第4章-④ 恐るべき正体

 ロンバルディア教国の王宮たるレユニオンパレス。

 その宏壮な建造物には東西南北それぞれに門が設置されており、国都アルジャントゥイユのメインストリートに正対するいわば大手門であるのが南門。

 外国使節の受け入れなど主に外交儀礼用に使われる東門。

 陸上貨物の出入りに供され、王宮への物資搬入出や国内あるいは外国との輸出入のための西門。

 そしてアリエージュ川に水門で直結し、海外交易の拠点及び真水の供給源である北門である。

 このうち、王族の出入りに用いられるのは必ず南門となっている。

 新女王たるクイーン・エスメラルダも無論そうで、彼女の場合は街の雰囲気や市民と接するのを喜び、外出の度に季節の変化や街の繁華な様子を眺めたり、市民と立ち止まって話をしたり、子供と戯れたりなどして過ごすことが多かった。彼女の顔と名前がまださほど知られていない頃は、第一王女の身分でありながら、エミリアひとりを連れしばしば市街を微行びこうしていたというのは、国都に住む者のあいだでは有名な話である。

 (花売りの仕事をしてみたい、と言い出したこともあった)

 ちょうどその花屋の前を通りかかって、エミリアはふと幼い頃を回想した。

「なるべく、プリンセスの意向に添えるよう動くように。彼女の好きなようにさせてやりたい」

 当時の女王、つまり新女王の義母から直接、そのように教育方針をたまわっていたので、エミリアも基本的にはプリンセスの願いを叶える姿勢で支えていたわけだが、さすがに街に出て働いてみたい、という希望には絶句し、反対した。

 なるほど貧家の子や実家が商売をしている子なら、幼くして働いている子供も少なくない。プリンセスは孤児の育ちなので、自立心が強いということもあるだろう。

 しかし王女が街の花屋の手伝いをするわけにはいかない。

 エミリアが理を尽くしてさとし、高貴な身分であることの自覚を促すと、まだ幼いプリンセスはみるみる涙を浮かべたものであった。下唇を噛み締め、涙の雫がこぼれるのを懸命にこらえていた。

 ここでプリンセスを格別に英明だと思ったのは、彼女は理があると知れば、納得した上で自分の感情をうまく制御できるという点にあった。子供であれば、我を通すため、あるいは不快感を発散させるために感情を爆発させることが多い。しかし彼女は自分の感情よりも理性を優先させる冷静さと反対意見を受け入れる度量とを、幼いうちから持っていた。

 そのあたりが、エミリアにしばしば率直な諫言かんげんをさせることにもつながった。エミリアはプリンセスに異見する際、感情的にしりぞけられたり、忌避されるといったことを危惧したことは一度もなく、あるいはこれは支えるべき主君を持つ者としては稀有なことではないか、と思うことがある。

 (思えばあの頃から、この方は人の上に立つべき特別な魅力と資質を備えておいでだった)

 さて、エミリアのふとした回顧の過ぎ去る間に、隊列は厳しい警護のもと、南門をくぐって宮殿の内郭へと進んだ。

 近衛兵団と文武の重臣が出迎えている。

 正式の女王として、初めての王宮である。例によって歓迎の集団に丁寧に挨拶していたが、途中で留守を預かっていたヴァネッサ近衛兵団副兵団長が割り込み、急を要する案件ということでクイーンのほか、エミリアとアンナのみを名指しで会談を願った。

 用件を聞かずとも、エミリアやアンナには予想のつくものがあった。クイーンもそうであったろう。

 早足で談話室へと入り、すぐに密談が始まった。

「アンドレアが、クイーンお探しの盲人を連れて戻りました。貴賓きひん室に通しております」

「それは重畳ちょうじょうでした。早速お会いしたいです」

「その前にお耳に入れたいのですが、少々、複雑な背後関係があるようです」

「どういうことでしょうか」

「実はアンドレアの話では…」

 クイーンはヴァネッサからあらましを聞いて、表情を硬くした。もっとも、明敏な彼女も、まさか自分が盲人を探させたことで、彼の身に災いが及んだものとは想像もしていない。

