第4章-① 戴冠の儀
8月2日、朝。
この日の衣装は
しかし無論、機能としてはただの杖でしかない。
持ち主に、かつて術者が持っていたような神通力が与えられるわけでもない。術者にとっての杖は、いわば己の思念を術として外界に放出するための媒介であるに過ぎず、術者でない者が杖を持っても無意味だし、逆に術者は杖などなくても念じれば術を具現化できる。
その意味で、杖はあくまで象徴であるに過ぎない。
新女王のそばには、特別な様式でつくられたジュエリーボックスを持つ神官が常に控えていて、その箱には門外不出とされる七玉が安置されている。
権杖と七玉をもって戴冠に必要な神器とするため、女王即位は必ずカルディナーレ神殿で行わなければならないわけである。
拝謁のあと、臣下は全員、神殿の大広間である聖堂に移り、新女王の入来を待つ形式をとる。
控えの間には新女王たるプリンセス・エスメラルダと、神官長のロマン女史、神殿騎士団長ランベール将軍、近衛兵団長アンナのみが残っている。
「緊張しておいでですか、プリンセス」
ロマン神官長が、静かに声をかけた。
新体制における人事はすべてプリンセスの即位以降に正式に発効となるが、神官長と神殿騎士団長に関してのみは、前任者のジルベルタ女史の引責辞任という性質もあって、既に引継ぎが完了している。
新女王の即位にあたって、まさにこれから退任するという者が戴冠を取り仕切るのは外聞からしても差障りがあるとの意見が多かったゆえである。
神官長のロマン女史は、「仮面の女」とも評されるように、およそ人前で表情を変えたことがなく、頭には常にフードを着用しているために髪の色さえうかがい知ることはできない。整った
プリンセスは、珍しいことにともすれば硬くなりがちな顔の筋肉をほぐすように、特徴的なまぶしげな笑みをこの信頼すべき女史に向けた。
「ありがとう。少し、緊張しています」
「当然のことです。しかしどうか安堵なさいますよう。儀礼やしきたりはあくまで手本であって、それがすべてではありません。殿下の真心と敬意のまま、謙虚にお振舞いになれば、それが新たな手本となります。ご心配は無用ですよ」
相変わらず水のように無表情であったが、その奥にあるあたたかい気遣いを心強く思ったか、プリンセスはゆっくりと頷いて、呼吸を整えた。
「それでは参りましょう。私とランベール将軍が先に参ります。殿下はその少しあとから、ゆっくりとお越しください。あとは打ち合わせのままに」
「分かりました。よろしくお願いします」
静まり返った大聖堂に、ヒノキの杖を持ったロマン神官長と、七玉と権杖を捧げ持ったランベール神殿騎士団長が現れた。さらに一拍置いてからプリンセスが姿を現すと、場内に高揚と感嘆を伴う言葉のないざわめきが広がった。プリンセスをよく知る者も、あるいは知らぬ者も、彼女の聖女のような美貌を否定することはできまい。そう確信させるほどの、気高く光輝に満ちた新女王の姿である。
聖堂には王宮からの随員に神官を含めて200名ほどが、直立不動でプリンセスの一挙手一投足を見守っている。採光が抑えられたやや薄暗い大広間は厳粛な空気が満ち、その正面壇上にロマン神官長が立って、プリンセスと相対した。物静かな女史にして意外なほど、力強く
「これより汝エスメラルダに、天に代わり我が身を器とし、導きを行わん」
プリンセスは
これはかつて術者エルスが、想い人たるセトゥゲルに術を授けた導きの場面を再現している。女王になることはすなわち術者になるということ。たとえ名目とはいえ、あの歴史的瞬間を模倣することこそが、この国とこの国の教えにあってはつまり戴冠を意味するのである。
ただ、無論異なる点も存在する。
ひとつは時間で、かつては小一時間ほどもかけ、新たな術者の目覚めまで根気強く待ったものだが、現在では単なる儀式でしかないので、数十秒で導きは終わる。
そしていまひとつは、導きが終わっても、新たな術者には神通力など与えられないということである。長い年月が経過するなか、術は権威化されるとともに形骸化されていった。つまり新女王に術者としての力などは微塵もない。だからこそ、先代女王からの直接の導きでなくとも、ロマン神官長が代理者として導きを行うことができるのである。
そのロマン神官長がゆっくりと手を引き、満堂に響きわたる明瞭な声で新女王の誕生を祝した。この時をもって、エスメラルダはロンバルディア教国第66代女王となった。
