無限回転エネルギー
お題
・コレクション
・非日常
・生体認証
・逆恨み
・前払い
・一点突破
・ネコひねり問題
・風邪
・暗殺
・バブみ
――
「ネコひねり問題というのを知っているかね?」
博士の言葉に、私は思わず顔を上げた。向かいに腰掛けて、蕎麦をすすりながら初老の男性は続ける。
「どうやらその表情は、初めて聞いたと言いたげだね」
どこか嬉しそうにして笑う彼を見て、私は内心「当り前だろ」と突っ込みを入れる。彼と私との間にある学歴の差は、富士山とマリアナ海溝よりも大きい。エベレストとマリアナ海溝くらいだろうか。
ともかく、私は眼前に腰掛けワサビに咽た男とは、あまりに不釣り合いなほど頭が悪いのだ。
「えぇ、そもそも問題という言葉にすらアレルギー反応が出るくらいだしぃ」
私の言葉に、彼はケタケタと笑う。何がそんなにおかしいのだろうか。
「君は本当に愉快な子だね。普段学生ばかりを相手にしているワシにとっては、非日常が感じ取れて非常に愉快だよ」
「そ、そうなのぉ?」
馬鹿にされている気がしてならないが、相手は私にとって重要な顧客――いや、金づるだ。下手に刺激するのは良くないだろう。前払いで既にデート代は貰っているとはいえ、金だけ持って握るような卑怯な真似はしたくなかった。そう考え、私は優しく彼に微笑む。
「それで、そのネコひねり問題って、なんなの?」
私の問いかけに、男はまた嬉しそうな顔をした。表情の変化度合いだけで見れば三歳児と大差ない。白ひげを蓄えて、ほうれい線がくっきりとしていて、皮膚からは水分が失われていることを除けば可愛いものだ。
「ネコひねり問題はねぇ、説明するとちょっと難しいんだけれど。まあ簡単に言うとだね、ネコってどんな高さから落としても必ず足から着地するだろう。それがどうもおかしいって話なのさ」
「どうおかしいの?」
私が問いかけると、男はニヤリと笑う。
「例えばだ。回転する椅子に座った状態で、脚を地面につけず半回転してごらん。できるかい?」
ちょうど私たちが座っている椅子が、地面に固定された回転椅子だった。私は試しに足を浮かせて体を捻ってみる。
「あ、あれ?」
「どうだ、できないだろう」
「ほ、本当だ」
目から鱗が落ちるとはまさにこのことだろう。私がどんなに上半身を捻っても、体は一向に回転してくれなかった。傍から見れば急にダンスを始めたとすら錯覚してしまうほどの滑稽な動きだ。
「本来、肉体構造上どんなに体を捻っても、半回転させることは不可能なんだ。というのも、上半身が左回転するとき、下半身は捻じれて右回転してしまうからね。結果として体の位置は変わらない。向きも変わらない。ただ上半身と下半身が捻じれただけで終わってしまう」
「でも、ネコは必ず足から地面に着地するじゃん」
「その通り。どんな高さから落としても、ネコは必ず足から着地する。体を的確に半回転させて、完璧な着地を決めてしまうんだ。これがネコひねり問題」
「すっごぉい!」
私が感心してみせると、男はさも嬉しそうに笑った。
「そうだろうそうだろう。ワシはずっとこれを研究していてな。もしかすると猫には独自の特異な回転エネルギーが備わっているのではないかと考えたのだよ」
「んん? ちょっと言葉が難しくて分かんなぁい」
こめかみを押さえて首を捻ると、彼はまた嬉しそうな顔をした。そんなにバカの相手をするのが楽しいのだろうか。
「想像してみてくれたまえ。もし、ネコを二匹背中合わせに結合して高いところから落としたら、どうなるかな?」
「え? えっと、どっちも足から着地したくて、体を捻って」
どうなるのだろう。一匹が着地体制を取ると、同時にもう一匹は逆さまになってしまう。そうなれば、また着地体制を取るために半回転を試みるはずだ。
「つまりだ、ネコの着地技術を応用すれば、重力エネルギーを回転エネルギーに変換することができるはずだとワシは考えたのだよ」
「え、すごい! それって博士が一人で考えたんですかぁ?」
「ん? えっと。あぁ、そうだよ。ワシは実はかなりの天才だからねえ。ここ数年間、ずっとネコひねり問題に対して一点突破さ。ずっとこの研究だけを続けているからね。そしてついこの前、無限回転エネルギー理論の構築に成功したんだ。この論文が発表されれば、きっと日本のエネルギー概念を一新することだろうね」
