第9章-③ アンバーの瞳

 レガリア帝国国防軍第二十二騎兵中隊長マルセル・ユンカース大尉。

 そのような男もいる。

 彼は、帝国軍の第七軍隷下にあって、デュッセルドルフの奇襲戦で捕縛した教国軍将兵を護送する隊列に加わっていた。

 ユンカース大尉はこの年27歳で、遠目でも分かるほどに非常に明るいアンバーの瞳を持っている。アンバーとは琥珀のことで、狼の瞳の色に近いことから、彼は幼い頃から狼を意味する「ヴォルフ」というあだ名で呼ばれることが多かった。容貌も、狼を思わせるような切れ味の鋭さを持っており、細面ほそおもての骨格にとがった顎が印象的である。

 この特徴の強い顔に、190cmを超える長身、戦場では無類と言えるほどに勇敢なファイターであるという評判、一方で知性の豊かな語り、そして女性に対してはとろけるように優しい男であったから、彼に好意を寄せる婦人は数多かった。実際、交際した女性は両手の指で数えても足らないほどには存在したが、彼はしばらく肉体関係を続けると、興味が失せたように無造作に捨ててしまうのが常であった。彼に抱かれているその瞬間でさえ、彼の狼のような魅力的な輝きを持つ目は、一方で分厚い氷壁のような虚無と孤独に閉ざされ、その人間らしい情愛を引き出すことはかなわなかった。

 彼に捨てられる頃には、どの婦人も、彼のそうした心情、つまりは女性が彼を想うほどに、彼は女性という存在を重視してはいないのだという事実を知り、萎えしぼむようにして身を引くのであった。

「ユンカースは遊び上手」

 と言われる所以ゆえんと言えるが、彼の場合、その呼び名の持つ印象ほどには、女性に対して情熱を持っていない。彼の関心はこの数年間、あるひとつの任務に対してのみ、熱烈に注がれていた。女性と戯れることなど、彼にとってはその合間の余興くらいのものでしかない。

 彼の指揮する第二十二騎兵中隊を含む帝国第七軍は、ルーザスデールの収容所への道中で、フュルトと呼ばれる小県に寄り道をした。もとより、7,000名近いこの護送部隊を丸ごと受け入れられる町などそうはなく、ほとんどは街の外で野営するのだが、誰もが痛快な勝利と久々の美酒に喜び、散漫な気分が全体に見られた。

 ユンカースは夕刻、既に酔いの回りつつある我が中隊を巡察しながら、中隊長付き将校のアイスバーグ中尉に小声で確認した。

「例の手はずはよいか」

「整っております」

「ではすべて、予定通りに」

 アイスバーグ中尉は赤い黄昏たそがれの向こうへ、溶け込むようにして姿を消した。声や所作におよそ気配というものがなく、威風堂々としたユンカース大尉とは対照的な静かな男である。実際、彼はユンカースの腹心として、影のように動かねばならなかった。諸事、目立つことの多いユンカースが自ら動き回れないだけに、彼が実務を引き受けるのである。

 彼は予め渡りをつけてあったフュルトの娼婦数人を目立たぬように引率し、将校級捕虜の護送を受け持つ部隊まで案内した。彼女らにはそれぞれ上質のワインを持たせ、護送班の機嫌を大いにくすぐって、必ず酔いつぶれさせることとしていた。酒には、眠り薬を混ぜてある。

 将校級の捕虜となれば、重要人物であり、当然ながら夜間も厳しい警備体制を守らねばならないが、護送班は娼婦らの巧みな給仕の甲斐もあって、呆気なく眠りこけてしまった。全員である。

 やがて、檻車のひとつで錠が外された。

 アイスバーグ中尉の手で中から引き出されたのは、ヴァネッサ近衛兵団長である。檻車に放り込まれてさえ、手首に縄をかけられているのは、彼女が今回の戦いで得られた最重要捕虜だからである。

 アイスバーグはその手縄もほどいてやろうとしたが、ヴァネッサの射殺すような鋭い目は、終始、彼の上官に注がれている。

「貴様、私を捕らえた将校だな。その瞳の色を覚えている」

「いかにも。私は第二十二騎兵中隊長のユンカース大尉だ」

「私は貴様の慰みものになるくらいなら、喜んで死ぬ」

「早合点をするな。私は君を助けにきた」

「助ける?バカを言うな」

 ユンカースは、黙って人差し指を自らの唇にあてた。すぐそばでは護送班の連中が薬の効き目で眠りこけている。

「私は彼らに睡眠薬を盛って、眠らせた。持ち場ではない君のところまで出向いて檻を開け、君の縄をほどいた。今まさに君を逃がそうとしている。この状況で、私が個人の興を満たすことなど考えていると思うか?」