「エミリアとヴァネッサは私とともに彼に会ってください。アンナはアンドレアと面会を」

「承知いたしました」

 レユニオンパレスには貴賓室が大小15あり、盲人にあてがわれたのはそのうち最も小さなタイプである。広くはないが、一国の王宮らしく贅美ぜいびを尽くしていて、寝具や什器の類も洗練された高級品ばかりである。

 だが、盲人にはそのもてなしも見えない。それらの美しさはすべて人の視覚に訴えるものであったし、ベッドのやわらかさも、部屋の隅に尻餅をついてそこから離れようとしない彼にとってはまったく無意味であった。

「クイーンがご帰還されました。御前ですので、改められますよう」

 ヴァネッサの声に、盲人は顎を上げて反応したが、立礼しようとはしない。ヴァネッサがさらに促そうとすると、クイーンは無言で抑え、自ら近寄り膝をついて盲人の横顔を丸い瞳でしげしげと眺めた。

 やや憔悴しょうすいの色が見られるが、その鼻筋や形のよい唇には、どことなく貴種を感じさせるような品性と知性が宿っていた。紅茶のような鮮やかな色合いの髪、そして白いさらしで目元を覆った姿が、彼の最大の特徴である。

 まぎれもなく、あの時に不可思議な術で窮地を救ってくれた盲人だ。

「こんにちは」

 あふれるような好奇心を、気遣いのオブラートで包んで、静かに呼びかけた。

「こんにちは」

 素直な反応が、乾燥した声で返ってきた。

「私は、女王のエスメラルダです。あなたに初めて会ったときは、王女でした」

「女王様。僕はサミュエルです」

「サミュエルさん、あの時あなたが私を守ってくれた。そうですね?」

 エミリアとヴァネッサは緊張し、眉根をわずかに寄せた。クイーンの質問は、彼女らの知りたいことについて、あまりにも核心をついていた。

 しばらくの沈黙のあとで、サミュエルは明瞭に、さらに踏み込んで肯定を示した。

「そうです。僕がやりました。その、術を使って」

 さらに沈黙の時間が流れた。エミリアからもヴァネッサからも、クイーンの背中しか見えない。息の詰まるような苦しさのなかで、両名とも利き腕を剣のそばに引き寄せている。おとぎ話がそのすべてではないにしろ真実の一端をとらえているとすれば、術者は正邪善悪いずれであれ、恐るべき力を有している。その認識が、無意識に彼女らの警戒心を増幅した。一方で、この育ちのよさそうなだけの頼りない青年が、世界に恐怖をもたらす術者はおろか、自然の摂理をはるかに超越した能力のひとつとして備えているようにも見えないのであった。

 静寂の空間を破ったのは、サミュエルの方であった。

「女王様」

「はい」

「僕は術者です。術者は生きているだけで、人に災いをもたらす存在です。だから、僕と姉はずっと、人と深く関わないように生きてきました。もしあなたも同じように思うなら、僕を殺してください。あなた達に術者であることを知られた以上、誰かにとって恐怖や災厄ををもたらす存在として生きていたくはありません」

「あなたは、誰かに恐怖や災厄を与えましたか?」

「えっ」

 少し考えて、いいえ、と彼はやや困惑した風でぼそりと返答した。

「それなら、私はあなたを傷つけることは決してしません。あなたが誰かにとってよい人であるなら、今度は私があなたを守ります」

「僕を守る……?」

「そうです。身寄りがないなら、いつまでもお客様としてこの宮殿にいらしてください。もし、以前のように世俗を離れて静かに隠棲したいのであれば、そのように計らいます。何か仕事をされたい、別の国に旅立ちたい、あるいは自らの術を世のため役立てたいということであれば、お助けする方法を考えます。ひとまず、明日は私の即位セレモニーがありますので、あなたもぜひ立ち会っていただいて、ゆっくり考えてみてはいかがでしょうか」

 エミリアもヴァネッサも、そして提案されたサミュエルも、一様に口をやや開き、その頓狂とんきょうとも言える表情を改めるのに時間を要した。クイーンはこの盲人との関係構築において、恐怖でも信仰でもなく、純粋な畏敬をもって共存したがっているようだった。しかも共存のあり方は、盲人の望むようにするという。

