第11章-③ 預言者

 教国軍近衛兵団長のヴァネッサは、デュッセルドルフの町近くの原野で帝国軍の襲撃を受けた際、捕虜となった。捕虜収容所に向かう途中、帝国軍のユンカース大尉という男によって密かに解放され、彼女は一頭の馬と一振りの剣を与えられて、遠く同盟領を目指して走った。

 しかし何しろ地理不案内であり、敗残兵を狩る帝国軍の発見を恐れて街道の本道は使えないから、山、川、谷の難所を越えねばならず、歩みは決して速くない。

 そして運の悪いことに、オスナブリュックという旧都市の遺跡近くで、ルフトヴァッフェを名乗る馬賊団の仕掛けた落とし穴にかかり、捕虜となった。この馬賊団はウェクスラーという男が率いており、人数は200人を超えるなかなか大規模なものである。根城は、オスナブリュック遺跡にある。

 オスナブリュックはかつてレマン帝国なる古代文明の栄えた地で、すぐ北にホーネット火山という活火山を見上げている。最盛期には30万人の人口を抱えていたと推測され、隆盛を極めたが、600年以上前にホーネット火山が大噴火を起こし、この都市を潤していたグリーニッケ川の流れを溶岩でき止めたために、河川が干上がった。以来、主要な水源を失ったオスナブリュックは衰退し、当時の繁栄の面影を遺跡として残しつつ、現在はルフトヴァッフェのような馬賊団が跋扈ばっこする忘れ去られた地となっている。

 レガリア帝国南部の動脈と言っていいヌーナ街道からも離れているために、立ち寄る者や利用する者もなく、周辺にめぼしい都市や町もないから、一日ごとに歴史の遺物として風化の度合いを強めつつある。

 ルフトヴァッフェは要害として適当な遺跡の南の端を地上要塞化し、地下にも坑道を掘り下げて、遺跡全体に迷路のように地下通路を張り巡らして、神出鬼没のゲリラ戦が展開できるよう工夫している。それなりによくできた結構で、幾度か帝国の討伐部隊が襲来したが、すべて撃退された。中世世界においては、国家がその領土や領民に対して及ぼす支配権や影響力が限られており、こうした賊がはびこっても、権力者にとって差し障りがわずかであるなら放置されることも多い。廃墟のオスナブリュック遺跡に攻め込んで数百人の賊を追い出したところで、帝国にとってはさしたる益にはならないのである。

 無論、ルフトヴァッフェの活動があまりに派手で、帝国の貿易や経済活動に与える影響が大きすぎるとつぶされてしまうから、そのあたりの機微を親分のウェクスラーは心得ていて、ほどほどに略奪や強盗などを働くことで、極めて微妙なバランスを保ちつつ、強大な帝国と共存している。

 手下どもの手でヴァネッサが連行されたのは、この遺跡の地下要塞にある彼の私室である。

 背中で縛られた縄がほどかれたあと、部屋には頭目のウェクスラーとヴァネッサだけが残された。

 ヨーナス・ウェクスラーだ、と男は名乗った。年は34で見かけよりも思いのほか若いが、昨年から軽度の脚気かっけを患っているらしく、身動きに若干の不自由がある。そのため、馬賊でありながら乗馬に難があり、自らは本拠地に留まりつつ、子分どもに指図を出し、活動を指揮している。人望はそれなりにあるらしい。体格としてはどちらかというと大きいようだが、脚気の影響で手足がやや細くなっている。髪は長めに伸ばしていて、蜂蜜かあるいは琥珀を思わせるような明るい髪色をしており、瞳は色素の薄いコーラルグリーン、錆びついたような乾いた声と、頬に目立つ刀傷。

 そしてヴァネッサが何より特徴的に思ったのが、この男の鉄のような強烈な体臭である。これには、ヴァネッサもたまらなかった。会話の最中、幾度か吐き気がするのをようやく堪えながら、彼女は正面から己の身分とこれまでの経緯を明かし、身柄の解放を求めた。

