第5章-① 光に迫る影

 ロンバルディア教国の成立は、ミネルヴァ暦457年にさかのぼる。

 始祖のソフィーとソフィアの姉妹は、それぞれ風と水を操り、術者バルの直系子孫を自称した。術者バルとは、術者が世に出た経緯を伝えた「術士奇譚」に登場する人物で、梟雄セトゥゲルの親友にして腹心の男である。

 彼はセトゥゲルから導きを受け、仲間と共闘して術者ムングを倒したが、その姉アルトゥによって盟主を失った。

 その後、彼は単身、大陸南西部のアポロニア半島、現在ではロンバルディア教国領となっているアパラチア帝国に移り、隠れ住んだ。術者としての血統ではないにしても、強力な思念を持つ彼は、同時に知性にも恵まれており、術の濫用が世界に厄災をもたらすと考え、終生、術を使うことはないままに、セーヌという片田舎の町でオリーブを栽培しつつひっそりと没した。

 彼の子孫も、代々導きを受けつつ、その力を発揮することを固く戒め合って、時代はミネルヴァ歴5世紀を迎える。当時、爆発的に流行しつつあったペストによって、大陸中の実に3分の1程度の人が亡くなったと言われるが、アパラチア帝国でも甚大な被害が出た。

 双子の姉妹であるソフィーとソフィアは、16歳にして両親をペストにより失った。彼女らの両親は、術を使えば自らが助かることを知りながら、治療を拒否し、従容しょうようとして死を受け入れた。

 姉妹は大いに悲しみ、かつ術を絶対の禁忌とする家訓に疑問を持ち、人々のために力を使うことを約した上で、医師として働くことを決めたのだった。

 姉のソフィーは、伝説の術者アルトゥがそうしたように、患者の唇から風を送り込むことで血液を浄化し、病を治癒した。妹のソフィアは水に思念を加えて患者の口に含ませると、たちまち毒素を中和して回復せしめた。手法は異なるが、彼女らの周囲にペストで苦しむ者はいなくなった。

 噂は噂を呼び、彼女らの住むセーヌには往診を依頼する者や、重病の患者を運び込む者が殺到した。姉妹は要請に応えてアパラチア帝国の都であるカーボベルデに赴き、10年で8万人以上の病者を救ったとされる。

 アパラチア帝国が続発する疫病と内乱によって衰退するや、民心は既に術者として名を世に知らしめていたソフィーとソフィアの姉妹に集まり、彼女らを救世主として崇め、それを政治的勢力として主張し利用しようとする一団が現れ、民衆の絶大な支持を背景に、ついに国を奪い取ることに成功した。

 ソフィーとソフィアは必ずしも王朝の打倒や国家の経営に興味があるわけではなかったが、彼女らの術者としての名声は一人歩きし、事の成り行きで初代女王としてロンバルディア教国を共同統治することとなった。

 極めて賢明な姉妹であったとされ、術者として新王朝の創業をなしてからも、病人の治癒以外の目的で術を使ったことはないと伝承されている。ともに一生を純潔のまま過ごし、子もなかったため、養女をとって次の女王とした。これが先例となり、教国の君主は女性のみで、しかも少なくとも退位するまでは処女であるべきこと、王位の委譲は養女への導きによることなどが黙契として成立した。この不文律はロンバルディア教国の開闢かいびゃく以来、破られてはいない。

 ロンバルディア教国は女王が統治する国で、しかも血統によらず術者としての素養がある者を女王が見極めて養女に迎えるという非常に特殊な権力形態をとっている。ただ、そのために、なかにはクイーン・エスメラルダのように、身元の確かならざる孤児でありながら、王位に就くことができたのだとも言える。

 しかし、国家の基礎に術者の存在を置き、それを救世主としてあがめているとはいっても、人々の術者に対する印象や定義は実のところ、十人十色である。

 ひとつには、ロンバルディア教国の女王が代々にわたって術者の力を受け継いでいるとはしつつも、徐々にその神通力も薄れ、民衆への恩恵も実感としては感じられなくなったことによる。開祖であるソフィーとソフィアの姉妹には、確かに偉大な力が備わっていたであろう。彼女らから数代は術者としてある程度の力を持っていたのかもしれない。だが、術の使役を禁忌とされ、また術者であることが王位を継承していくに際し実際はほとんど意味をなさなくなって、導きも形骸化するようになった。術者であるか否かはどうでもよく、王朝を安定して存続させることさえできれば、王の役目はそれで達成されたも同然なのである。

