それは、ちょうど異世界転生ものの小説のように

まゆほん

第一話 執筆の開始

「うーん…」


 とある女性が本の同じページとずっと睨めっこしている。背表紙のタイトルはやたら長い。異世界に行ってみたらほにゃららだった、ほにゃららに転生して異世界を制する、みたいなタイトルだった。いわゆる、最近流行りのライトノベルの異世界転生もののようだ。


「どうした? さっきから全然、先に進んでないじゃないか?」

「これは、何というか…」

「面白くなかったのか?」

「…まあ、簡単に言うとそうなんだけどね」


 彼女はそれきり、本を閉じてテーブルの上にバタンと置いてしまった。


 この女性は読書が好きな女子大学生。名前は紗羅と言った。本が好きと言っても僕の知る限り、本の虫というまではいかない。このネットの時代で好き好んであえて本を読むというのが珍しいくらいだから、本が好きなと形容してみただけだ。むしろ、飽きっぽくて、途中で投げ出した本は沢山ある。彼女に見捨てられたが、僕に拾われて、救われた本がどれだけあっただろうか。


 僕の名前は凪。紗羅とは、いわゆる幼馴染というやつだ。僕らの仲は、傍から見たら恋人同士に見えるのだろうか。昔、そういう関係になるかもしれないと思っていた時期もあったが、彼女の興味が僕に向いていないと分かった時点で、僕は身を引いていた。しかし、今や僕は彼女がこうやって本を読んで、その感想、というか辛辣な批評をぶつけられる、数少ない相手である。僕はその身に甘んじるだけで十分だった。


「しかし、君がそんな本を読むなんて珍しいね。いつもは昔の文豪の小説とか小難しそうな本を読んでいるじゃないか」

「いろいろあるんだよ、私には。読まなきゃいけない本がこの世の中には沢山あるのよ」

 彼女はそう言って溜息をついた。


「大変そうだね、本を読むのも……」


 僕はコーヒー片手に啜ろうとした。その時、バンっと、いきなりテーブルが叩かれた。僕は手元のコーヒーがこぼれないところでぎりぎり回避した。


「でも私は…、私は諦めることが出来ないっ!」

「ど、どうしたんだよ。いきなり……。何を諦めることが出来ないんだ?」

「凪。私、決めたよ」

 紗羅は、鬼気迫った顔で僕を見た。そして、こう言った。


「私、小説を書く!」

 紗羅のその眼は真剣だった。


 一つ断っておく。彼女はさきほど、小説を書くと、人生の一大決心のように言ったが、私がこれを聞いたのは、一度や二度ではない。最初はいつだっただろうか。僕と紗羅は小学生の頃に知り合った。昔から教室で本を読んでいたが、最初は漫画が多かったと思う。同じクラスが何回か続いて、ちょうど同じ漫画に興味を持っていた時期があったので、そこから少し話すようになった。彼女は最初、漫画を描こうとした。しかし、僕は彼女の描いた漫画を見たことがない。どうやら、彼女の中で人に見せられるものが描けなかったらしい。飽きっぽいということもあって、すぐに止めたようだ。彼女曰く、文章こそ、人物の感情を描くのに一番適している、文学こそ、最高の芸術なのだと。彼女が本をたくさん読み始めたのはそれからだったと思う。その傍ら、彼女は小説を書いた。いや、書いたのか分からない。少なくとも、僕は彼女の小説も一度も読んだことは無い。確かに小説の構想は彼女の口からは聞いた。その時、彼女が読んでいたのはファンタジー小説が多かったせいだろうか、彼女の小説の構想は、少年と少女が出会い、冒険をするといったファンタジーものだった気がする。しかし、小説の構想と、執筆中だという話を聞くと、その次、話した時にはもうその構想は無かったことになっていた。今、別の小説を読んでいて、書けないとか、別の新しい小説の構想が始まることもあった。というのが、彼女が中学生の頃の話である。だから、沙羅から、小説を書くという言葉を聞いたのは随分、久しぶりであった。