「私はロンバルディア教国軍の近衛兵団長ヴァネッサ・オルランディだ。帝国軍の奇襲を受けて、我が軍は壊滅した。私も一度は虜囚の身となったが、逃げ出して、今は本隊との合流を目指している。早々に、解放してほしい」

「帝国が戦争をおっ始めたというのは風の噂で聞いている。災難だったなァ」

「解放してもらえるだろうか」

「そうだなァ」

 ウェクスラーは無感動な男だ。表面的な言葉ほどには、ヴァネッサに対して配慮や共感をしている様子はない。ヴァネッサは弱味を見せぬ方がよかろうと思い、決して卑屈な姿勢はとらず、むしろ背筋を伸ばし、昂然と顎を上げて、椅子に腰掛けるウェクスラーを見下ろした。

「なにか条件でも?」

「まずは身代金だ」

「額は?」

「50万ズィルバーだな」

 ヴァネッサは目を泳がせ、計算した。ズィルバーはレガリア帝国の通貨で、ロンバルディア教国の通貨に換算すると、80万グランデバルから100万グランデバルといったところである。ちなみに、教国の近衛兵団に費やす歳費が約300万グランデバルである。無論、馬賊風情にとっては途方もない金額である。

 自分の身柄そのものにそれほどの価値があるかは大いに疑問だが、彼女には一方で特別な事情もある。自分を解放した帝国軍のユンカース大尉からクイーンへの言伝ことづてである。彼は帝国のヘルムス総統の暗殺を目論んでおり、教国軍と協力して現在の政権を打倒したいと語っていた。この情報を持っているといないとで、クイーンの戦略判断に大きな違いが出てくるかもしれない。この件を伝えるためにも、彼女は一刻も早くクイーンに会う必要があったのだ。

「身代金は確約はできないが、私が無事に戻ることができれば、クイーンは必ずや相応の礼金をたまわるだろう」

「アァ」

「では解放を」

「その前に、頭金だ。いくら教国の近衛隊長さんでも、口約束を無条件で信じるほどお人好しじゃねぇ」

 ヴァネッサは黙った。彼女が捕虜の身でありながら奇跡的に逃走に成功し、再び彼らに捕らえられた身であることはこの男も知っているはずである。当然、まとまった金など用意できるはずもないし、金目の品も持ち合わせていない。

 ただならぬ予感を覚えた。

「頭金は払えない。だが軍と合流し、本国に戻れば必ず」

「いいか、若い女の体には金と引き換えにできる価値がある。それが頭金だァ。服を脱げ」

 やはりどうしてもそうなるか、とヴァネッサは暗鬱な気持ちを抱いた。わずかでも、無事にクイーンの元へ戻れるのではないかと淡い期待を持った自分を愚かしくかえりみた。所詮、賊は賊。目先の利益に血眼ちまなこになって、秩序を破り、治安を乱し、町を破壊し、金を奪い、男を殺し、女を犯す。そういう人間を相手に、理性を軸にした交渉や、情義を尽くした対話など望むべくもない。

 彼女は、一縷いちるの望みと不屈の誇り、そして持ち前の負けん気で応じた。

下衆げすなことを言うなッ!私は教国近衛兵団長の身だ。賊の卑劣な脅しに屈して、我が身を差し出すなどと思うかッ!」

わめくな。頭金を払えばさっさと解放してやってもいい。早く服を脱げ」

 ヴァネッサにはこの男の言葉を信用する理由はひとつとしてなかった。だが同時に、従うほかに手立てがないことも知っていた。身一つであれば、彼女は己の命を絶つこともできたであろう。実際、帝国軍との戦いでユンカース大尉に捕らわれようというとき、彼女は我が首に剣を当てたのである。だが、今は自分の命よりも重要であろう情報を持っている。それをクイーンに届けるまでは命を粗末にできない。