 いまひとつは、術者と術が俗世から乖離かいりされて久しいということである。術者と術が、善悪いずれにしろ目に見えて世界に影響を与え続けているうちは、人々の見解もその事実に立脚して自然と一致していく。だが術者も術も俗世からなくなり、実在したのかどうかさえ疑わしいほどに時間が経過し風化すると、それはもはやおとぎ話として扱われ、その登場人物や行い、力に対しても評価が分かれるようになるのである。

 統計をとれば、恐らく術者は偉大にして救世主であると無邪気に考える者がやや多数派と言えるだろうが、一方で術者は強大な力を秘めつつ人間のように不安定で不確定な要素を多く持っている点で極めて危険だと唱える一派もいる。

 それが例えば、マルケス議長である。

 彼はアンナから盲人の正体が術者であると聞いたその場で、彼を「殺すべきだ」と断言できるほどに、急進的で確固たる思想の持ち主であった。

 しかもこの件に関する限り、彼は異常なほど行動的で、たとえそれがクイーンに対する叛逆に問われる可能性があると知ってなお、それが自らの使命であるかのように熱っぽく計画の立案と遂行に取り組んだ。

 まずは彼が懇意にしている料理人と女官をだまし、金を握らせて渡りをつけた。彼らは当然、盲人が術者であることを知らなかった。盲人を殺すのだ、とも言わない。彼に異国で開発された神経系の眼科薬を処方したい、ただし期待させたくもないので、内密に事を運ぶように、などとそれらしい筋書きを用意して、うまく丸め込んだ。

 並行して彼は毒薬を用意した。毒はトリカブトと呼ばれる猛毒の植物で、この葉を砕いてスープに混ぜるなどしてしまえば、尋常の人間ならばひとたまりもない。先般の内乱を主導したトルドー侯爵夫人も、その夫と息子もろとも、このトリカブトの毒を用いて自殺している。

「しかし術者たる者に、毒が効くのだろうか」

 効かぬなら効かぬで別の方策を立てればよい、とも思った。

 犯行後に計画が露顕ろけんすることについても楽観的に考えていた。自分は確かにクイーンの臣下だが、師でもある、自分に重罰は課すまい、との思い込みがある。それよりも、術者を抹殺する方が世界のためになる。

 クイーンを説得しよう、とも思わなかった。マルケスは彼女の師であっただけに、その聡明さとともにその頑固さもわきまえている。自分に内密にしている件で、自分の反対意見を聞き入れ翻意するとも思えない。

 さしあたり実行を優先して、あとから理解を求めればよいと考えた。

 暗い義務感と正義感が、今は彼を突き動かしている。

 さて、この頃になるとサミュエルはだいぶ元気になって、ルースと過ごすなかでも時折、笑顔を見せるようになった。常に一緒で身辺の世話もしているが、それ以上に感情的な交流も進んで、周囲からは実の兄妹のようにも見える。

 サミュエルとしても、最初はクイーンの大切な客人ということで緊張していたルースが、徐々に妹のような馴れを示してくると、次第に気が置けなくなった。

 ある時、サミュエルが両目に巻いている白いさらしに汚れがあることを見つけたルースは、半ば強引に、「取り替えましょう」と提案した。サミュエルはさらしの下を見られることにやや戸惑いと抵抗があるようだったが、ルースの執拗な勧めに負けて了承した。

 ルースは生者に限定すれば唯一、彼の素顔を見たことになる。悲惨な傷跡や病気の名残があるのではと想像していたものの、目を閉じている以外はごくごく変哲のない素顔である。顔立ちは整っていて、美青年と言っていい。

 ルースはやや安心して、好奇心の向かうままに尋ねた。

「目が見えないのは、生まれたときからですか?」

「えぇ、生まれつきです。姉は目が見えましたが、耳が聞こえませんでした」

「お姉様がいらっしゃるんですね。今はどちらに?」

「姉は」

 死にました、と言いかけて、思わず口をつぐんだ。彼自身、直面しがたい事実であった。しかも彼の姉は、彼の手の届くところで、自ら命を絶ったのだった。あまりにも悲惨で無情なその事実を、まだ少女のように純粋で多感な彼女には伝えたくない。