 サミュエルはしばらく呆然としていたが、やがてクイーンとの会話を通じて生来の理知を取り戻し始めたのか、小さな声ではっきりと答えた。

「分かりました」

「お食事をされていないとお聞きしました。今日は宮廷のシェフが私の大好物のラザニアを調理してくれるそうなのです。ラザニア、お好きですか?」

「はい、好きです」

「ではサミュエルさんも召し上がってください。あとで近衛に届けさせます」

「ありがとうございます」

 決して明朗溌溂はつらつとは言えないが、問いかけや提示に対して素直な反応を示すようになってきている。ほとんど精神的死人と化していたことを思えば、見事な回復ぶりである。

 クイーンのまぶしいような笑顔を見た者はいなかったが、サミュエルにはそれが目で見る以上に明瞭に察せられた。

 同じ時間、近衛兵団長のアンナは兄で部下でもあるアンドレアが押し込められている営倉を訪ねていた。営倉はいわば懲罰室で、王宮敷地内の近衛兵団屯営はもとより、メインパレス内にも一室設けられている。

 地下の独房で、意図的に暗く、狭いつくりになっている。

「兄さん、大丈夫?」

 聞いた話ではアンドレアは酒に酔って街で騒動を起こしたとのことだが、平素あまり酒を好まないので、ずいぶんと珍しいことではある。営倉入りの処分を受けるなど、兵団長である彼女の顔に泥を塗ったも同然だが、アンナは名誉や体裁にあまり頓着とんじゃくしない性格で、それよりもこの凡庸だがお人好しの身内の心理状態が心配であった。

 営倉の小さな入り口をくぐって出てきた兄の目は濁り、終始うつむいて陰気な様子である。

「大丈夫?」

「アンナ」

 酒はとうに抜けているはずだが、兄の声色はまるで酒に酔ったように不安定だ。

「術者は実在した。あの力は神話の通りだ。術者がその気になれば、人間の命など芥子粒けしつぶのように簡単に吹き飛ばされるだろう」

「例の術者は、姉を失って自失しているとか」

「あぁ、あれは抜け殻だ。だから怖いのさ」

 失意や絶望が、悲嘆を憎悪に変え、破壊や殺戮の衝動へと成長させることがある。兄はそれを恐れているらしい。

「お前も、あの死体を見ればきっと同じ思いを持つだろう。俺はあんなやつと数日間ともに過ごした。ほとんど眠れなかったよ。あんな殺され方をするくらいなら、俺は犬にでも食われて死んだ方がましだ」

「そんなに」

 兄のただならぬ様子に、アンナもさすがに慄然りつぜんとした。兄は能力は確かに平凡だが、人柄は本来、明るくて面倒見がよい。お調子者で大言壮語も多いが、それだけに物事に対して楽観的であることが多い。

 その兄をして、これほど恐怖せしめるとは、どれほどの能力を持っているのか底が知れない。

「個人的な恨みや憎しみはないし、少なくとも今のところは害になっていないが、もし俺にクイーンへの助言が許されるなら、密かに彼を殺すことを提案する。だがこんなことはお前以外に話せない。だから帰ってくるのを待っていた」

 兄妹でともに育っただけに、兄の気持ちが自分の心にくっきりと投影されたように明白に把握することができた。兄は術者を恐れている。単なる信仰上の畏怖ではなく、術者の力を目の当たりにした者の恐怖である。術者全盛の頃、人が術者を恐れて暮らしたのに近しい感情を、兄は持っている。

 その心中を真に共有できる相手もなく、孤独と恐怖に耐えかねて、酒を飲みに行き、醜態をさらしたのであろう。

 アンナはにわかに哀れに思って、兵団長よりは妹としての立場と心情で、

「例の術者の家には、ヴァネッサが既に人をやったと聞いてる。兄さんは少し兵舎で休養した方がいい」

「あぁ、そうする」

 去り際、兄は病的なまでに不安げで神経質に尖らせた目で、彼のたったひとりの妹に訴えた。

「奴を放置すれば、いずれ術者はまた世界を破壊する。それだけの力がある。俺たちはそんな奴のすぐ近くで暮らしてきたんだ。戦争だの内乱だのにかまけている場合じゃないぞ」

 いつもタフで精神的な弾力性と活力を欠いたことのない兄とは思えない言葉だった。

 遠ざかる兄の背中が、丸く、小さい。

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