「汝エスメラルダに天意を認め、ここに王位を授く。慈悲にていたわり、冷徹に見よ。威厳のもとに行い、情愛に生きよ。野心に惑わず、勇気に戦え。もって、いよいよ山河を平らかとし、万民を休んぜよ。女王エスメラルダに天の加護と地の祝福あれかし」
水を打ったような静けさのなかで、新女王は
「臣下のジョシュア・ランベールが、女王陛下に忠誠を誓います」
地響きのするようなたくましい声が発せられると、満場が続き、熱狂的とも言える喝采が鳴り渡った。新女王は彼女を讃え祝福する輪のなかを絶えず移動して、参加した全員へ丹念に挨拶していった。
最後に、エミリアと話した。
エミリアにとっては、改めて忠誠を誓約するまでもないことであった。
彼女が新女王に対し口にしたのは、別のことである。
「いよいよですね」
「ありがとう、エミリア。私はまだ半人前です。あなたがいないと」
「無論、おそばにおります。あなたはお一人ではありません。臣下一同、あなたをお支えします。どうか忠臣を用い、頼られますよう」
感極まったのか、新女王は目を潤ませ、その雫が頬にこぼれぬよう懸命に
儀式はほどほどに、昼からは祝宴に移る。
ここでもやはり戒律によって酒は提供されないため、酒豪であるコクトー将軍などは儀礼的な雰囲気に少々居心地の悪い思いをしたが、全体としては終始和やかに親睦を深める場となった。
夜、新女王はさすがに疲れがあるのか早々に部屋に引き取ったので、エミリアも隣室で体を休めていると、睡魔より先に彼女の主人が訪ねてきた。
「エミリア、私です」
跳ね起きて迎えると、廊下に灯されたろうそくの明かりに示されて、白い寝衣をまとったその人の姿がある。
「いかがされましたか」
「少し、よろしいでしょうか」
「もちろんです、お入りを」
警護の近衛兵に素早く目配せを残して、エミリアはドアを閉めた。
「エミリア、あなたとお話がしたくて。お邪魔ではなかった?」
「そのように他人行儀な遠慮はされませぬよう。私の部屋は、あなたの部屋でもあります。いつでも遊びにおいでください」
新女王は、心の底から嬉しそうに、満面に笑みを浮かべて、
この方には、この方を支えようと懸命に力を尽くす臣下が大勢いる。有能な者、忠義にあふれた者、勇敢な者、智謀に長けた者、多くの人材が集まり、これからも集まるであろう。ただ、できることならそのなかでも、最も近くでこの方をお助けしたい。
エミリアにとっての、それが本望である。
「神殿のお食事は少し肩が凝るわね。それに味気ない気がするわ」
「そのわりには、きれいにお召し上がりでしたね」
密室で二人になると、互いに主従の鎖がほどけるようで、自然と
新女王が初めてプリンセスと呼ばれた頃から、彼女らは互いの寝室を行き来し、ときに深夜まで語り合った。プリンセスが単独で臣下の部屋を訪ねるのもエミリアだけであるし、プリンセスの寝所に臣下を招き入れるのも、エミリアのみであった。寝室でプリンセスと二人だけになる、ということ自体が、宣言も明文化もされてはいないが、エミリアだけに許された特権なのである。
このため、畏れ多いことながらプリンセスとマルティーニ兵団長は同性愛の仲である、という噂が
新女王は、エミリアがつい先ほどまで横になっていたベッドに腰掛け、ポンポン、と軽く叩いた。隣に座って、という意味である。少女が家族や友人に対してするような、親しみの込められた動作だ。
エミリアはその通りにした。
「エミリア、先日のこと、本当にありがとう。私はあなたに感謝してもしきれないわ。私のために、大怪我をさせてしまって。私はあなたのためにとてもつらい気持ちよ」
「かたじけないお言葉です。しかし私は、あなたをお守りして負傷したことに、後悔はしておりませんし、むしろ誇らしい気持ちでいるのです。それに、あの叛乱そのものは国にとって由々しい事態でしたが、結果としてあなたの新しい国づくりに益するとも思えるようになりました」
「それは?」
「内乱の鎮圧を通して、あなたの指導力が発揮され、文武百官も臣民もあなたに従い、王権が強化されるようになったためです」
これは疑いようのない事実であった。今や文武百官に新女王の才幹と器量を疑う者なく、誰もが従順に服している。新体制を確立するにおいて、新女王が自在に手腕をふるう下地がつくられたと見るべきであろう。
「みんな、私についてきてくれるかしら」
「誰もが、あなたについていくことでしょう」
「ありがとう」
エミリアの自信と励ましに安堵したのか、新女王は幾分表情を明るくした。
