第15章-⑥ 王、正義を論ず
ヴィルヘルム・リヒテンシュタインという豪傑に対して、最も似つかわしくないのが降伏という言葉であろう。
誰もが、そう思っていた。彼自身、そのように自分という人間を定義づけて生きてきたに違いない。
しかし、彼は2,000の兵とともに降伏した。
副官ひとりだけを帯同し、ユンカースに連れられ教国軍本陣を訪れたリヒテンシュタイン中将の表情や態度には、意外にも敗将の悲壮さとか、敵手に対する憎悪だとか、そういった陰影のようなものは見られず、むしろ
それほどに、彼の姿には威風堂々、意気揚々たる
リヒテンシュタインは、短気で粗野なところがあるが、礼節や情義という点で欠けるところはない。そうした部分においては、彼が心酔していたメッサーシュミット将軍に通底すると言ってもよい。
降伏という、本来ならば彼にとって生涯における最大の恥辱となるであろうこの場においても、礼儀と作法にのっとり、剣を預け、いかにも取り澄ました様子で席に着いた。
彼に正面から対するのは、クイーンである。その横に、やや遠慮するような
ユンカースは、あえてリヒテンシュタインの側に座った。この男には、こういう面憎いところがある。
ちなみに第一師団長デュラン将軍、第四師団長グティエレス将軍、突撃旅団長コクトー将軍といった軍の幹部らは、すでに
会見は、エミリアの差配によって、降伏条件の確認から始められた。
リヒテンシュタインが事前に申し渡していた条件は部下の生命の保証及び正当な捕虜としての扱いをすること。この点について、クイーンは王旗と国の名誉にかけて誓うと宣言した。
だが、条件はそれ以外にない。リヒテンシュタイン個人の身の上に関しても、生殺与奪の権利は教国軍が握っている。
リヒテンシュタインは当然、自らも捕虜として教国軍に収容されるものと考えており、その宣告を辛抱強く待った。
ところがクイーンはその点に触れず、別の話を始めた。
「リヒテンシュタイン殿。あなたは帝国軍中随一の名将であり、その剛直なる将器は、私もかねがね尊敬の念を抱いていました。特に先日のキティホークでの一戦では獅子奮迅の働きをなされ、その勇名を知らぬ兵とておりません。我が軍の良将であったカッサーノ将軍も、あなたの手によって失いました」
「カッサーノ殿は見事な武人でした。彼と刃を交えしことは、我が一生の誇りです」
「また数々の武勇伝で知られる一方で、公明正大、真っ正直なお人柄であり、メッサーシュミット将軍亡き今、帝国軍で最も称え敬うべきはリヒテンシュタイン中将であると」
「なんと、そこまで仰せあるとは。もったいなきお言葉」
「だからこそ、私には不思議でなりません。何故、あなたのような方が、ヘルムス総統に忠義を尽くしているのか」
不意に黙り込んだ降将に、クイーンは構わず続けた。口調は穏やかだが、エミリアだけは奇妙な違和感を抱いた。クイーンの言葉の奥底には、何やら不穏で微妙な揺らぎがある。それはクイーンが揺らいでいるのではなく、相手を揺るがせようとしているのかもしれない。その揺らぎに気づき、しかもその理由までを洞察できたのは、この時点ではエミリアだけであった。
「ヘルムス総統は我が国との約束を
「いや、それは」
クイーンの言葉は、リヒテンシュタインの
しかしそれでもなお自らの立場と正当性を堅持しようと反論するのは、
「私は一介の軍人であり、政道や道理を
「あなたにはあなたの正義があると?」
「私は正義に背く行いをしたことはない」
「ではさらに尋ねます。あなたが掲げるべき正義は、果たしてヘルムス総統の頭上のみにあるものなのですか」
再び、沈黙が流れた。リヒテンシュタインは、今度はつむぐ言葉すら見当たらないようであった。
クイーンも、黙っていた。根気強く黙っていたというわけではない。彼女は声にはせずとも、無言の詰問を続けていたのであろう。その目には決して敵意はないが、一種の厳しさと凄味がある。
