第4章-② ある一人の客人
国都アルジャントゥイユは、大陸西方きっての大都市であるとともに、ロンバルディア教国の政治・経済・文化の中心地でもある。
西北の都ブラックリバー、東北の都イズマイール、東南の都トゥムル、西南の都アルジャントゥイユとも
陸路では大陸他国との接続が決して便利とは言えない立地だが、アリエージュ川の水運を利用し、中継地点であるシェーヌ港を介した水上貿易がさかんで、このため特に海上航路上の隣国であるオユトルゴイ王国、スンダルバンス同盟との経済関係が強固である。
この時代、南洋貿易、あるいは三角貿易とも呼ばれたが、ロンバルディアの小麦、ワイン、銀、オユトルゴイの絹、茶、金、スンダルバンスの砂糖、香辛料、綿花といったように各国の産出品がこの貿易網を通して活発に往来している。
アルジャントゥイユのこのところの流行りは、スンダルバンス産のカカオと砂糖を混ぜて飲むチョコレートで、貴族や富裕層のあいだでは大きな人気を博している。新しいもの好きのエスメラルダ新女王も無論好んでいて、その影響で一般市民にも急速に知れ渡りつつある。
ただし、高級品である。ロンバルディア教国では自国でカカオが産出せず砂糖の生産量も少ないため、輸入に要する経費が上乗せされるためだ。
そのため、この国ではワインの方がチョコレートや紅茶よりもはるかに安価で手に入る。無論、ワイン好きにとってはその方が都合がよい。
例えば、ドン・ジョヴァンニである。
この男はその前歴からも想像できる通り、無類の酒客で、「酒と女と人殺しが奴の生き甲斐だ」と評されることもあった。その度、彼は不敵に訂正を求めた。
「酒と女は確かに生き甲斐だ。酒の方も俺に飲まれて本望だろうし、女も俺に抱かれて喜んでいる。ただ人殺しは別に好きでやってるわけじゃない。得意ではあるがね」
その言葉を聞いた者は、ほとんどが面食らったり、鼻白むのであった。
およそ態度を改めたり、口を慎むということのない男だから、新女王もよくあの男を正規軍の将軍として迎える気になったものよ、物好きも度外れている、それにあの男もあの男で宮仕えをする気になるとはどういう風の吹き回しか、底意が知れぬ、などと宮廷内ではもっぱらの噂になっている。
実際、彼が新設される遊撃旅団の旅団長となることと、将軍の称号が許されることが公表されることになっても、彼は自らの素行を正そうとはしなかった。部下に対しては面倒見が良く、訓練にも意外なほど熱心だが、同僚と付き合うでもなく、宮廷においても服装や容儀を改めるでもなく、相変わらず海賊のような姿である。また毎日のように酒を飲んでは、気に入った女を連れ込んでいる。女は若い生娘のこともあれば、人妻であることも少なくない。
新女王が
ドン・ジョヴァンニは空前の好景気に沸く国都の露店などを冷やかして回りながら、一軒の酒場に入った。ミランダというきっぷのいい若妻が営んでいて、顔馴染みになっている。
「ヴィニュマールの赤と、カスレをくれ」
「あいよ。今日は連れはいないんだね」
「ここで探すさ」
ヴィニュマールは国都の西北西に位置するブドウ農園の広がる地域で、ヴィニュマールの赤といえば最上の美酒とされている。カスレはロンバルディアの伝統的家庭料理で、ガチョウの肉と豆、野菜をトマト風味で煮込んだものである。
セレモニーの前日ということもあって、出歩く人々はまったく浮かれており、女の姿を探すのにも苦労はない。酒と料理が用意できるまでのあいだ、彼は店内を素早く物色して、美人の女連れに声をかけた。どうも母親と娘らしい。
母子ともに抱く、というのはなかなか機会のあるものでもない。
ドン・ジョヴァンニは巧みな話術とその男性的な魅力で彼女らを攻略していった。
だが、まさにその獲物を手に入れようというときに、邪魔が入った。
「酒だ!早く次の酒を持ってこい!」
店の客は全員、アルコールの臭気をまとっているが、そのなかでも特に酔っている男がいた。ひどく悪酔いしていて、しかも人目を引くのが、男は近衛兵団の黒い制服を着用しているからであった。
年は30代半ば頃であろうか。