「今回こそは書けそうなのかい?」

「もちろん!」

 彼女は自信満々にそう言った。

「随分、長い期間が空いたけど、どういう心境の変化?」

「まあ、長年、温めていたわけよ。構想期間約5年間。私の人生の集大成をかけて書くわ」

「僕ら若人が集大成って言っても説得力ないけど…。でも、それだけ寝かせておいて、ちゃんと最後まで書けるのかい?」

「大丈夫。今度のは違うのよ」

「ストーリーは最後まで考えているのか?」

 紗羅は黙った。明らかに目が泳いでいた。


 そして、僕は先ほど、紗羅が置いた本を見た。

「それで、今まさに構想を練っている段階ということなんだね…」

「ち、違うっ! この本はあくまで参考よ。最近流行っている小説の、いわば市場調査よ。でも、これは……」


 紗羅はその、長ったらしいタイトルの本に目を落とした。

「読めたものではないわ。内容がチープすぎるし、文章も稚拙。まあ、ティーンネイジャー向けには良いかもしれないけどね」

「でも、今、そういうのが売れているんだろう? 大衆受けしようと思うなら、その内容を取り入れるべきじゃないのか?」

「私は大衆受けするようなものは書かない。私は私の書きたいものを書くの」

 じゃあ、読む必要なかったのでは、と突っ込みたいところだが、凪がせっかくその気になっているのだから、僕は彼女の気を損ねるようなことを言うのは止めておいた。


「今から執筆活動に入るのかい?」

「うん。ちょうど良い時期だしね」


 僕らは大学の休みに入ったところだった。僕はこの休みにバイトでもして過ごそうかと思っていたが、紗羅は休みを執筆に使いたいようだった。


「たまに生存確認にいくよ。部屋にばかり籠っていたら、身体に毒だよ。休みなんだから旅行でも行ったら良いのに。それに気分転換した方が良いものが書けるかも」

「そうねぇ」

 凪は気のない返事をした。言わずもがな、彼女は出不精だ。僕から誘わないとあまり外にも出たがらない。女友達もあまり居なさそうだし、注意して見に行ってやらないと、休み明けには本当にミイラになってそうだ。


「だったら、僕と海にでも行くか? 開放的だし、いい気分転換になるんじゃない?」


 僕はそう言った直後、大胆な誘い方をしてしまったかな、と少し焦った。今まで買い物とかに誘うことはあったけど、海って言うと、まさにデートじゃないかと。彼女に引かれてしまってないか、僕は少し心配になった。


 しかし、そういう紗羅は真っすぐに僕を見ていた。僕はさらにドキドキしてしまった。


「いい……」

「そ、そうだよね…。海なんて行ってもねぇ……ははは」

「凪、良いよ! 行こう、海!」

「え。ええっ?」

 僕は拍子抜けしてびっくりした。

「良いじゃん、海。昔の文豪なんかも別荘の海に来ていたとも言うし。なんか執筆がはかどりそう!」

「え。あ、そうね……」


 別に海で泳ぐとは言ってないか。まあ、僕としては凪が気分転換してくれたらそれで良かったのだが。


 それから、海へ行く予定を話した後、凪は家に帰った。海に行くまで、彼女は執筆を少しでもしておきたいらしい。その間は僕が旅行の予定を立てることになったのだが。


 それから、一週間ほど経った後であっただろうか。僕は凪の家を一度、訪れることにした。旅行の予定の最後のすり合わせと、彼女の生存確認の為だ。旅行の予定を一方的に押し付けられた形だったが、僕自身、悪い気はしなかった。もともと、予定を立てるのが好きだったこともあったが、紗羅が喜ぶ姿を考えるだけで、僕は心躍った。


