスと言ったか?
「イースカルデニアに向かわれるのでしたら、乗り換えはセントノリスではなくセントミリスですよ。――というか、二日前に年末年始の休暇後の特別便が運航していたはずですが。もう新学期は始まっているのではないですか?」
情報量の多いケイテの発言にルチアはどこから答えるべきか迷い、口を開く。
「ちょっと家でいろいろあって、遅れちゃった。乗り換えの地図、ママに書いてもらったんだけど違うの?」
「ええ。まず乗り換えはセントミリス駅ですし、この列車が十一時にセントミリスに着く予定なので十時半発の便にはまず間に合わないでしょう。二回目の乗り換えでトーリス駅から乗る列車は5番ホームではなく3番ホームから出ます」
ケイテが答えるとルチアは肩を落とした。
「そっか、ありがと……。もっかい言ってもらえるかな、あたし覚えてられる自信ない……」
わかりやすく項垂れるルチアに、ケイテは思わず申し出ていた。
「私もイースカルデニアに向かっているので、よろしければ案内しましょうか?」
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