 彼は嘘をついた。

「姉は病気で亡くなりました。女王様が姉をご存知で、身寄りのない僕を引き取ってくださったのです」

「そうでしたか」

 感想とも言えない、静かな反応だけが返ってきた。

 ルースはその後、身寄りがないと言ったサミュエルの寂寥せきりょうを紛らわせようとするように、しきりと近衛兵団の仲間や上官、クイーンやエミリアについて語った。そうした気遣いが分かるだけに、サミュエルにとって彼女の存在は貴重になりつつあった。

 ほかにも、彼にとって貴重な人がいる。クイーンである。

 カルディナーレ神殿から帰還し、絶望の沼のなかで窒息するような思いでいた彼に声をかけてくれて以来、彼女は多忙な合間を縫って毎日、彼を訪れた。短いときは数分だが、長いときは30分ほど、話し込んだ。

 彼の身の上に関すること、家庭教師の仕事、ファエンツァの町の人々、好きな食べ物、王宮に来る前の暮らし、王宮に来てからの暮らし。

 亡くなった姉についても、話すようになった。それは彼が姉の死を徐々に受け入れつつあることの証でもあった。

 クイーンは彼の話を、時に興味深そうに、時に神妙に、時に嬉しそうに聞いた。表情は見えなかったが、サミュエルは人の気配を察することができる。クイーンも、ことさら彼に伝わるような配慮をしているのであろう。本来は雲の上の身分の人であり、こちらは片田舎の素性すじょうの知れぬ盲人であったが、彼女は一人の対等な人間として、客人として扱ってくれた。

 決して長い時間ではないが、毎日欠かさずやってくる彼女は、いつも香水をつけている。香料とアルコールを調合してつくられる香水は、近年、宮廷や社交界のたしなみとして急速に普及しつつある。クイーンは宮廷社会の堅苦しい慣例や礼服が苦手であったが、香水は例外的に好んでいる。専門の調香師を宮廷顧問官として招いているほどである。

 サミュエルは彼女の、特にバラの香りがする香水が好きだった。彼は田舎育ちで香水というものが世にあることを知らず、クイーンのまとっている香りが毎日違うことを不思議に思いルースに尋ねると、香水の存在を教えてくれたのだった。視覚が機能していない分、嗅覚の鋭いサミュエルは、クイーンの好む香りを覚えてしまって、自分はとりわけバラの香水が好きだと話すと、彼女は思いのほか喜び、同じ香水をサミュエルの手首の静脈へ塗ってくれた。が、香りが微妙に異なる。香水は体臭や汗と混ざって揮発し香りを出すので、同じものでも人によって香りが違うらしい。また、時間とともに香りのニュアンスも変化するという。

 彼は数日間、自分の手首の内側をしげしげと嗅いで過ごした。

 クイーンの声も、彼にとってはまるで音楽的な響きをもって感じられた。女性としてはやや低く、それでいて感情の豊かさ、知性の彩り、品性の気高さなどを包容した声だった。彼がこれまで接してきたどの女性とも違う。

 女王様はどのようなお顔立ち、お姿でしょう、とルースに聞いてみると、彼女は脳裏に教国一とも称される容色を描く時間をつくってから、

「背は高い方でいらっしゃいます。たぶん、175cmほど。ええとつまり、私とサミュエルさんのちょうど中間ほどです。髪は栗のようなお色で、最近の社交界の流行りは腰まで伸びるほどのロングヘアですが、クイーンはご幼少の頃からショートヘアがお好きだったそうです。今も、ちょうど首が隠れる程度の短さに。瞳も栗色、お体は細く、細身のドレスなどがとてもよくお似合いですが、体力にも恵まれておいでです。肌は白よりは小麦色に近く、目鼻立ちははっきりとして、表情がとても豊かです。目元は涼しげ、口元にはいつも微笑があって、とにかく笑顔の多い方です」

 などと細やかに説明した。色についてはよく分からないが、言われるままに想像するのに注意が向いて、応答は甚だ平凡になってしまう。

「とても美しい方のようですね」

「はい、私などが無作法を承知で申し上げると、非の打ち所のない美貌でいらっしゃいます」

「ルースさんの話しぶりだと、単に美しいだけでもないようですね」

「そうです。お美しいだけなら宮廷の名士や貴族の貴婦人やご令嬢にも星の数ほどいらっしゃいますが、クイーンはすべてが特別なのです」

「特に、どういったところが魅力的なのでしょうか」

「私は、強さと自由にあると思います」

「強さと自由……」

 強さとは意外である。クイーンの声にも香りにも気配にも、他人を圧するような強さは感じられない。

 自由、というのも聞き慣れない言葉だった。女王の魅力が自由にあるとは、どういうことであろう。

「クイーンの目には、どう言っていいのか……強さがあるのです。優しさや、自信や、気高さや、凛々しさ、志の強さ。そういったものが人としての強さとして感じられるのです。私はクイーンのそうしたお強さに憧れていますし、心の底から尊敬しております」

