第2章-① 戦場へ

 聾者ろうしゃの姉と、盲人の弟。

 二人は情報伝達の手段として、指文字という手段を用いている。お互いの掌に指で文字をなぞり、それで情報を伝達し合うのである。

 耳と目という、お互いに重要な器官を欠いているため、時間はかかるがそのようにしてコミュニケーションをとるしかない。

 プリンセスの襲撃事件があった日、二人は深夜まで話をした。

 主に、姉が追及し、弟が弁解するという構図である。

 サミュエルが、リンゴとラズベリーと残りの稼ぎを持って帰宅したとき、姉は血相を変えて待ち構えていた。彼にはその表情は見えていないが、息遣いですぐに心理が読めた。理由は分かる。

 彼が、術を使ったからである。

 彼らのあいだで、術は絶対に使ってはならない、という取り決めがある。それを破ったことが、姉に知られたのであろう。同じ術者なので、至近で強い思念を放出すれば、容易に察知できる。

 この姉弟、姉が風の術者、弟が光の術者である。神の皮肉か、あるいは力の代償か、耳の聞こえない姉は音を司る風を操り、弟は光の恩恵を受けながらも目が見えない。

 彼らは自らが術者であることを隠し、生きてきた。彼らだけではない。彼らの親も、その親も、何世代、何十世代と素性すじょうを隠して生きてきた。社会に溶け込み、だが溶け込みすぎないよう、距離をとりながら、生活を営んでいたのである。

 そして何より、術を人の前で見せてはならない。

 当然であろう。術を使えば、人々は大いに騒ぐ。術者を信奉し、その力にひれ伏す者と、術者を危険視して殺そうとする者が現れる。引き起こされるのは人間同士の殺し合いである。歴史がそうであった。術者の存在は、社会を混乱させ、破局へと向かわせる。かつて、術者エルスの過ちとその導きを受けたセトゥゲルの罪によって、まやかしの術者が世に蔓延はびこった。結果、「滅びの鐘」が鳴り、世界は恐怖と殺戮の危局に陥った。

 彼らの術は、決して世に出てはならない。これは何より優先されるべき鉄のおきてである。

 しかし、サミュエルの考えは少し違っていた。

 彼は、この国の王女を、刺客の凶刃きょうじんから守った。確かに術を使いはしたが、人助けであるし、正しい行いをした。正しい目的のために術を使うことが、それほどに禁忌とされねばならないのだろうか。

 リリアンは、あらゆる学問に精通し、比類ない賢者であるはずの弟の、一面、救いがたいほどに愚かである部分がたまらなく苛立いらだたしかった。

 王女を守ったといえぱ聞こえはいいが、結局のところそれは、分裂した勢力の一方に加担するということなのである。

 加担すれば、利用される。王女は彼ら術者の存在を知り、その力を欲して協力を求めるかもしれない。そうなれば、術者が再び歴史の表舞台に出てしまう。

 また、分裂したもう一方、反王女派勢力は、彼らの抹殺を企図するかもしれない。それどころか、術者の再来を報道し、その危険性を喧伝けんでんして、彼らの逮捕・殺害を呼びかける可能性がある。聾者の姉と盲人の弟など、目立つからすぐに発見される。

 この天地に、身の置き所がなくなってしまう。

 その程度のことが何故分からないのか、と姉リリアンは発狂せんばかりに弟を責め立てた。

 弟としては、子どもっぽい純粋な正義感から、王女を守っただけであったが、事態が彼の想像もつかぬ方向へ動き出しかねないことを知り、絶望した。

 しかしもはやどうすることもできない。

 たとえ彼ら自身の身に危険が及び、術を使わねば死ぬという状況になってさえ、術を禁忌とする姉の真意を理解した。術者が再び世に出ることの影響を考えれば、彼ら自身の死をも、甘受すべきなのである。

