術士奇譚-⑨

 世に悪運というものがあるとすれば、それに最も恵まれているのがセトゥゲルかもしれない。

 彼は朝の光を浴びて、わずかに意識を取り戻した。体も動かせずにしばらくぼんやりしていたが、徐々に記憶と神経が覚醒していく。

 彼は生きていた。

「私は、生きている」

 その自覚が、セトゥゲルに一度落とした命を再び拾ったかのような歓喜をもたらした。

 体が思うように動かない。ひどい火傷をあちこちに受けていて、そのうちいくつかは深部に達しているらしく、感覚すらない。

 ひどく難渋しながら、彼は芋虫のようにもぞもぞと動いて仰向けになり、空を見た。頑丈な要塞だったが、今は建造物のほとんどが燃やし尽くされたのか、彼は露天にいた。

 視界の端で、何者かが動いた。

 三人の腹心のいずれかであろうと思い、まだまともに動く首を傾けて、姿を追った。

 そして、我が目を疑った。

 今となっては三姉妹の最後の生き残りとなった、術者アルトゥである。

 (殺される)

 死の淵に腰まで落ちて、そこからかろうじて這い戻ったばかりのセトゥゲルには、非力な女や子供にあらがう力すらも残されてはいない。相手に殺意があれば、やすやすと首を譲り渡してしまうことであろう。

 しかしアルトゥの挙動は、セトゥゲルの絶望的な予想とは大きくかけ離れていた。

 彼女は大の字で動けぬ彼のすぐそばに駆け寄り、片膝をついてこのように声をかけたのである。

「セトゥゲル様、気が付かれましたか」

 既に、セトゥゲル生来の鋭敏な洞察力が戻りつつある。彼のそばに、ムングを殺した短剣が落ちているはずだ。アルトゥに害意がわずかでもあるなら、彼はとうに息をしていないであろう。それが、このように彼の安否を気遣うような態度であるとは。

 まさか知らぬのか、とセトゥゲルの心中には再び生への渇望がみなぎった。思えば、彼女たち三姉妹に翻弄され、彼の意識は生と死のあいだを何度、往復したことか分からない。

 セトゥゲルの目を覗き込むアルトゥの顔色は、従軍が続いたためか、術を酷使してきたためか、それとも異変を感じて道を急いだためか、ずいぶんとやつれているように見受けられた。特に頬や首の肉が薄くなって、肌が病的に青白い。

 セトゥゲルは息を詰めるようにして、彼女の次の言動を待った。あくまでも彼の敵なのか、それともうまく丸め込んで味方にできるのか、見極めたかった。

「じっとなさってください」

 次にセトゥゲルが味わった体験は、彼の一生において最も素晴らしいものであると言えた。

 アルトゥが上体を折り曲げ、彼らの唇と唇が触れた。同時にわずかに開いたアルトゥの口の奥から、強い思念を伴った風が送られ、セトゥゲルの肉体はものの数秒で、全ての血肉、全ての細胞が入れ替わったかのように感じられた。先ほどまで死にかけの虫のように転がっていたのが、まるで嘘のようである。

 体力だけではない。気力もかつてないほどに充溢し、消耗していた思念さえ荒ぶるほどに満ち満ちている。

 なるほど重傷や疫病を治癒された兵がアルトゥに信仰心を抱くはずだ、と思った。これを奇跡と呼ばずしてほかにどのように表現すれば過不足ないであろう。

 セトゥゲルは起き上がり、掌を開いてまじまじと見つめた。なんと、焼けただれた皮膚の跡さえ見当たらなくなっている。

「すまない、おかげで助かった」

 少々、呆然としつつ、彼は礼を言った。

 アルトゥは風の術者らしく、慈悲深い微笑みをたたえて応えた。

「礼には及びません。しかし」

「なんだ」

「この有り様は一体どういうことです。エルスとムングはどこですか」

 見回すと、確かにムングの亡きがらがない。彼の手で息の根を止め、その死骸へと倒れこんだはずであったが、陽炎かげろうか、それとも泡沫うたかたのように、その存在は消えてなくなっている。

「あぁ、エルスは実は亡くなった」

 記憶をたどろうとするように、額に手を当て、うつむいて、表情を隠した。

 この男は、脚本の創作と、それを役者として演じるという、困難な課題を並列してこなすことができた。アルトゥがどうやら何も知らないようであることを利用し、この場を巧妙に切り抜ければ、この娘を掌の上で転がし、あるいは使える駒に仕立てることができるかもしれない。

「事故だった。だがムングはその原因が私にあると誤解し、殺そうとしたのだ。私はエルスから秘密裏に導きを受けていて、かろうじて結界を張り耐え忍んだが、意識を失ったらしい。どうも記憶が曖昧あいまいだ」

「そうでしたか。妹があなたを術者に」

 アルトゥが妹の死に対してさほど動転しないのを、セトゥゲルほどの男であれば不審に思うべきであったろう。それは彼女の次の言葉が、あまりにも彼にとって魅力的な提案で、平常心を失わせるのに充分であったからに違いない。