暴れたくて飲んでいるわけではないらしい。憂いや恐れがあり、現実から逃れたいがために飲みたいようだ。いずれにしても、吉日を明日に控えて粗暴な酒を飲むのは無粋であり、鼻つまみにされる行為である。
店主のミランダが腰に手を当て、少々立腹した様子でたしなめた。
「お客さん、いい歳なんだから酒の飲み方くらい
「やくたいもない仕事を片付けたあとだ、好きなだけ飲ませてくれ」
「あんた、近衛兵だろ。そんな
「俺は近衛兵団長アンナの兄アンドレアだ。文句は言わせないさ」
ミランダもまさかこのしまりのない酔漢が近衛兵団長の兄とは信じない。バカを言え、という顔をして、放胆にもアンドレアを追い出しにかかった。ほかにも幾人かの客が迷惑がって手伝いに入ったものだから、そのあたりでもみ合いが発生し
(どうも、自暴自棄になっていやがるな)
ドン・ジョヴァンニほどに人生と酒を知り尽くした男であれば、
(仕方がねぇな)
彼はせっかくの甘い時間をともにしかけた美しい母子に別れを告げ、騒ぎの仲裁に入った。
「おいおい、面倒かけてすまねぇな。こいつは俺っちの顔見知りでな、すぐに頭を冷やさせるから許してくれや」
と言い謝罪の意味を込めて金を多めにミランダに渡し、酔っ払いの首根っこを掴み上げるようにして店を出た。
アンドレアも抵抗したが、酔っているために思うように抗えない。彼は捕獲された虫のような他愛なさでレユニオンパレスへと連行された。
アンドレアは近衛兵とはいえ王宮の門番を務めたことがないから顔を知らなかったのだが、ドン・ジョヴァンニはれっきとした将軍としてレユニオンパレスに出入りできる。彼はわざわざ王宮内にある近衛兵団の詰所まで酔っ払いを引っ張り込んで、引渡しを願った。
詰所にはたまたま、ヴァネッサ近衛兵団副団長がいた。彼女は不在のアンナに代わって、王宮の警備責任者を任されている。
「よぉ、こいつが酒場で問題を起こしてたもんで、連れてきた。話を聞いてやってくれ」
彼が自分の部下を放り捨てるように乱雑に寄越したものだから、ヴァネッサは表面上は儀礼を保ちつつ、鋭い目線を返した。彼のことを気に入っていないというのがありありと伝わる態度であった。
だが、ドン・ジョヴァンニはそんな彼女を嫌っていない。生意気ざかりで活きのいい娘という印象で、むしろ可愛いくらいだ。そのうち抱いて、男を教えてやってもいいとまで思っている。
「どういうことでしょうか」
「こいつが酒を出せとごねてたのさ。店主やほかの客と揉め事を起こしてたんで、引き取ってきたというわけだ」
「それはお手数をおかけしました」
ヴァネッサは機械的に礼を言って、すぐにアンドレアに視線を移し、無慈悲と表現してもよいくらいの冷たさで命じた。
「クイーンと兵団長のお帰りまで営倉入り。連れてゆけ!」
「おい、ちょっと待て。男が深酒をするのには理由ってもんがある。せめて弁明くらいさせてやってくれや」
「ご意見いただきありがとうございます。あとは近衛兵団にて処理します。私は職務がありますので失礼します」
有無を言わさぬ対応で、ヴァネッサは立ち去った。
ドン・ジョヴァンニとしては、この近衛兵団長の兄を名乗る男が
だが、責任者にこうも突っぱねられた以上、彼の出る幕はない。両脇を同僚に押さえ込まれ連行されるアンドレアを見送ってやることしかできなかった。
ヴァネッサはドン・ジョヴァンニを追い返したあと、むかむかと湧き上がる不快感をどうにか落ち着けて、王宮の客室のひとつを訪れた。ノックしたが、客人は返答しない。
丁重に一言断ってから、ヴァネッサは部屋に入った。
広い室内を見渡し、テーブルの上に残された食事を確認して、小さな吐息を漏らした。この宮殿にやってきて以来、食事に一切手をつけていない。このまま何も食べない気ならば、衰弱してやがて死ぬだろう。
さらに見回すと、客人はベッドの横で両膝を抱えて座っている。
ヴァネッサの知る限り、彼はこの部屋でずっとその姿勢であった。
「お食事をおとりください。お体に
ドン・ジョヴァンニに対するよりは幾分やわらかい声で、自重を促すと、
「食欲がなくて。すみません」
小さくか細い声が返ってきた。水もわずかしか飲まないから、喉が渇いているのかもしれない。しかし、口をきいてくれるだけまだよかった。
