第15章-⑦ 神算

 リヒテンシュタインの解放に疑問を持ったのは、クイーンの第一の側近であり無二の腹心であるエミリアも例外ではない。

 近衛兵団とともに無人のミューレホルツに進駐したクイーンは、自らは二階建ての小さな民家で一夜を明かすことにした。ヴァネッサら近衛兵団の幹部は、控えめに反対した。この町には、もっと大きく、ゆとりのある家がいくつもある。一国の王なのだから、権威と品格を保つためにも、そちらを選ぶべきであろう。

 しかし、クイーンの人柄は権威の尊重より好奇心を満たす方を重視する。

「私はこの家がとてもこぢんまりしてかわいらしくて、気に入りました。今夜はこちらのベッドをお借りします。二段ベッドは初めてで、とても楽しそうです」

 二階にある、上下二段のベッドにたいそう興味を惹かれるらしく、エミリアはクイーンとともにその二段ベッドで眠ることとなった。家の内装や調度品は、決して高級ではないが、よく手入れされていて、姿のない家主の細やかな気遣いと穏やかな生活が想像された。

「私、上の段で寝てみたい。エミリアは下でもいい?」

 女王として、望めば国のすべてが手に入る身分でありながら、クイーンはしばしばこのような些細ささいなことではしゃぐことがある。時として表れる、そうした無邪気で純朴な本質に触れるたびに、この人は天使ではないか、とエミリアは思うことがある。プリンセスと呼ばれていた頃から、彼女はその真っ直ぐな心根を失うことはなかった。あらゆる嫉妬や憎悪、悪意と攻撃にさらされてきたが、ついに何者もこの人の心を変えることはできなかった。これからも、できないであろう。

 エミリアはそう思っていたが、しかし実のところ、クイーンがその人格を維持しあるいは成長させてゆくための支柱としての役割をエミリア自身が果たしてきたことに、気づいていない。エミリアはどのようなときであっても、自分を支え守ってくれる、そうした絶対の安心と信頼があるからこそ、クイーンは決して己を見失わずに生きることができたのかもしれない。

 旗本のダフネがクイーンの足を洗って出ていったあとで、エミリアはそっと、リヒテンシュタイン中将を解放した真意をただした。

 クイーンは疲れの色も見せず、エミリアの隣にちょこんと座って、静かに語り始めた。

「エミリアには、分かるんじゃない?」

「さぁ、私には自信がありません」

「言ってみて」

「私は思います。クイーンは、あの者の心を攻めていたのではないかと。あのような気性の者ならば、こちらが赤心せきしんを見せ、その身柄を解放すれば、やがて改心して、我が軍に投降するかもしれません」

「その通りよ」

「しかし、どうもそれだけではなさそうですね」

「それもそう」

「参りました、どうか私に教えてください」

 エミリアが肩をすくめ、ややおどけた調子で問うと、目の前で人懐っこい笑顔が咲いた。

 真意は、こうである。

 まずは、エミリアの話したように、リヒテンシュタインを敵ではなく、友とすること。あの男は直情径行で怒ると手がつけられない暴れん坊だが、その分、感激屋でもあり、さらに自分の感激に酔うようなところがある。また子どものような承認欲求も豊富で、言葉を尽くして称賛し、誠意をもって解き放てば、元来は堅固な忠誠心も揺れに揺れるであろう。まして彼のような誇り高い男は、自らの誇りがけがされるのを極端に嫌う。自分の仕事や指導者が誇るに値しないことを、鏡を見せるように見せてやれば、闘志も大いに鈍るに違いない。

「私は、ユンカースさんが生きて帰ってきたときに、彼への接し方を決めたわ。ユンカースさんは彼にとって大罪人であり、仇敵でもあるはず。でも殺さず、降伏の話を受け入れた。彼の心に迷いや隙があると、その時点ではっきりと感じたの」

 そして、期待はリヒテンシュタインの翻心ほんしんだけではない。自らの任務や忠誠心を彼自身が疑い始めること。それだけでも、充分に意味がある。戦意の欠ける指揮官は、兵の士気を落とす。同僚に対しても影響を与えるであろう。

「牙を抜かれた将軍は、狼ではなく羊よ」

 クイーンは、そう言った。

 リヒテンシュタイン解放の効果は、もうひとつある。それは内部対立の生起である。教国軍に降伏したのに、兵は捕虜のまま、リヒテンシュタインのみ無傷で解放された。彼の同僚や上官は、彼を疑うであろう。ロンバルディア女王と取引なり密約なり交わして、その実行のために解放されたのではないかと。そのような疑心暗鬼が帝国軍内で起これば、解任はともかく、配置換えによって前線から離れるくらいはあるかもしれない。すると、リヒテンシュタインは腐って、その忠誠心をますます揺さぶることができる。

 そうした、二重三重の思惑が、あの舞台には働いていたのだ。

 エミリアは、天使のような純真無垢な人柄を生まれ持ちながら、同時にこの神のような頭脳を働かせる主君に、改めて畏敬の念を抱いた。クイーンの智謀は、聡明と評判のエミリアからしてさえ、底が知れない。