「ね、ところで例の術者のことが気になっているの」
「アンドレアが行方を探しておりましょう」
「王宮に戻ったら、もう見つかっているかしら」
口調から察するに、例の盲人を術者だと完全に思い込んでいるようであった。エミリアが刺客から主人をかばい、昏倒したあとに駆けつけて、術を用い守ってくれた、とそう聞いている。
軽々には信じがたい話であるが、いくら切羽詰まった状況とはいえ、聡明な新女王が錯乱のあまりおとぎ話を信じて術者が実在する、などと言い出すとも思えない。そもそも術者が存在するなどいかにも突飛な話で、その意味では逆に真実味がある。
エミリアには分からない。彼女は毒矢を受けて人事不省に陥っており、そのとき何が起こったかを見届けていないからだ。
しかし彼女には術者の存在そのものと同じほどに、気になっていることがあった。
術者が実在し、その者を発見したとして、どうするか、ということである。
術者が、もし伝説で語り継がれているような能力を持って、領内を歩き回っているとすれば、これは驚天動地の話である。
その存在が、国やあるいは民衆にとって益になるのか、それとも害になるのかさえ定かではない。大いなる力で我々に
どのように遇するべきか、新女王の考えが知りたかった。
ただそれを尋ねても、問われた側に明確な答えがあるわけでもなかった。
新女王は、エミリアには素直に胸の内を打ち明ける。
「どうしていいのか、私にも分からなくて。でも私の命を助けてくださったのは事実よ。だからきっとあの方に敵意はないし、私もあの方を敵視する理由はないと思うの。むしろ命の恩人に、何かお礼がしたいわ。けど、そのあとはどうすればいいか分からない」
新女王は
なるほど、新女王を生死の瀬戸際から救ったという意味では、彼に悪意や敵意はないであろう。恩人に会って礼がしたいというのも当然と言える。しかしそのあとについては、皆目見当がつかない。もとの一市民としてひっそりと生活を送れるようにしてやるのか、術者の存在を公表して
何事につけ果断の人である新女王も、この命題には悩みが深いようであった。恐らく、正解はない。術者の行いが、伝説世界をたどり振り返って絶対善でも絶対悪でもないために、その扱いについて明確な回答を歴史が示せていないのである。
おとぎ話の主人公や登場人物に対して、解釈する者によって様々な見地が存在するのと同様である。
考えるうちにやや混乱したのか、出し抜けにエミリアの右手を握って、新女王が問うた。
「どうすればいいと思う、エミリア」
「あなたが熟慮された上でのご決断なら、私はそのご決定を支持します」
言いながら、少し違うな、とエミリアは思った。
これまでは、護衛役、世話役として、王女である彼女を盾として守り、常に支持者でいることを示して勇気づけておればよかった。いや無論、実際にはエミリアの冷静で客観的な思考や判断力は王女たる彼女に影響を与えてはいたが、それは言うなれば「王女の世話係」たる次元の役割でしかない。
今は違う。「女王の腹心」としての彼女の判断を、新女王は求めているのではないか。その意味では、ただ肯定するだけでなく、自分の意見を表明せねばならないし、反対意見や代案を述べることも重要とされるであろう。
エミリアは少し表現を変えて伝えた。
「私にも、何が正しいのか、あるいは正しい答えがあるのかどうかも分かりません。しかし、あなたが信じて出した答えであれば、それはあなたにとって決して悪い結果にならないだろうと、私は思います」
伝えたいことを表現しきるには、言葉はあまりに少ない。
エミリアは思いながら、彼女の精一杯で答えた。
予想した通り、新女王はこぼれるような天真爛漫な笑顔を見せた。
自分の言葉が、この方にとってその判断を方向づけられるよう役立てられたら、それでいい。
翌朝、快晴のなかで新女王は愛馬アミスタに跨った。神殿への往路はおとなしく馬車に揺られていたが、復路は気分が大いにはずんで、自ら馬に乗りたくなったらしい。服装も、ドレスから動きやすい軽装に着替えている。
「それではクイーン。参りましょう」
「その呼び方、慣れません」
行列はクイーン・エスメラルダとエミリアを先頭に、足取り軽やかに王宮を目指して帰還を開始した。
ミネルヴァ暦1394年8月3日の朝である。
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