長い沈黙のあとで、事態は思わぬ一声によって急転した。
「リヒテンシュタイン殿。あなたを解放します」
「クイーン……?」
エミリアはじめ、同席した者は全員、口を開けてクイーンに顔を向けた。そのうちの幾人かは、正気ですか、という言葉が
リヒテンシュタインも、まるで不気味なものを見るような
クイーンだけが、何故か爽やかで涼しげな表情を浮かべている。
「このような場所で無用に舌先を動かすのは、あなたにふさわしくないでしょう。武人は戦場で語るもの。あなたがあくまで天の大義よりも武人の小義を貫くというのであれば、私もあなたを敬愛する証として、帝国の陣営に戻ることを許しましょう」
「クイーン、それは無用の仁義というもの。彼は仰せの通り帝国の猛将。彼を解放するのは虎を野に放つも同然で、のちのち噛み殺されかねませんぞ」
「ユンカースさん、先刻のあなたの言葉を借りるとすれば、そうなれば私の器量もそこまでということでしょう。しかし、虎を何度、野に放とうとも、我が軍は負けませんし、恐れもしません。だからこそ、リヒテンシュタイン殿が仁義を見せたのに応えて、我々も堂々と仁義を知らしめようと思うわけです」
ユンカースの慌てたような視線を受けて、近衛兵団長ヴァネッサも口を挟んだ。
「直言をお許しください。一頭の狼に率いられた百頭の羊の群れは、一頭の羊に率いられた百頭の狼の群れにまさると申します。一度は失いしリヒテンシュタイン殿を得た帝国軍が勢いを盛り返せば、我が軍は敗れぬまでも、要らざる犠牲を払うこととなります」
「ヴァネッサ、あなたの懸念はもっともです。ただ、我々は大義の軍。我々が義を見せれば見せるほどに、その義に応える帝国の民や兵、将軍は増えてゆくでしょう。より遠くを見れば、ここで彼を解放することこそ国益にかなう行いです。ダフネはいますか」
「はっ、お呼びですかクイーン」
「リヒテンシュタイン殿を、丁重に陣外までご案内してください」
リヒテンシュタインは何やら深刻そうな表情のまま、ついに一言も発することなく、剣と馬を返され、副官とともに味方の姿を求めて走り去った。
誰もが、その背中を不安げに見つめ、そして多くの者がクイーンの判断に疑問を持った。
確かに、クイーンは情義に
どうもらしくない。
感情に流され大局を見失うことなど決してなかったクイーンが、何故。
特に、クイーンの身辺に
彼らはその日の夜、ミューレホルツの大麦畑と工房で醸造される特産の黒ビールを飲みながら、深夜まで語らった。どちらも酒豪ではないから、貧乏くさくちびちびと酒を飲む。
「クイーンには情がある。だが君主はロマンチストであってはならない。敵将につまらぬ情けをかけて大魚を逸すれば、せっかくの勝利にも水を差し、あるいは
「ロンバルディア女王にすべてを
「俺とてあの方を見限ったわけではない。だがどうも、何を考えているのかよく分からなくなった、ということさ。俺には理解できぬ途方もない天才、ということならむしろ歓迎したいところだが」
「珍しく弱気なことを言う」
「考えてもみろ。もしこのまま帝国が教国に敗れ、ヘルムス独裁体制が崩れれば、次にどのような政体が樹立されるにしろ、それは事実上、教国の庇護下に入ることになるだろう。クイーンが情け深く英明なお方、ということであれば、帝国の行く末は明るい。だが彼女に帝国の未来を預けられるほどの器量がないと判断されるときは」
「ときは?」
「そのときは、戦いののち、教国の影響力を除去しなければならない。場合によっては教国を倒してでも。帝国も教国も、大陸全土が徹底的に
「……貴様は異常だ」
毒づいたローゼンハイムは、まずそうに黒ビールのジョッキをあおった。
狼のようなユンカースの瞳が、琥珀のように暗がりのなかできらめいている。
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