第6章-③ 妖しき独裁者

「陛下、もうお時間ですよ」

 わざとそのように気のまぎれるようなことを言うスミンの意地の悪さが、愛らしくもいとわしい。

 皇帝イェスンゲは最前から、彼の体重とその激しい動きに耐えかねた寝台の悲鳴と、愛人の淫らな声の二重奏を楽しんでいたところだ。

 後宮にはもう皇妃やその気に入りの女官らはおらず、彼は誰に気兼ねなく、好きなように振舞ってよいのだ。新たに雇い入れた女官らはみなこの国の実質的な権勢者であるスミンになびき、その意のままに動くようになっている。

「かまわぬ。臣下は待たせておけばよい」

「陛下と私の睦言むつごとを」

「そういうことだ」

 初夏を迎えても、イェスンゲのスミンへの寵は衰えない。一日に何度も政庁から後宮へ舞い戻っては、スミンを抱いている。毎日、勤勉と表現してもよいくらいに、彼らの交わりは飽くことなく繰り返された。

 荒淫のなか、徐々にイェスンゲは身体の不調を感じるようになった。もともと彼の肉体は異常に太っているために、持ち主の生命を維持するというだけでも容易ならざることである。その上、日に何度となく繰り返されるスミンとの交わりが、大きな負担でないはずがなかった。

 その日の朝、ようやく彼の欲求が満足を得てから、彼は突然、嘔吐した。明らかに、スミンとの度を越した情交の連続からくる身体の疲労であった。

 スミンは自分は手を出さず、女官に清掃をさせ、済んでからようやく体調を尋ねた。

「陛下、ご気分がすぐれぬようで」

「どうもこのところ、体調がよくない。そなたとたわむれているときばかりは気も晴れるのだが」

「陛下のようなご身分では、さぞお恨み申し上げる者も多うございましょうから」

「恨む者か。それは確かにいるだろうが、体の不調と関係があるのか」

「ございますとも。なんでも、その道にけた者が祈祷きとうをすれば、呪術によって人を呪い殺せるとか」

「恐ろしい話だ」

「スミンも恐ろしゅうございます。陛下に対する呪いもですが、それほどまでに陛下を憎んでいる者がいるかもしれないと考えると。きっとその者たちは、陛下の寵愛を受けております私も目のかたきにし、陛下がお倒れになれば得たりとばかりに私を慰みものにし、八つ裂きにして笑うことでしょう」

「それは許せぬ」

 イェスンゲはもとが温厚な性格であるだけに、自分が弑逆しいぎゃくの対象となることには平静でいられるが、ほかならぬスミンが他人の手に渡ることを想像すると、狂おしいほどに怒気を発した。この女を不逞ふていな野心家や叛逆者の好きにさせぬためにも、自分は死ねぬ、むしろ先制してそのような異分子は早々に片付けるべきだ、との思考に至った。

 彼はもはや、正常な判断力を失い、ただスミンの指し示すがままに動くだけの愚かな傀儡くぐつである。

 一人の宦官かんがんが呼ばれた。朝廷では侍中じちゅうという、皇帝の側近としていわば秘書団の一員のような役目を持っているに過ぎないが、奸智の才に恵まれているため、このところ身辺にひきつけるようになっている。この種の男を重用するようになったというのも、イェスンゲの人格の急激な変化を物語っていると言えよう。

 名前を、トゴンといった。既に老人である。自分でも年齢を知らないらしい。

「トゴン、来たか」

「参上いたしました」

「トゴンよ、ちんには、朕に叛逆を企図する者を罰する資格があると思うが、そうなのか」

「無論でございます」

「我が朝廷に叛逆者はいるか、知っておるか」

「存じませんが、見当はつきます」

「申すがよい」

「陛下のご逝去により利益を得る者、すなわちご連枝れんし(兄弟のこと)様こそ」

「調べよ」

 トゴン老人は皇帝の意をみ取り、その三人の弟を失脚させるため、証拠を捏造ねつぞうした。皇帝は真実を知りたいのではない、叛逆者に仕立て上げたい者どもを公公然と処断するための大義名分がほしいのである。ならば上位者の真意を察し、暗黙のうちにその材料を提供するのが、彼のような者の任務であった。

 イェスンゲは用意された証拠に嚇怒かくどし、鎮軍将軍のチャン・レアンと龍驤りゅうじょう将軍のウリヤンハタイをして自らの弟らを捕縛させ、その一族郎党含め800人あまりを生き埋めの刑に処した。

 皇帝の弟は王族であり貴種であるが、それをまるで犬でも殺すように生きたまま穴に突き落として殺害したというので、王都トゥムルの民は皇帝の非道と暴虐に震撼した。

 イェスンゲはこの際、彼にとって邪魔な者を一掃することを思い立ち、チャン・レアンには皇太后を、ウリヤンハタイには皇妃の誅殺ちゅうさつを命じた。

 皇太后は、息子である皇帝イェスンゲを嫌い、その容貌、その言動、その政道、ことごとに批判を加えてくる目の上のこぶである。臣下はどこまでも臣下でしかないが、皇帝の母ともなると息子として忠孝を尽くさねばならず、無下むげに扱うこともできず常に譲歩を強いられてきた。

