第4章-⑥ 最も共犯に近い傍観者
日一日と、サミュエルは精神的健康を取り戻しつつあるようだった。
彼は目が見えない分、特別な能力があるようで、一度音読してやった本は一字一句
彼の最も身近にいるのは近衛兵のルースだったが、この
ただ、術者であるとは夢にも思わない。
サミュエルも、そこは用心した。ルースに心を許しつつあるとはいえ、術者の存在を無用に広めるような言動は慎むべきであった。秘密は依然、秘密のまま守られている。
多くの人が住まい、多くの人が出入りし交流する宮殿は、彼にこれまでの人生にはなかった刺激や発見をもたらした。
彼にとってはファエンツァの町が唯一の都会であったが、レユニオンパレスはそれよりもはるかに広大である。また城下町にあたる国都アルジャントゥイユは、
「ファエンツァの百倍は人がいます」
とルースが断言するほどの隆盛を極める街であるらしい。まだ若いサミュエルの知的好奇心や想像力を誘惑する材料が尽きることはない。
クイーンの
ルースは軽い気持ちで、この件の直接命令者であるヴァネッサに許可を願い出たが、意外にも即断が下りず、アンナやエミリアまで巻き込んでその可否を相談しているようであった。単なる客人であれば、外出がさほどの大事であるはずはなく、この点で違和感があったが、結局、許された。ただし副兵団長たるヴァネッサと、シルヴィ、イヴァンカという、近衛兵団でも知られた
また王宮への滞在が続く過程で彼の存在と、その正体について
こうした問い合わせの窓口になるのはたいていの場合、近衛兵団長のアンナであった。
やがてヴァネッサが盲人の家に送った調査隊が帰還し復命した。
宅内は絶命した死体がいくつも転がり、夏の暑さと湿気で腐敗が進んでいたが、四名の男性調査員は死臭と死骸に群がる無数の
ひとつは明らかに女性と分かる遺体で、比較的、腐敗の進行が遅い。首に深く長い切創があり、周囲には大量の血液と思しき体液の痕跡がある。これが致命傷となって亡くなったものと思われる。
ほかの遺体はすべて男性らしいが、いずれも頭部の損傷、崩壊がひどく、腐敗と分解、液状化が進んで、人間の顔と判別するのも難しいほどである。外傷は見当たらないわりに、頭部はまるでかなり以前から腐敗が始まっていたようにも見られる。頭蓋骨の内部はすっかり空洞化して、蛆虫の巣のようになっていた。
「戦場の遺骸処理も含めて、かつてこれほど凄惨な状況に出くわしたことがない」
この任務には近衛兵としての戦歴も長く、口も堅く、判断も信用のおける者が選抜されていたが、彼らが口を揃えて証言するので、アンナも兄の言が
一度、ルースがクイーン、エミリア、アンナ、ヴァネッサにサミュエルの近況に関して定時報告を行う場があったので、ルースの退出後に議題として提起した。術者をどのように遇されるのか、と。ここでエミリアと思わぬ議論になった。
「術者は危険です。彼の家に派遣した調査隊の報告をご覧になったかと思いますが」
「危険だとして、どうすべきだと?」
「確かな答えはありませんが、何らかの方法で、彼を制御なり、無力化するなりしなければ、我々もこの世界そのものも、術者の恐怖にさらされ続けることとなります。いつ、彼が悪い方向へ覚醒して、災厄をもたらさないとも限らないのです。あるいは、伝説のように、誰かに導きを施して、悪しき術者を生み出してしまったら手遅れになります」
「将来の危険をもって、現在の行動を誤ってはならない。まず、彼に罪はない。彼自身、深く自制して、決して術を使わぬように心がけて生きてきた。今後もそのように彼が生きていけるよう、手を差し伸べればいい。目の届くところに暮らす限りは、逆に安心だろう」
「しかし彼にその自制を求めてきたのは、死んだ姉であるというではありませんか。姉は亡くなり、その
「そう極端に悲観する必要はない。ここ数百年、我々は術者の存在にすら気づくことなく人間の営みを続けてきた。世界に災いをもたらしたのはむしろ人間の利己心や名誉欲、憎悪の連鎖からくる戦争や貧困ばかりだった。その意味では、少なくとも彼の気質が、世界を悪い方向に変えることはないと思うが」
「アンナの気持ちは分かります」
クイーンがそのような表現で討論に割り込んできたとき、アンナは結論が見えた気がした。