 術を使うくらいなら自分は死ぬ、あなたもそうあるべきだ、と言われた時の彼の衝撃は小さくなかった。

 サミュエルはすっかり意気消沈し、しばらくは町へ出るのもやめた。噂が広まっていたら、どのような事態になるか分からない。

 鬱々として暮らした。姉と二人、静かで、無味乾燥な一日の絶え間ない連続である。

 数日が経過し、退屈のあまり山林で木の実などを探し回っていると、たまたま土地不案内の商人が迷い込んできたので、道を教えてやるかわりに話を聞いた。

 プリンセスは近く、大軍を催して、叛乱勢力の討伐に自ら出向くという。

 彼は安堵すると同時に、少し残念にも思った。

 彼が助けた王女が自ら討伐の途に向かうとすれば、彼の行方を探す暇も、精神的な余裕もないであろう。その意味では、平穏で慎ましい暮らしが続く。だが逆に、彼は王女様を守ったのは自分である、という誇らしい気持ちも持っていたのだ。自分が助けた王女様に認めてもらいたいという、幼稚なまでに無邪気で純粋な虚栄心がある。

 その意味では、自分の行為によって、少なくとも自分の周囲に何事の変化もなかったことに、少々落胆してもいた。

 相変わらず、姉と二人、世界から隔離されたような山林に住まい、たまに気晴らしに町に出て、子供の面倒を見たり、人の声を聞いたり買い物をしたりといった日常に戻ることになる。

 今日も今日とて、術者ではない、ただの盲人として、彼は生きている。

 さて、彼が守ったプリンセスは、6月26日昼、大軍とともにレユニオンパレスの正門たる南門をくぐって、宮殿の南に広がるアルジャントゥイユ市街を西に向かった。

 この時のプリンセスの意匠は非常に洗練されたもので、なんと近衛兵と同じチョハと呼ばれる戦闘用の軽装を、独自にサファイアブルーの色味で仕立て、同色のマントを羽織っていた。ブーツだけは乗馬用の黒いもので、無論、自ら騎乗している。

 王族が自ら前線に立つこと自体が珍しいことである上に、馬上の人として市民の前に姿を見せることも異例であった。女王やその一族は、容易に人前に顔をさらさぬこと、権威の象徴として、また暗殺の対象となる危険があるために、移動の際は馬車を用いるのが通例なのである。

 しかし、プリンセスは馬車ではなく、馬に乗って出陣することを求めた。馬車の中から指揮されるのでは、兵の士気も上がらないだろう、というのが理由であった。

 将軍たち、特に護衛責任者のアンナ近衛兵団長代理などは困惑したが、彼女の姿を仰ぎ見た兵たちは歓呼の声を上げた。市民にも大いに人気で、プリンセスの馬上の勇姿は凛々しく颯爽としており、数日のあいだ国都ではその話題で持ちきりだったほどである。

 また、プリンセスの愛馬は東方のオユトルゴイ王国から贈呈された汗血馬かんけつばで、教国きっての名馬である。プリンセスはこの馬をこよなく愛し、友情を意味する「アミスタ」という名前を与えて、レユニオンパレスの馬場で飼育している。明るい赤褐色の毛並みが特徴の大型の鹿毛かげで、まだ幼い頃からプリンセスとともに育ち、同時に非常に気性の荒い性格でもあるので、彼女以外は決してその背に乗せようとしない。

 アルジャントゥイユ市街は、人馬ともに英雄然としたその姿を拝もうと野次馬で沸き立ち、軍はそれを縫うようにして西へと抜けた。街を出て、あとは一路北上すれば、彼らの公の戦略目標であるカスティーリャ要塞へと到着する。

 夜になってから、軍は事前の打ち合わせ通り、ドン・ジョヴァンニの遊撃部隊を残し夜間行軍に移った。これは第三師団のデュラン将軍の先導で行われ、十三日の月明かりを頼りに一晩で15km以上を踏破し、わずかな仮眠のあと翌日もさらに20km以上を進撃して、ようやく全軍の野営と、将校斥候せっこうによる大規模偵察に入った。常識外れの強行軍と言っていい。

 この強行軍に、プリンセスは常に兵とともにあった。さすがに野宿の際は雑魚寝というわけにはいかず、近衛兵団が幔幕を張って厳しく警護にあたったが、それ以外は行軍も食事も休息も一兵卒と同様の境遇に甘んじていた。かつて深窓の住人としてほとんど人目に触れなかった歴代の女王や王女とは、まるで行動基準の異なるプリンセスの姿であった。

 行軍をともにする兵は次第に、彼女に対して尊敬や憧憬どうけいを超える、信仰心に近い感情を持ち始めていた。

 プリンセスが期待したのは、この兵士たちの士気であった。叛乱軍を征討するという大義名分だけではない。戦いには司令官に対する個人的な信頼や敬愛といった情緒的なものが、士気として反映され大きな作用を生むものである。