 ヴァネッサは唇を固く真一文字に結んだまま、服を脱いだ。こうとなれば、あきらめて服従し、さっさと終わらせよう、と観念している。

 下着姿になった彼女に、ウェクスラーは初めて立ち上がり、近づいた。手にナイフを持っている。彼はじっとりと舐め回すようにナイフを彼女に肌に沿わせ、その刃で下着を切り裂いた。

 ずいぶんと悪趣味な男だ、とヴァネッサは思ったが、彼女は恐れなかった。表情を変えず、微動だにもしない。ただ、息が上がり、背中を汗が伝った。

 下劣な男の垢と汗と脂と埃、それらが混ざり合って鉄のような臭気を発している。ヴァネッサは不潔を嫌う人間の本能に抗しきれず後ずさりしたが、その動きはウェクスラーによって止められた。ウェクスラーが彼女の腰を強引に引き寄せたのである。小柄な彼女はまるで罠にかけられた小鳥のように、身動きができない。男の手が彼女の肢体を無遠慮にまさぐっている。

 ヴァネッサが心を殺し、ただただ黙ってこの不快極まりない仕打ちに耐えていると、突如、それまで存在しなかったはずの第三者の声が部屋に響いた。

「アンタ、そこまでにしておやり」

 がばっ、と驚いたウェクスラーがヴァネッサを突き飛ばすようにして、声の方向へ振り向いた。が、彼はすぐに全身の緊張をほどいて、

「なんだ、ばあさんかァ。おどかすんじゃねぇよゥ」

「その娘は解放しておあげ。ほら、この氷晶ひょうしょうがそう言っている」

 胸を腕で隠しつつ、声の正体を見ると、なるほどウェクスラーの言うように老婆である。だがよく太っていて、顔にしわが少なく、血色も肌艶もいい。ただ水分を完全に失った真っ白の髪と枯れた声とが、この者が老人であることを如実に物語っていた。

 そして左手には、恐らく老婆の言う氷晶とやらを乗せている。氷晶とは氷の結晶のことだが、それは結晶とは言えぬほどに巨大で、磨いたような球体の形をしており、親指と人差し指とでつくる輪っかほどの大きさはあろう。

「ばあさん、確かにこの女はばあさんの予言のおかげで手に入れた。だがこれからその馳走にありつこうってときに取り上げるのは殺生ってもんだ」

「アタシの言うことを聞きな」

「ならこうしよう。今晩、この女を抱いたら約束どおりに解放する」

「貴様、やはり最初から解放する気などなかったなッ!」

 ヴァネッサは叫んだが、ウェクスラーは一顧だにもしない。どうもウェクスラーは、この老婆を内心で恐れているらしい。理由は、分からない。見る限りは、ただの老婆である。

 老婆は再度、要求した。

「アンタ、アタシを怒らせたいのかい。その娘には手を出すんじゃないよ」

「おいおい、ここまできてそりゃねぇよゥ。こっちァ、しばらく女日照りで溜まってるのさ。傷はつけねぇから、目をつぶってくれや」

「聞き分けのないガキだね、死にな」

 次の瞬間、老婆は掌の氷晶に弱々しい息を引きかけた。

 ふっ、とかすかな音ともに、氷晶は目にも止まらぬ速さで飛び、ウェクスラーの喉を貫通し、土壁をも突き抜けていった。あとに、地響きをたてて転がった男の死骸がある。湧き出る泉のように、血が四方に広がってゆく。

 ヴァネッサは眼前の光景を咄嗟とっさには信じられず、あんぐりと口を開けて老婆を見つめた。老婆は、つるりとした顔を彼女に向けて、自分の娘を見るかのようなやわらかい笑みを浮かべている。

「さ、服を着な。アタシをアンタの主君のところへ連れてっておくれ。アタシは、アンタの主君と、それから光の術者に会いたいんだよ」

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