野良猫的田原総一朗

ジョセフィーヌ

野良猫的田原総一朗


私は田原総一朗であるが、また別の田原総一朗でもある。どういう事か。


私には2人の田原総一朗がいる。


1人目の田原総一朗はご存知、ジャーナリストとしての田原総一朗である。


そしてもう1人の田原総一朗。それは野良猫の田原総一朗である。

これからお話する内容は信じては貰えないだろう。それでも私は野良猫なのである。


にゃーにゃにゃにゃ。にゃにゃにゃー。


にゃにゃにゃ?


にゃ?


そうか。野良猫になると人間との意思疎通が難しくなるのか。

風の吹くまま気の向くままに生きるのが野良猫である。その臨場感ごとお伝えする。これこそがジャーナリズムであろう。

しかし野良猫になるともちろん人語は使えなくなる。

仕方がない。ジャーナリストとしてお伝えしよう。


そもそも私が野良猫になったのはいつからだったか。

テレビディレクターとして過激に生きていた時か。それともフリージャーナリストになると決意した時か。

ハッキリとは分からない。

きっと生まれつき野良猫になる素質を持っていたのだろう。

田原総一朗は田原総一朗であると同時に、野良猫であったのだろう。


成り立ちなどはどうでも良い。

いやはや、ジャーナリストでいるとどうも考えを巡らせてしまう。

もっと人間は刹那的に生きるべきだ。

野良猫になろう。


にゃにゃーにゃにゃにゃーにゃ


にゃにゃにゃー


にゃ?


にゃ!


シャーーーーー!!!!


ふう。このくらいで良いだろう。

道にゆらめくコンビニのレジ袋に威嚇して、何とか野良猫らしさを取り戻せた。


野良猫はとても楽だ。

堅苦しいスーツを着なくて済むし、沢山のテレビカメラに囲まれることも無い。

何も無いが有るのだ。


しかし私は野良猫であっても田原総一朗である。その前提条件が覆ることは無い。

刻一刻と変化する社会情勢を野良猫視点から見つめているのだ。

他のどんなジャーナリストも持ち合わせない、田原総一朗だけの視点だ。


同じ日本の同じ地域でさえ格差がある。

情報格差、経済格差、その他様々な格差が社会に蔓延している。


あの家は年に数回海外旅行に行く。

あの家には寝たきりの老人がいる。

あの家は夕飯時に魚の頭をくれる。

あの家ではにゃにゃーにゃにゃにゃ


にゃ?


にゃーにゃにゃにゃにゃにゃー にゃーにゃにゃー


にゃにゃにゃ


にゃにゃにゃーにゃ


にゃにゃにゃにゃーにゃーーにゃ


にゃーにゃにゃ


にゃにゃ


にゃー

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野良猫的田原総一朗 ジョセフィーヌ @zyosesan

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