 その点において、征討軍は神速の行軍で疲労していたが、戦意は満々で、まさに一気呵成いっきかせいと表現するにふさわしい精神状態を保っていた。

 初日と二日目の行軍は予定通り順調に進捗した。初日の日没後、本軍は北へ向かうと見せかけて、大きく進路を反時計回りに迂回。数日のうちに国都の南西方面から急進するであろうトルドー侯爵軍をボルドー街道のいずれかの地点で捕捉し、一撃して粉砕する。このまま推移すれば、すべてはその計画のままとなるであろう。

 些細な変化だが、この時点で見込み違いがあるとすれば、第一師団7,600名のうち、初日の夜間行軍を終えた時点で1,000名近い落伍らくご者が出ていたことであろう。もっとも、第三師団や近衛兵団からも、多少はこの強行軍から脱落する兵士が一定数発生していたので、この点を特にとがめる者はいなかった。事実、1,000名のうちのおよそ半数は急行軍に追いつけず、途中で落伍した者たちである。

 だが残る半数の500名は、第一師団で最も若い高級将校で「パミエの虎」の異名を持つコクトー千人長に率いられ、ひっそりと単独行動をとっていた。

 コクトーは宮殿からの出立前、直接の上官であるラマルク将軍から言い含められ、初日の夜間行軍中に味方の目をあざむき、戦線を離脱して、マジョルカバレー付近を目的地として動いている。

「貴公は、マジョルカバレーで第二師団を防ぐドン・ジョヴァンニを監視するのだ。もし彼が裏切ったら、本軍に急報するとともに、レユニオンパレスまで退いて籠城するように。仮にアルジャントゥイユ市街が焼き尽くされたとしても、決して打って出るな。本軍の救援を待て。またドン・ジョヴァンニが裏切らずとも、多勢の第二師団を相手に苦戦は必至だ。その様子を見たなら、貴公の判断で、彼を援護せよ」

 それが、将軍からの命令である。全体からすればわずかな兵力だが、事実だけ見れば重大な命令違反である。しかし将軍の部下である彼としては従うほかない。

 目立たないよう街道は使わず、森林地帯を選んで行軍し、このため暑気と湿気でずいぶんと難渋したが、5日目にはマジョルカバレーに近づくことができた。

 よほど巧妙に兵を埋伏まいふくさせてあるのか、マジョルカバレー付近に兵の姿は見えない。ドン・ジョヴァンニの遊撃部隊はほとんど歩兵であったから、伏兵には適しているが、いると分かっていても見えないというのは、神業に近い。あるいは実はドン・ジョヴァンニが裏切って、この地はもぬけの殻なのではないか、と疑わしいほどであった。

 だが、試しにマジョルカバレーの急勾配の尾根に足腰の頑健な者を登らせ、高みから望見すると、確かに伏兵が配置されている。

 マジョルカバレーは、険しい山岳地帯を切り裂くように形成された峡谷で、中央に国都アルジャントゥイユと北方の国境地帯を結ぶピレネー街道が貫き、左右は急峻な崖が続いている。交通の要所でありながら、伏兵にも適した土地であるので、古来より山賊の根城が多く構えられた。この両側の崖に兵を潜ませ、細い縦陣となった敵に巨木や巨石を投げ込み、矢の雨を降らせ、あるいは火計を仕掛けるなどすれば、容易に痛撃を与えることができるだろう。伏兵に気づいたとしても、狭く足元の不安定な尾根での戦いでは大軍を展開させることができず、少数の兵でも長期の作戦が可能であろう。迂回路は長大で、この峡谷を抜けるより7日間は余計にかかる。

 (よくこれほど絶好の地形を選んだものだ。これもプリンセスの作戦か、それとも遊撃戦の名人と言われるドン・ジョヴァンニの勧めた戦場であるのか)

 コクトーはマジョルカバレー近くの茂みで文字通り息をひそめるようにして潜伏し、戦機を待った。伏兵が配備されているなら、ドン・ジョヴァンニの裏切りはなく、計画通りに動いているのであろう。とすれば、彼の役割は友軍を援護し、第二師団と戦うことにある。

 間違いなく、長期の潜伏になるであろうことを、彼は覚悟した。

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