第6章-② 闇の目覚め

 イェスンゲのスミンへの寵愛はまさに国を傾けるほどで、大勢の女官をつけ、貴重な宝石や織物を贈り、酒池肉林の馳走ちそうを毎晩楽しみ、それらを用意するため湯水のように国費が投じられた。

 本来、皇帝イェスンゲは平凡な分、野放図のほうずなところのない性格で、一側室のために良識の枠を逸脱して行動するなど考えられないことであった。

 が、今はたったひとりの女の虜となり、国政をかえりみなくなっている。

 スミンという名の女である。

 黒い瞳に黒い髪は、この地方であればごく標準的な姿であるが、ほかの妙齢の女と際立って違うのは、妖しいほどに滑らかな肌と湿ったようなやや低い声、そして男の性本能をくすぐるような、挑発的で蠱惑こわく的な表情である。

 彼女は術者であった。ほかの生き残った術者の家系と同様、彼女もみだりに術を使ってはならないと父母に厳しく教わり、それを肝に銘じてきた。

 彼女に宿る恐るべき力と邪悪な思念を悟っていたのであろう。我が子を殺さなかったのは、彼女が生来、父母に従順で、可愛く思えたことと、理をさとして厳しく禁じていれば、彼女もついに力を使わず安穏に生をまっとうできるだろうとの甘い期待があったからである。

 しかし、悪しき術者の邪心と奸謀は、彼らのような小市民的術者の知恵では所詮、測りがたい。

 スミンは成人してのち、毒蛇を用いて父母を殺害した。邪魔者を消してからは、薬売りと称して王国各地をめぐり、情勢を探った。

 術者スミンの悲願はふたつある。

 ひとつは帝王の血筋を引く子をなすこと。

 もうひとつは、その子に強大な帝国を遺産として残してやること。

 そのために、彼女の術が使える。彼女が触れた者はみな彼女に魅了され、虜となり、意のままに動くようになる。

 かつて術者ムングを討った梟雄きょうゆうセトゥゲルの配下に、毒蛇を操る者がいた。従来の力の源は、光、風、火、水、土、雷、氷の七種とされていたが、いまひとつ、隠された術式がある。

 それがスミンの妖力の根源、闇の力である。闇はすなわち邪心と惑乱の象徴であって、その及ぼす災いは並の術者の比ではない。良心の豊かな者でさえ、この術にかかれば邪気に支配され、徐々に彼女の意のままに動くようになる。洗脳と言えばやや近いが、彼女の術の場合は一時的な効力ではなく、不可逆的に人格そのものを塗り替え、進んで彼女の下僕になるというところに恐ろしさがある。

 だから、術の対象になった者も、支配される自覚なく、正気に目覚める可能性もない。

 皇帝イェスンゲも、その術の餌食えじきである。彼の場合、スミンとの肉体の交わりを通じてより濃厚に闇の術を浴びており、その毒牙に抗するすべもない。

 スミンが後宮に入ってひと月ほどして、国政への興味がすっかり失せた皇帝のあまりに惰弱だじゃくな姿に、十常侍じゅうじょうじと呼ばれる宦官かんがんの勢力が弾劾の書状を送った。この時期、皇帝が愛人を囲い、その女を溺愛するあまりに政務を放棄してしまっていることは、宮廷どころか王国の津々浦々まで知れ渡っていた。

 もっとも、民衆の大半は当初、「生真面目な皇帝が珍しいこともある」という程度の反応であった。しかし彼が強権的に後宮から皇妃を追放したと聞いてからは、誰もが皇帝の常軌を逸した変容ぶりに不穏の気配を感じ、眉をひそめ、うそ寒さに口をつぐんだ。民衆にとって、精神を害し、正常な判断力を失った支配者は天災よりも恐ろしいものである。

 十常侍は、十人の常侍という意味で、常侍とはこの国の官位である。本来は皇帝の勅令を伝え、あるいは臣下からの上奏を伝奏てんそうする取次の役目だが、皇帝のそば近くに仕える関係で、しばしば権力を握り専横を振るう。

 また宦官とは、去勢された宮廷役人のことで、皇帝が妻妾と臣下の密通を避けるため、城内に住まう男性は去勢されるべきものという慣習が古くから続いている。

 この宦官の集団が十常侍として権力を掌握しているために、政治上の意思決定自体に問題はなかったが、皇帝不在では決裁ができない。

 そこで、十常侍は結束して皇帝を弾劾した。宦官は王国史の多くの時代で皇帝の権力を代理で執行し、その代理権のもとで私腹を肥やす、いわば君側の奸であったが、この時期は良識派あるいは開明派の宦官が多く十常侍に就いており、国を憂えて皇帝に直言し、政道を正そうとするするだけの志があった。

 一方、弾劾状に「愛妾への寵愛に惑溺し、皇室の安定を損ない、かつは執政者の責務をないがしろにし」とまで書かれた皇帝イェスンゲは、閨房けいぼうで屈辱にその巨体を震わせた。