「自由とは?」

「クイーンはおよそ慣習や前例に縛られることのない方で、旧来の価値観や制度も吟味ぎんみした上でそれがご自身に合わなければ、容易に従おうとはなさりません。実際、即位されてからすぐ、いくつかの旧法や旧習慣が廃止または改められましたし、今後も税制度や貴族制度にも手をつけられるお考えです。身の回りで例を挙げると、お召し物などは特にそうで、これまでの王族方や貴族の方がされるような大仰な衣装や装飾品がひどくお嫌いで、単色のドレス一着だけを身につけてお出かけされるなど、控えめで無駄のないお召し物がお好みです。そうした自由な感じ方、考え方がまさに偉大で、どんな因習も悪弊も、あの方の翼に鎖をつなぐことはできないのだと思います」

 ルースはことクイーンの話題になると異様に饒舌じょうぜつになる。その背景には信頼や尊敬を超えた、信仰心と言っていい精神の偏りがあるようだった。だが、サミュエルには不思議と違和感がない。接した時間は短いが、彼にもルースの言葉が充分に実感できるほどの好意的な感情を、クイーンに対して持ち始めている証左なのである。

 彼はクイーンとの交流の時間を貴重に思い、好ましくも思って、無意識のうちに彼女の訪れを心待ちにするようになった。宮殿での生活、とりわけクイーンとの時間は、姉と二人きりで暮らし、生活圏や人との交流をごく狭い範囲に制限して生きてきた彼に、天地が無限に伸びているのではないかと錯覚させるほどの世界の広がりをもたらした。

 だが漠然とした不安もないではない。彼と世界とのあいだには、明確な境界線があって、彼は術者、世界はそうではない。世界のある種の人々は、彼を救世主として偶像視する。また一派は、彼を破滅の使者とみなす。いずれにしても人々に畏怖や恐怖を与えうる力を自分は持っているのだ。それは彼の望んだ力ではなかったが、気づいたときには彼はその力を手に入れていた。そしてその事実は恐らく彼が死ぬまで、生涯つきまとうに違いないのだった。

 姉を亡くした今となっては、その孤独感たるやほとんど形容しがたい。

 それにクイーンが自分をどう思っているかも気にかかっている。本心では、恐れているかもしれない。あるいは、懐柔しようとしているだけかもしれない。

 高潔な方である、とルースを含め誰もが証言するクイーンの人格に疑心暗鬼になることは彼自身も意図して避けたかったが、そうした茫漠たる不安は抑えても決して消えることはない。

 加えて彼自身、自分の今後の身の振り方をどうしたいのかつかみかねていた。姉が存命の頃は、姉とずっと一緒にいて、ずっと二人で暮らしていくものと思い込んでいた。それ以外の選択肢を考える必要もなかった。しかし、今はその唯一の選択肢が消えてしまった。クイーンはどのような決断でも支援することを確約してくれたが、未だその道は見えていない。

 姉が生きていれば、この国を去ろうと言い出したに相違ない。術者と、術者の存在を知る者が近くにいるのはそれだけで火種になりうる。

 しかし彼は去りたくなかった。去って、行く当て所あてどもない。去りたくないと思えるほどの居心地のよさも感じつつある。

 クイーンは、決めるのに時間はいくらかかっても構わないと言ってくれた。いつまでも、王宮にいてくれていいと。もう少し、その言葉に甘えてもいいのではないかと思う。

 彼は無論、知らない。静かに、だが着々と、悪意と敵意に満ちた宴の準備が進んでいることを。彼を害するべき個人的な理由がなくとも、彼が術者であるという、ただそれだけの理由で殺意の動機になるという厳然たる事実に直面するときが、まもなくに迫っているということを。

 王宮の圧倒的大多数の人々にとっては、素性は知れないが善良にして無害な盲人として受け入れられつつ、日々を送っている。

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