 バイトが終わった後、足早に彼女の家に直行した。彼女はアパートに一人暮らしをしている。部屋のベルを鳴らしたが、彼女は出てこなかった。部屋の電気は付いているから、留守ということは無いはずだった。ドアノブを回すとガチャリとドアが開いた。僕は心臓の音が少し高鳴るのを感じた。それから僕は玄関で彼女の名を呼んだが、返事は無かった。まさか、本当にミイラになっていることは無いよな、とも思いつつ、彼女の部屋に上がった。


 結論だけいうと、部屋には紗羅は居なかった。しかし、荒らされた跡も無かったので、僕はとりあえず安心した。しかし、部屋の電気も付けっぱなしで、鍵もせずに出て行ったのだろうか。紗羅は物事に付けては無頓着なところもあるので、そういうこともあるのかもしれないが、何となくこの部屋には違和感があった。何の変哲もない部屋だが、女子大生の部屋にしては変哲が無さすぎるといったところだろうか。必要最低限の家具しか置いていないし、そういうところは彼女のことを良く現していた。いや、部屋自体には違和感などない。あるとしたら……、僕は彼女の机の上を見た。一台のノートパソコンが置かれている。開いたままで、しかし、スクリーンセイバーが起動している。おそらく、彼女はこのノートパソコンで小説を執筆していたのだろう。


 僕はピンときた。紗羅は日常生活にはてんで無頓着だ。電気を付けっぱなしにしたり、鍵もかけないこともあるだろう。しかし、スクリーンセイバーが起動しているとはいえ、自らの作品を野ざらしにしたままで席を立つことはあり得ない。僕ですら彼女の小説の一文も目にしたことは無いのだ。こんな誰かが入ってきて、目に留まるように彼女がしておくはずがなかった。だったら、なぜこんな状態でパソコンが放置されているのだろう? 彼女の身にパソコンを隠す暇もないほどの切迫した事態に遭遇したのだろうか。


 真っ先に彼女の携帯電話に掛けることを思いついたが、パソコンの隣に彼女の携帯電話が置いてあるのを見つけたので諦めた。次にパソコンを触ってみた。キーボードを打つと、パスワードの画面が出てきた。やはり、簡単には見れるようにはしていないようだ。


 僕は改めて考えた。紗羅はおそらくさっきまでここに居たのだ。だが、携帯電話も持たずに、さらに鍵をかけずに外に出るなんてありえない。かと言って、誰かに襲われたような形跡もない。黙って、失踪するようなこともないはずだ……。僕は予定を書いてきたノートを眺めた。僕らは海に行こうって約束していたじゃないか。いつも身勝手な彼女だが、黙って失踪する絶対になんてありえない……。


 僕はそれから小一時間ほど紗羅の部屋で待った。彼女がふとした拍子に帰ってくるかもしれなかったからだ。しかし、どれだけ待っても彼女は帰ってこなかった。僕は焦りだした。本当に何かあったのなら、早く警察に知らせた方が良いのではないか。


 僕は紗羅のパソコンを見た。彼女の了解も得ずに中身を見てしまうのは気が引けたが、もしかしたら、何か彼女の行方の手掛かりがあるのかもしれない。僕は中身を見ようとしたが、問題はパスワードだ。試しに紗羅の生年月日を入れてみたら、なんとすんなり入れてしまった。横着な彼女らしいが、不用心が過ぎる……。画面のロックが解かれたと同時にその時、僕はパソコンの画面に現れたそれを見てしまった。やはり、彼女は小説を書いている途中だったのだ。


 別に彼女の同意なしに見るつもりは無かったのだが、目に入ってしまったものはしょうがない。それに彼女の行方の手掛かりがみつかるかもしれなかったのだ。僕は罪悪感を押し殺しつつ、それを読み始めた。書かれていたのはワードソフトであった。まずは最初のタイトルが目に入った。


『第一の小説』


 なるほど、タイトルはまだ決まってなかったわけだ。たぶん、内容を書いている内に決めようと思っていたんだろう。第一、ということは第二、第三と続くことを想定したものか。それから、僕は中身を読み始めた。

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