「セトゥゲル様は、まだ術者としての思念を存分に引き出せないようです。私であれば、お手伝いができます」

「手伝いだと。何を言っている」

「お心にそぐわないかもしれませんが」

 やや物憂げに目線をらすのを、セトゥゲルは真っ直ぐに追った。

「まずは、教えてくれ」

「男女の交わりを結ぶのです。肉体を一つに重ね、私の思念が血を風となってめぐり、あなたの思念と交わります。その思念の強さは」

 と言いかけて、アルトゥは獰猛どうもうな一匹の野獣に押し倒された。男は、この美しい術者への激しい情念と、野心の高ぶりを抑えがたいようであった。彼女は驚いた様子を見せて、しかしあとは抵抗もなく受け入れた。

 石や木、鉄、そして肉の焼け残る悪臭のなかで、二人は交わった。

 行為の最中、アルトゥはしきりと接吻せっぷんを求めた。風の術には人体にもたらす特別な作用があるのか、口づけのたび、セトゥゲルは咆哮ほうこうしたいほどの性感を享受した。それはつまり、彼の術者としての思念の高まりにもつながっているはずであった。

 この交わりを終えたあとで、彼は三つのものを手に入れている。

 術者アルトゥ、彼自身の術者としての完全なる思念、そして彼の野心を満足させるための道のりであった。

 やがて日が天頂に達した。

 セトゥゲルの三人の腹心たちは、ムングに術を放って力尽き、彼らの上官と同様に気絶していたが、この時刻になって相次いで目を覚ました。主人を探し求めるも、すぐには見つからない。

 さまよい歩くうちに彼らが見出したのは、上官のほとんど白骨と化した死体であった。そのむくろには無数の蛆虫うじむしが湧いて、いくらか残された腐肉や体液に群がっている。セトゥゲルと分かったのは、彼が生前身につけていた衣服と指輪が、その死骸にまとうように残されていたからであった。

 彼らは彼らの忠誠の対象が幾年も風にさらされたように風化し、腐乱してはかなくなったと知り、恐怖して、逃げ散った。

 上官が一夜にして腐敗化したというのは実に不可解であったが、いずれにせよ術者の何かしらの術にさらされたのであろうことは容易に想像できた。

 三人の部下たちはそれぞれ、前線の部隊に逃げ込んだり、故郷に舞い戻ったり、あるいは放浪して、その過程で導きを施しながら、術者の眷属けんぞくの危険たることを彼らの経験を交えて語り、吹聴して回った。だが術者の危険を触れ回ることはすなわち、自らが危険な存在であることを公言することでもあった。

 術者についての伝聞は、時代を超えて世界中で語り継がれ、時に神格化され、時に戦争や災害の元凶とされて、術者狩りが一部の国で流行したこともある。生き残った術者は反撃に出て、国を一つ滅ぼしたこともある。それはまさに、エルスが滅びの鐘と表現したそのままの地獄絵図であった。

 だがそのエルスも次姉のムングも死に、長姉アルトゥやその祖父も、歴史上には一切登場することはない。忽然こつぜんと、消えた。

 セトゥゲルの部下やその導きで術者になった者たちの子孫も、代をるごとに次第に思念が弱まり、術者はおとぎ話のみの存在となった。

 後世、「術士奇譚」と称されるここまでのすべての顛末てんまつは、これから述べる戦記の時代にあっては、遠い遠い昔の、古人たちの作り上げた神話のようなものだとされている。

 ただ、この「術士奇譚」が、この戦記の時代において果たしている重要な役割が、二つある。

 ひとつは、暦である。「術士奇譚」の伝説が大陸中に広がり、誰もが知る共通言語になったことで、後世において紀元となる年とされたのである。暦は、大陸の名をとって、ミネルヴァ暦と称された。この世界に住む者であれば、皆がこの暦を用いている。

 いまひとつは、術者の子孫を称する者たちによって、新国家が建設されたことである。

 セトゥゲルの腹心にして最大の親友であったバルの直系子孫を名乗る王朝がミネルヴァ暦400年代に成立し、大陸の西南方を勢力として占めるようになった。王は無論、術者を名乗りつつ象徴的な存在に過ぎなかったが、代々、子に導きの儀をなして次代の王となし、しかもその思念は処女をもって純正とするため、王は常に女王であった。そして術者を神格化した教義を広め、女王をその頂点に置くことで民衆の忠誠を得ようとし、王朝の権力を安定化させてきた。

 要するに政教一致の宗教国家である。

 もっともミネルヴァ暦14世紀頃になるとその宗教色もだいぶ薄れ、影響はごく一部の国事行為や儀式のみに見られるようになった。

 術者が、まさにおとぎ話としてのみ扱われている時代である。

 この時代、ミネルヴァ大陸全土を巻き込む大戦が生じ、さらに想像の産物としてのみ語られていた術者が再び歴史の表舞台に姿を現すこととなる。それが陰陽いずれであれ、どのような作用を歴史に対して及ぼしていくのか。

 その過程を、振り返っていくこととする。

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