「なにをご覧ですか」

 そばには、からみつくようにしてスミンがはべっている。このひと月ほど、互いの肌が溶け合うほどに抱いた肢体だ。

「十常侍が、ちんに弾劾状を送ってきおった。言うに事欠いて、そなたに惑溺しているなどと書きよって」

「陛下が私をご寵愛くださっていることはまことです。私が後宮に上がってからというもの、片時も離さずにいてくださいます」

彼奴きゃつらはそれを、女に溺れた惰弱な皇帝だと吹聴しているらしい」

「私は心配です」

「心配とは」

「十常侍は陛下の権威を削ぎ、それによって自己の影響力を高めようとしているのではないかと」

「やはりそう思うか」

 イェスンゲは、自らの考えとスミンの不安が、まるで鍵が鍵穴にぴたりと収まるように符合したことでいよいよ猜疑さいぎと敵意を強くしたが、実はそうした思考自体、彼女によって巧妙に操作され増幅されたものであることに気付いていない。

 以前の彼ならば、十常侍の意見を素直に容れていたであろう。だが今、彼の脳裏は術者スミンによって注入された邪心に支配されつつある。

 しかも彼は政務や内政や後宮の運営たるを問わず、何事もスミンに相談し、その意見を盲信した。闇の術のためにくもった彼の目には、スミンはこの上なく誠実で聡明に見え、良臣は不忠極まりない奸悪の徒としか映らない。

 彼はスミンの勧めに従い、不逞ふていな奸臣を宮廷から永久に排除すべく、行動を起こした。

 まず、皇帝直属の御林ぎょりん軍において最も勇猛とされるチャン・レアンとウリヤンハタイという二人の校尉をそれぞれ呼び寄せた。

 チャン・レアンは年齢31歳。2m近い並外れた長身、方天画戟ほうてんがげきと呼ばれる大重量の得物を軽々と操る膂力りょりょくを持ち、大軍に分け入って敵将の首をたやすく持ち帰る様は、彼の名前が狼を意味することから、「狼将」とも評される。個人的な武勇にかけては並ぶ者がないが、直情径行型の猛将であるため、未だに騎兵校尉にとどまっている。校尉はいわば百人長格で、将軍ではない。

 ウリヤンハタイは年齢32歳。こちらも身長は190cmほどある大男で、柳葉刀りゅうようとうという大身おおみの片刃刀を二刀で操り、その勇猛さはチャン・レアンに劣らない。若くして頭角を現し、将軍としての立身を期待されるが、かつて十常侍のひとりの縁族を軍令違反の罪で斬り捨てて以来、その恨みを買い、出世を阻まれている。

 イェスンゲはこの二名を計画に積極的に賛同させるため、軽い奸謀を施した。

 まずチャン・レアンは鬼神のごとき猛将であるが、欲に目がくらみ、志はなく、思慮にも欠ける。十常時を一掃したら朝廷の鎮軍将軍に任じ、さらに王国一と言われる名馬「絶影」を贈ると約束すると、彼は喜んで任務の達成を誓った。

 ウリヤンハタイは野心と才能に恵まれながら、十常侍の忌避と妨害によって校尉の身分に甘んじてきた男である。この男には龍驤りゅうじょう将軍の地位と、十常侍らの一族について生殺与奪の権利を与えると言明すると、案の定、勇躍して引き受けた。

 このような陰謀も工作も、無論、スミンの誘導によるものである。

 4月9日、チャン・レアンとウリヤンハタイが率いる御林ぎょりん軍計600名が、皇帝不在の朝議が行われている朝廷を急襲した。このときの両名の働きは悪鬼にも等しく、わずか3分以内に十常侍の全員と、止めに入った宦官ら40人あまりを皆殺しにしてしまった。朝議が行われる廟堂びょうどうはひと月近く、血のにおいが消えなかったという。

 その後、チャン・レアンは勅命を奉じて宮廷及び王都トゥムルの市街全域を戒厳令下に置き、自らは戒厳司令官として軍権と裁判権のすべてを一時的に掌握した。

 一方、ウリヤンハタイは少数の手勢を率いて十常侍の屋敷を次々と襲撃し、邸内の家族や使用人、さらに飼われていた犬や猫まで残らず惨殺し、最後には火を放った。

 この数時間で惨殺された十常侍の関係者は500人とも800人とも伝えられるが、いずれにしてもこれは皇帝によるクーデターと言うべきであった。凡庸な皇帝に代わって政権を担当していた十常侍を皇帝が殺害し、大権を武力によって奪ったということになる。

 政変ののち、叛逆者の血でけがされた廟堂に代え、王宮の西殿で臨時の朝議を開いた皇帝イェスンゲの隣には、なんと、愛妾スミンの姿があった。正妻たる皇妃はともかく、氏素性の知れぬ愛人を朝議に列席させるという前例はない。

 しかし久方ぶりに廷臣たちの前に現れたイェスンゲの目の表情が、まるで人変わりしたように粗野で獰猛どうもうで威圧的であるので、誰もが十常侍の二の舞となることを恐れ、異見を唱えることはしなかった。スミンの同席は黙認されたのである。

 今や、皇帝イェスンゲは絶対権力を手に入れた暴君と化している。

 愛妾スミンも常にその傍らにあって、あらゆる公務に介入し、影響力を発揮している。

 スミンは美しい。その姿を一目でも見た男で、情欲をかきたてられない者はなかったが、しかしそれ以上に皇帝の人格をかくも一変させてしまう悪辣あくらつなほどの魔性の魅力に、誰もが不安と恐れを抱いた。底の見えない穴をのぞき込んでいるような、根拠のない気味の悪さがある。

 王国の政道はさながら、ひとりの美しき愛人と、その愛人に惑う一匹の獣の玩具に成り下がったようであった。

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