王宮に入ってからしばらくは、何をどう話しかけても、うんともすんとも言わなかったのである。
彼を連れてきたアンドレアから話を聞いたが、心中ひどく混乱しているらしく話が要領を得ない。苦労して聞き出した話は、次のようなものである。
アンドレアは妹でありかつ近衛兵団長として彼の最上位の上官であるアンナから命令を受領して、人探しの任務にあたっていた。若い男の盲人であるという。
「あ、それはクイーンが術者であると言っていた者のことではないか」
アンドレアからの事情聴取の際、その言葉が喉まで出かかった。さらに聞くと、驚愕すべき事態があの盲人の身に起こっていた。
ファエンツァの町で地道な情報収集を続け、盲人が住んでいるという山林に足を踏み入れ、
悪夢を見ているような心持ちでさらに近寄り壊れたドアから進むと、血まみれの人体がいくつも転がっている。そのすべては息絶えているであろうことは、確認するまでもなかった。
ほとんどは頭部から大量に出血している。鼻や耳、口からも出血があるが、血のほとんどは頭の中から頭蓋骨を突き破ったようにして飛び出た痕跡がある。まるで、人の頭が内側からの圧力に耐えかねて爆発したような、すさまじい死に様だ。
いや、ひとりだけ生存者がいる。
死にかけているような状態だが、確かに息をしている。盲人だ。
アンドレアはぎょっとした。彼は決して明敏な人物ではなかったが、この男が術者であることを悟った。なるほどプリンセスは盲人の術者を探せと命令した。それはおとぎ話だ、プリンセスほど聡明な方が何を言い出すかと思ったものだが、術者はこうして実在したのである。
でなければ、この状況の説明がつかない。床に散らばっている死体はすべて、この術者が皆殺しにしたのであろう。
アンドレアは足が震えるのを自覚しながら、努めて冷静に尋ねた。
「おい、しっかりしろ。怪我はないか。どこか、痛むところはないか」
盲人は精神病患者か、あるいは一種のショック状態なのか、何を話しかけても
小一時間、アンドレアは水を飲ませて落ち着かせたり質問を工夫したりして彼の知りたい最低限のことを聞き取った。
まず、周囲の死骸は彼が術によって死に至らしめたものだと白状した。
(やはり術者だったか)
彼は
さらに聞いた。彼の最も近くにある死体だけ女性で、しかもほかの男どもとは異なる死に方をしている。刃物を手に持ち、自殺をしたものであるらしい。とすれば、町の噂で聞いた、これが
しばし呆然としてから、彼はふと自身に課せられた任務を想起した。少々、思っていた状況とは違うが、彼は探していた人物に巡り会えたことになる。
命令では居所を探し、報告せよ、ということであったが、この盲人を置き捨てて帰るというのもどうもおかしい。
アンドレアは
「実は、プリンセスが君を探している。俺と一緒に宮殿に行こう」
君を助けたい、と言ったが、盲人は
「よし、俺が担ぐ。君もついてこい」
そう言って、アンドレアは魂の抜け殻になった遺体を背負った。後ろから、盲人がとぼとぼと杖で足元を確かめながらついてくる。
やがて、薄暗くなり始めた空のなかで、盲人は泣き始めた。泣きじゃくる、という表現がふさわしい、子供のような泣き方であった。
アンドレアはファエンツァの町へ戻り、聾者の姉の遺骸を葬り、また盲人を馬車に乗せてともに宮殿まで帰還したが、押し込み連中と彼の姉が死んだ現場の光景が忘れられず、戻ってすぐヴァネッサ宛に一時休暇を願い出た。
ヴァネッサは話を聞いたが、彼女はもともとアンドレアの性格や能力をあまり信頼していない。半信半疑で聞いた。だから、未だに盲人が術者であることについても疑っている。
ただ、術者であることの真偽がいずれにしても、彼女にこの件で主体的に動く権限はない。
アンドレアに術者の捜索を命じていたのは意外であったが、クイーンがそこまでこの盲人に執心であることも存外であった。
とにかく、今はクイーンと兵団長の帰着までこの若者を保護しておくことしかできない。主君の探し人であるから粗略にはできないが、扱いやすい客でないことは確かであった。
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