「ただ、彼は世界の破滅を望んでいるのではないと思います。善良で、賢明な方だと思います。いたずらに術を使って世を騒がせることもしないでしょう。言い伝えにも、悪しき術者はほんの一握りで、あとは世界の繁栄や共存を願っていたとあります。私はそれを信じたいと思います」
明言はしなかったが、クイーンには命を救ってもらったという、個人的な恩義もあの術者に対して持っている。少なくとも感情の面において、彼に不利益な扱いをする気にはなれないのであろう。
確かに表面的な事実からすれば、この国の人間として、彼に恩義こそあれ悪意の持ちようもない。クイーン、つまり当時のプリンセスが術者によって暗殺者の手を逃れたからこそ、国は再び団結を取り戻し、再建の道を強く歩み始めた。女王が
しかしアンナはなおも自らを納得させることができず、苦悩した。
その
彼はもともと自分の関知しない人間が、王宮に住まい、クイーンと何やら特別な人間関係を築いているらしいことを不審に思い、不快にも思っていた。しかも、その正体については、誰に聞いても「クイーンの客人」とのみ説明され、真相を知っているらしいエミリアも口を閉ざし、クイーン自身も明かそうとはしなかった。かつてクイーンの教師団のひとりとして、また現在は政府の最高閣僚の座を占める彼にとって、
彼は自分に対するその秘密を明かす鍵は、秘密の当事者であるクイーンでも、クイーンの分身とも言えるエミリアでも、クイーンに絶対服従のヴァネッサでもなく、アンナであると思っていた。
アンナは心が弱い。クイーンもエミリアも、まさか国家機密とも言っていい重大事を、近衛兵団長たる者が禁を破って漏らすとは想像していなかった。
ただマルケスの尋問も巧妙であったし、彼がこの国の最高意思決定機関の一員であることも影響してはいた。また彼女の判断力や精神的体力を衰えさせるほどに、兄の恐怖にゆがんだ表情が衝撃的であったのだろう。
「アンナ、君はここのところ、思い詰めすぎているようだ」
「マルケス議長」
「君の苦悩の種は、あの盲人だろう」
「いえ、そのようなことは」
「隠さなくていい。君の顔にはっきり書いてある」
宮殿の廊下で静かに詰め寄られたアンナは観念し、マルケスを別室に招いた上で真実を話した。クイーンの暗殺現場にあの盲人が居合わせたこと、クイーンが彼を術者だと証言したこと、彼自身が自分を術者だと名乗ったこと、そしてアンドレアの恐怖と、調査隊の報告。
マルケス議長は愕然として、蒼白な顔を窓の外に向けた。どんよりと暗い雲がかかっていて、今にも雨が降り出しそうであった。
「すぐ、殺すべきだ」
殺す、とはなんと過激で不気味で思い切った響きの言葉であろう。アンナは思わずマルケスの正気を疑った。
「本気ですか、議長」
「無論、正気だ。考えてもみたまえ。術者はこの世界を一変させるほどの力を有している。実際、彼は武器も使わず、知恵も使わず、ただその思念だけを用いて、一瞬でその場に居合わせた者を殺害したのだろう。彼がその気になれば、さらに恐ろしい天変地異も現出できるに違いない。そのような者の理性や自制に頼って暮らそうというのか。あるいは我々に管理できると思うのかね。知恵者が揃っていながら、彼を殺そうと言い出す者がいなかった方が、私には不思議でならないよ」
「しかしこの国の教えでは、術者は本来、神聖たるべき存在です。議長も、この国の成り立ちについてはご存知でしょう」
「私はいやしくも陛下の政治の師を務めていたのだ、当然知っている。だが術者が現実に目の前にいるとなれば、行動原理も変わるさ。君も君の兄同様、彼を殺すべきだと実は思っているのではないかね。だからそのように悩むのでは?」
言われると、アンナも言下に否定できるほどの自信がない。だから、術者を殺すことに賛成もせず、参加もしないかわりに、止めることもしなかった。
「分かった。君に協力を求めない。立場もあるだろうし、君の忠誠心に揺らぎが生じるのも好ましくないだろう。私が密かに動くから、君は君の職務をただ淡々と粛々とこなしていればよい」
アンナは自分の軽率さゆえに事態が急激に転回しつつあることを感じていたが、しかしその流れに抵抗することもしなかった。
彼女はそれから数日間、最も共犯に近い傍観者として、術者の身に関する悲報を待つこととなった。
犯罪者とは犯行後、このような気持ちで事態の推移を見守るものなのだろうか。
暑く、寝苦しい夜が続いた。
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