術士奇譚-③
それからちょうどひと月が
戦況はいよいよ思わしくなく、近日中に要塞まで敵軍が迫ってくると見られた。司令部では要塞の放棄さえ検討されるほどで、何しろ兵に病が広がり存分に動ける者も少なく、装備も劣弱で水や糧食も欠いている。全滅の危険を冒さず、軍をまとめて後退するのが良との説が強まりつつあった。
朝から葬式のような重苦しい雰囲気で協議するなか、その報告は門番から司令部へと上げられた。
連絡官を訪ねて、杖を持った旅装の娘たちが現れたというのである。
「娘だと。どのような娘たちか」
「先日、祖父が世話になったので、その恩返しに参上したとか」
あっ、と連絡官はたちまち蒼白となり、背中に汗が流れた。戦場で臆病であったことのない彼でも、しばしばあの恐るべき老人を思い起こし、寝所でうなされることが多い。
膝が震えそうになるのを辛うじて抑えつつ、客人と対面した。あの老人の孫娘となれば、その血を受け継いで、何らかの妖力を持っているかもしれない。祖父が自分に拷問を受けたと聞いて、あるいは復讐に来たのではないか、と想像した。
だが実際に要塞を訪ねたのは、武骨で無愛想で殺気立ったこの兵営にはふさわしくない、若く華やいだ三人の娘であった。祖父に代わって奉公したい、とのことで、純真無垢な誠意こそあれ、敵意や底意などはまったく感じられない。
内心
安堵した心持ちでよくよく見ると、三人の娘たちは実に
長女の名は、アルトゥといった。
落ち着きのあるしっかり者で、ほとんどはこの娘が窓口になって連絡官と話した。印象は控えめだが、芯が強く、妹の面倒をよく見る優しい性格のようであった。次の妹とは少し年が離れているらしく、20代の半ばかそこらであろう。
驚くべきことに、この姉妹は皆があの老人の血を分かち持っているため、やはり似たような能力を持っているらしい。アルトゥは、
「風を操れる」
と言った。風を操る、とは突飛に過ぎる話でにわかに理解しがたいが、彼女は連絡官のそうした気配にさもあらん、といった様子で、疫病に倒れた兵のもとへ案内するよう申し出た。言葉で説明するより、実演してみせた方がよいと思ったのであろう。
この要塞の地下には、牢と隣接して傷病兵の看護にあたる医務室が設けられている。だが兵力の3割までが風土病を
アルトゥはその一角に近寄り、連絡官の制止も聞かず、ぐったりと横たわる兵におもむろに口付けをした。
しばらく唇を重ねたあと、奇跡は起こった。
重い病に死にかけていた兵が、むくりと起き上がり、喜び躍り上がって、活き活きと動き始めたのである。
その力、神にも等しい。
次の兵にも、アルトゥは同じように振舞い、同じ結果がもたらされた。
彼女の治癒は病だけでなく戦傷にも効があり、患部に唇が触れると、たちまちに傷口はふさがり、骨や神経はつながって
都合、50人ほどを癒やして彼女は疲れから一晩の休息を求めた。重病や重傷であるほど、容易ならぬ治癒になるため彼女自身の体力の消耗も激しいようだ。このことから、その力はその者の体力や気力に依存するわけで、無限に使役できるわけではないらしい。
アルトゥは風の恵みを込めた息吹で、体の傷や内臓の患いなどを回復させることができる。
風を操るというと、例えば嵐を起こしたり、熱風や寒風を吹かせるなど、恐ろしい力を想像したが。
「そういったことに術を使うこともできないわけではありませんが、生まれ持った力のなかで何がどのように伸びるかは、その術者の気質によるところが大きいようです」
術者、とアルトゥは言った。こうした特殊な能力を持った人々を、当事者たちはそのように呼んでいるのだった。
「私はこのような気質ですので、風の力で人をいたわり癒やすことが好きですし、得意なのです」
慈悲深い面持ちで微笑む娘は、その大いなる癒やしの力も
穏和で控えめだが、親切でしかも頭脳
「術者の扱う術には、術式、あるいは属性と言っていくつかの型があります。私が風を操り、次妹のムングが火、末妹のエルスが土の恩恵を受けている、という具合に」
「なるほど、術式か。それはいくつあるのか」
「知る限りでは土、水、火、風、雷、氷、光の七つです」
「それほど多くか」
病や傷を治す以外にどういったことができるかと聞くと、アルトゥはふふ、とやわらかい微笑を浮かべながら、杖をとり、空中で軽く振った。
すると、彼女の正面に立っていた兵が、ふらふらとにわかに意識を失い、崩れ落ちた。強力な催眠効果のあるそよ風を術として送ったものであるらしい。彼女がまだ少女の時分に初めて会得した術で、面白がって周囲の者を片っ端から眠らせてしまい、彼女に術を授けた祖父に
連絡官はこの時には緊張がすっかりほぐれており、声を上げて笑った。物静かな印象だが、根は茶目っ気のある娘のようだ。
「私の催眠術は、風の術のうちでも初歩の初歩ですので、術者でない方々はもちろん妹たちにもよく効きますが、唯一、祖父には効き目がありませんでした。ある日、祖父が茶をたしなんでいる後ろから、気配を消し密かに風を送りましたが、うとうとともしないのです。祖父は私たちを導き、術者としての潜在的な能力を引き出してくれましたが、術については多くを語りません。恐らく祖父には術者として私たちとは桁違いの能力があり、あの人が
「偉大な祖父御をお持ちのようだな」
崩れ落ちた兵を抱え上げながら、連絡官は再び冷や汗を流した。それほどの者ならば、凡人に対してするような拷問などいくら試そうと、奏功するはずもあるまい。あの老人にわずかでも憎悪の念があれば、今頃はこの身など、指先一つ動かすだけで消し飛んでいるのではないか。
「その方は、明日の朝には起きられて、気力も体力も充実なさっていることでしょう」
聖者と呼ぶにふさわしいいたわりをもって、彼女は予言した。
これほど美しい娘が、あの枯れ木のような老人の血を継いでいるとは到底思えない。
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