 ヴァネッサは黙った。彼女はこの数日、虜囚の辱めを耐え忍んでおり、やがて収容所で拷問を受けるか、凌辱を受けるか、殺されるかするのであろうと、底の見えぬ谷を覗き込むような絶望感を近い将来に対して抱いていたが、まさか逃がしてくれる者がいるというのは意外であった。

「分かった。だがお前の真意を問いたい。何故、私を逃がす」

「私は叛逆者だからだ」

「どういう意味だ」

「私はこの国の現政権にとって叛逆者ということだ。ヘルムス総統を暗殺し、その独裁政権を転覆して、この国を民衆の手に取り戻す。君を助けて恩を売り、ロンバルディア教国女王との橋渡しをしてもらい、外部からの圧力と呼応してこの国を正しい姿へと戻す」

「本気で言っているのか。そんなことができるとは思えない。それに私に恩を売るだと。私をその手で捕らえておいて」

「私が捕らえずとも、君は囚われていた」

 話しているうち、ヴァネッサに施されていた縄目はすべてほどかれた。だが、ヴァネッサの視線は変わらず鋭い。

「聞け。君はこれから女王のもとへ戻り、復命する。近日、帝国では驚天動地の事変が起こる。国の最高指導者にして独裁者であるヘルムス総統が暗殺のために倒れる。心ある軍人によって誅殺ちゅうさつされる。我々は臨時総督としてメッサーシュミット将軍を担ぎ、ロンバルディア教国と和平を結ぶとともに、国の再建を図りたい。女王陛下におかれては、叡慮によって我々義士の心情をみ取っていただき、有事の際は支援いただきたい。無論、女王陛下の侵攻に際しては、我々も内部から呼応して援護する。情報では、女王は息災で、スンダルバンス同盟領へと退避されたという。それを追って、今言ったことを伝えてほしい」

 ヴァネッサは黙ったまま、少し考えた。

「いいだろう。だが条件がある。この部隊の手で護送されている味方を、私とともに全員、解放してもらう」

「それはいけない。君ひとり解放するだけでも、危ない橋を渡っている」

「私ひとり、部下や僚友を見捨ててこの場から立ち去れというのか。断固、味方全員の解放を求める」

「考えてもみるがいい。数千名の捕虜を一斉に解放などすれば、どう工夫してもすぐに帝国軍に見つかる。今度は捕虜でなく、全員が死体になる。君ひとり、単騎で逃げるからこそ、充分に活路がある。我々と女王陛下をつなげれば、帝国の支配体制を内外で協力し崩すことができる。勝手に与えた役割ではあるが、君の個人的な感情でその好機を放棄しないでほしい」

 ヴァネッサは苦虫を噛み潰したような表情でしばらく黙っていたが、やがて顎を上げた。目の奥の光に、先ほどまでとは違った決意がたゆたっている。

 ユンカースとアイスバーグは、用意した馬に彼女を乗せ、ひと振りの剣のみ与えて、送り出した。

「ロンバルディア女王は、我々にとっての希望だ。君に我々の意志を託すから、女王陛下にくれぐれもよく伝えてほしい。いつかまた会おう」

 返事をせず、礼も言わず、ヴァネッサは静かに駆け去った。だがユンカースには確信がある。彼女は女王と、彼ら帝国軍の反体制派とをつなぐ架け橋になってくれるであろう。気が強く、生意気な女だが、それだけに意志に力があり、信用も置ける。

 ヴァネッサは、自由の身になった。彼女は、同盟領へと逃れた女王を追い、孤独で過酷な旅をいま少し続けることになる。

 ユンカースはアイスバーグとともに、後始末を始めた。監視の目が離れた隙に彼女が逃げ出したように檻車を細工し、彼らの関与を知る娼婦らは始末して、死体は石を抱かせて近くの川へ放り込んだ。

 作戦は順調に進んでいる。あとは同志とともに、ヘルムス総統の命を奪うだけである。

 これがうまくいけば、彼の名は国家再建の英雄として青史に永く刻まれ、大衆の手による真の理想国家をつくれるであろう。新しい国を興す方法が、民衆の革命か、選挙による体制転換か、外国の侵略か、あるいは暗殺なのか、それは問題ではない。

 手段は、その目的と結果によって正当化される。

 国家の転覆を目論む者の誰しもが共通で抱くその哲学を、彼自身もまた、持っていた。その意味では、やや色彩が異なるというだけで、彼の姿は彼自身が打倒しようとするヘルムス総統が通った道そのままとも言えるであろう。

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