 皇妃を排除したい理由は、彼女がいるとスミンを皇妃の座を与えることができないからである。皇妃はすなわち、王国の女性が望みうる最高の地位であり、彼女に贈るにこれ以上の贈答品はないであろう。しかし一人の皇帝に二人の皇妃は置けぬし、第一、現在の皇妃がそのような事態を許すはずがない。

 これらの動機を満足させるため、イェスンゲはトゴン老人が準備した叛逆の動かぬ物証をもとに、決然として排除を命じたのである。

 まず、「狼将」の異名を持つチャン・レアンが、名前の通り狼のような早さで皇太后の住まう王宮の北殿に殺到し、女官を一人残らず虐殺し、皇帝の母たる皇太后には自殺を強いた。屈強な兵に囲まれ、老いた皇太后は息子に対する呪詛じゅそを叫びながら、自らの首をねて死んだ。

 また役職が龍驤将軍であることから「龍将」と呼ばれるようになったウリヤンハタイは、後宮を追い出されたあと王都トゥムル城下の富豪に住居を世話してもらっていた皇妃を襲い、罪状を読み上げたのち、手にしていた柳葉刀りゅうようとうで即刻、斬首した。皇妃の頭部はくるくると宙に舞って、手品のようにまた胴体に戻り、やがて倒れた。彼の手勢は逃げ惑う皇妃付きの女官らを手当たり次第に犯し、その全員が息絶えてから、ようやく引き上げていった。

 この一連の殺戮で、皇帝イェスンゲの名声は地に落ちた。これまで「たかが愛妾への寵愛が度を過ぎているというだけのこと」として皇帝を擁護する一派も世論のなかにはあったが、彼らも口を閉ざした。今や彼らの皇帝は歴史的暴君の道を歩みつつある。

 十常侍じゅうじょうじにつづいて弟や皇妃、皇太后を抹殺したことで、イェスンゲは批判者の存在を許容しない絶対的独裁権を確立した。命令は表面的には皇帝の口から出されるが、その判断は新たに皇妃として冊立さくりつされたスミンの助言によるところがほとんどであったから、実質は彼女の絶大な権力を振るう独壇場となったのである。

 ただ、スミンは王国の支配権を手に入れてなお、憂いがないわけではなかった。

 子ができない。

 彼女が目指すのは、自らの血統が、真の術者として国家の頂点に君臨する世襲国家である。大陸西南に位置するロンバルディア教国は、代々術者をもって王としているが、あれはスミンから見ればまがい物の術者である。単に儀式として術者や導きといった概念を用いているだけだ。彼女の術者としての思念、能力はいにしえの術者三姉妹に勝るとも劣らず、それこそ王として国家を統治し、指導者として民衆を導くのにふさわしい。

 が、彼女のはらはいくらイェスンゲの子種を欲しようとも、懐妊の喜びを得ることはなかった。夏が過ぎ、秋も終わりかけた頃、スミンは皇帝にもはや子をなす能力がないものと結論づけていた。イェスンゲの体調の悪化は甚だ進んで、残された体力でスミンを抱く以外は始終、嘔吐や下痢、めまいなどを発症するようになって、あれほど大きかった肉体も、近頃はしぼんできている。どうやら死期が近いらしい。

 スミンはトゴン老人に、皇帝の暗殺についてはかった。王国の独裁者は皇帝イェスンゲではなく、このスミンであるということは、王国人であれば既に知らぬ者もない。トゴン老人も、スミンの参謀格として傍らにあり、その陰謀をめぐらせている。

 しかし、皇帝がいなくてはスミンの権力の源泉も存在しなくなる。

「うまい手はないのか」

「ございますとも。陛下がお隠れあそばしても、そのまま太子を皇帝として立てられれば、皇太后として諸事を掌握できるではありませんか」

「そうか、皇太后になるのか」

 しかし、スミンには懸念がある。

「トゴンよ、私は皇帝の子がほしいのです。皇帝の子種を宿し、その子に皇位を継がせるのが望みです」

「ならば皇妃になられればよい」

「そううまくゆくのか。私は皇帝の妻で、太子が位を継げば、私は義理の母。我が子の妻となるなど、聞いたこともないが」

「何を遠慮なさいます。何者が皇妃陛下のお振舞いをとがめようというのですか」

「それもそうか」

 スミンは、今やこの国における最高の権力者でありながら、世間の評判を気にする自分に笑いがこみ上げた。確かにトゴン老人の言う通りで、彼女の権勢を阻み、あるいはその行動を掣肘せいちゅうしうる者などいないのである。

 何を思いわずらうことがあるのか。

「では皇帝はもう用済みである。万事、手配は任せてよいか」

「手前にお任せください。狼と龍をもって、豚の退治をさせましょう」

 こうして皇帝イェスンゲの命日は、ごくあっさりと決定された。彼は、彼の寵愛によって術者スミンを歴史の舞台へと引き上げ、入れ替わるようにして、彼女の手でその舞台から永久に追放されることとなったのである。

 すべて、術者スミンの思惑通りにならざることはない。

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