 教国軍の近衛兵団は、ミューレホルツとその周辺で一泊し、翌朝には出兵目的の成功を見越して、2,000名の捕虜とともに帰還の途に就いた。この地にはダフネが30名の近衛兵とともに留まって、追い出された住民の帰宅を支援するとともに、家や畑の毀損きそんに対する補償として、金銭を配給させた。加えて旗本のサミアには、周辺に分散した帝国軍を掃討するために活動していた第一師団、第四師団、突撃旅団に連絡をとって、深入りせず全軍をカスティーリャ要塞に帰投させるよう命令を伝えさせた。

 鮮やかに勝利し、鮮やかに撤退する教国軍と対照的に、帝国軍の無様は滑稽なほどであった。司令官シュトラウス上級大将は、もとは第一軍、第四軍、第五軍を手中に収め、その総兵力は到来した教国軍を上回る規模でありながら、補給の都合から軍を分散配置し、かつ敵軍の情報偵知とその動向の慎重な予測を怠り、そのために戦術段階では味方の集結が遅れ、各個撃破の好餌こうじとなる結果を生んだ。

 一度、彼の本営は撤退の途中でコクトー将軍率いる突撃旅団の襲撃を受け、たまらずに潰走かいそうしたのだが、このとき持病の腹下しがとりわけひどく、そのために馬の背で逃げながら便を漏らす羽目はめに陥った。

 彼は残存兵力をかき集めながら再び帝国最大の軍事基地であるベルヴェデーレ要塞まで逃げ帰ったが、そこで兵どもからつけられたあだ名が「脱糞将軍」「失禁司令官」などというものであり、深刻な恥辱に噛みしめた奥歯が割れるほどの苦しみを味わった。

 馬上で失禁したのは、彼の腹中にいる虫が悪さをしたためで、決して敵襲に恐れをなしたからではないのだが、とかく敗北の将は兵どもから嘲笑や冷笑の対象となり、悪意ある陰口を浴びせられるのが常である。

「シュトラウス上級大将は敵の追撃におびえ、恐怖のあまり逃げる途中に馬の背で糞尿を漏らした」

 と、そのように噂された。

 重大なのは彼の名誉がけがされただけではない。トリーゼンベルク地方各地で教国軍に捕捉された帝国軍の各部隊はすべてベルヴェデーレ要塞を目指して退却したが、その過程で追撃を受け、多くの死傷者や降伏兵を出した。

 そのため、最終的な集結に成功したこの方面の帝国軍は、3,0000から3,1000ほどであった。特にリヒテンシュタイン中将の第四軍は、戻りし兵力わずか7,000ほどであり、教国との開戦時に比べて半減してしまっている。

 まだある。トリーゼンベルク地方で帝都からの物資の到着を待っていた帝国軍は、早期撤退を優先し、武器や食料を積んだ輜重しちょう、カタパルトなどの足の遅い兵器を投棄して逃げたため、そうした物資の多くが鹵獲ろかくされ、教国軍の手に渡った。このため帝国軍は物資が欠乏し、この方面における大規模な作戦行動が不可となった。

 ベルヴェデーレ要塞には食料の備蓄は多少あるものの、攻城用のカタパルトなどは予備が多くあるわけではないから、カスティーリャ要塞攻略のための再準備が必要な状況となった。

 敗戦の報は帝都のヘルムス総統を激怒させ、彼は即日、戦時特別法を発動し、大都市における強制的な臨時徴兵、臨時徴収、臨時徴税の実施を決定した。

 ヘルムス総統の戦争指揮は、特にヒンデンブルク作戦の暗殺未遂以降、狂気をおびつつある。

 側近の誰もが、教国及びラドワーン王との講和の道を脳裏に浮かべていたが、ヘルムスの指導力はそうした消極的退歩的思考を許さず、勝利のためには帝国の人的物的資源のすべてを投入しようという勢いであった。

 (我が総統は、泥沼に足を踏み入れようとしている)

 口に出せば、総統の逆鱗げきりんに触れる。反対や諌言かんげんを許容しないヘルムスのそうした姿勢が、状況をますます悪化させていく。

 いくつもの乱命のなか、ヘルムスは側近のひとりである特務機関長クリューガー中将の進言を容れ、ロンバルディア女王へ使者を派遣することを決定した。

 使者はある贈り物を携えており、これはのちに「ヴェルダンディの黒いバラ」と呼ばれることになる。

 ロンバルディア女王エスメラルダへの褒辞ほうじである「アポロンの蒼いバラ」に対する一種のアンサーであり、対比するための文句であることは、言うまでもない。

 いずれにしても、トリーゼンベルク地方での戦闘の結果により、帝国軍は教国への当面の攻勢を断念せざるを得ず、教国も軍をカスティーリャ要塞のラインまで引き下げて、軍の立て直しに専念することとなって、戦線は再び膠着した。

 この時期、動乱の中心は再びスンダルバンス同盟の地に移ることとなる。

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