自信満々といった様子で胸を張った男は、たっぷりのワサビを蕎麦に乗せて勢いよくそれを啜った。無論、咳き込むに決まっている。彼は胸をドンドンと叩きながら、プラスチックのカップに入った麦茶をクイッと飲み干した。
「しっかりしてくださいよ?」
私はピッチャーから、黄金色の液体を彼のコップに注いでやる。もう四度目だ。頭がいい大学の博士と言えど、日常生活はこんなものなのだろうか。あまりの頼りなさに、正直げんなりしてしまう。
「ははは、いやはや面目ない。君がどうも落ち着いていて大人びているものだから、ついついこうして甘えてしまうね」
おじさんにそんなことを言われても嬉しくはない。だが、これも仕事の内だ。
「えへへ、ありがとうございます」
私は彼に微笑むと、自分の蕎麦を啜った。できる限り上品に、出来得る限り粗相の無いように。それでいて、ちょっと色っぽく見えるように。わざとらしく唇を尖らせて、わざとらしく音を立てて。
チラリと博士の方を見れば、鼻の下を伸ばしている最中だった。高校一年生の女の子にバブみを感じてしまうだなんて、とんだ変態野郎だ。この男は、その日一日私に甘えた行動ばかりとっていた。ハンカチで鼻水を拭いてもらったり、頭をポンポンと撫でてもらったり。
私が初めてパパ活をしたのは中学二年生の夏休みだった。
当時SNSで知り合ったゲーム友達の男性に誘われたことがキッカケだ。最初は向こうが「オフ会しようよ」と誘ってきても、適当に断っていた。中学になって、バスケ部が忙しくなってたこと、勉強についていけなくなったこと、両親が離婚してしまったこと。色んな理由で、私は誰とも会いたくはなかった。
しかし、夏休み初日、彼から「お小遣いあげるからおいでよ」と言われた。これをキッカケに、オフ会に参加してしまったのだ。当時の私は、夏休みに入りたてで遊ぶ金が欲しかったことや、学校の宿題から逃げる言い訳が必要だったのだろう。初めて東京行の新幹線チケットを購入し、初めて長距離の旅に出た。
母子家庭になってしまった私の家に、母はめったに帰ってこない。それも一つ追い風だっただろう。どうせ変える場所が無いのだ、と思うと一人旅も悪くない気がした。
そこで私は、電話越しでしか知らない男の人に初めてを奪われた。正直、それほど痛くはなかった。よく部活仲間と破瓜の痛みについて妄想を語り合っていたが、案外大したことは無いなと思った。また部活で顔を合わせたときの土産話にでもなるだろうなんてその日は考えていた。
ところが、現実というものは大体悪いほうに転ぶらしい。
夏休みが終わり、二学期が始まってすぐのことだった。私は部活終わりに男子から呼び出しを受けたのだ。
「ねぇ、これって君だよね?」
彼らが私に見せたのは、例の男と寝た夜の写真だった。いつの間に撮影していたのか、私のあられもない姿がスマートフォンに映し出されている。
「知らない」
私は即座に否定し、その場から逃げようとした。でも、彼らはそれを許してはくれなかった。羽交い絞めにされ、再び画面を見せてくる。
「これ、パパ活ってやつだよね? 先生に言ったらどうなるかな? さすがにまずいんじゃない?」
男子たちは皆、鼻の下を伸ばしてニマニマと笑っていた。
後日知った話だが、どうやらネットで知り合った彼は、定期的にオフ会で知り合った女の子をお持ち帰りし、その写真コレクションを裏垢で公開している人物だったそうだ。
翌日、私は風邪だと嘘をついて学校を休んだ。母親は結局家に帰ってこなかったし、頼れる人は誰も居ない。胸の内に溢れていたのは、私の気持ちを踏みにじったすべてに対する怒りだった。
私はあの男からもらったお小遣いで再び東京へ向かった。彼に直接会って文句を言うために。
また会いたいと連絡するだけで、彼はすぐに承諾してくれた。彼の指定したラブホテルに向かい、彼を糾弾する。しかし、彼はけろっとしたままだった。
「そんなカリカリするなよ。悪いのは俺じゃなくて、お前の中学に通ってる男子じゃん。逆恨みされても困るって」
悪びれる様子もなくそう言い放った彼は、私はベッドに押し倒し笑う。
「そもそも、こうしてまた俺に会いに来た時点で忘れられなかったんだろ? 嫌ならブロックするなりして逃げればよかったのにさ」
本当に最低な男だった。でも、家に居場所がなく、学校にも居場所がなくなってしまった私にとって、結局彼しか頼れる相手が居なかったというのも事実である。
それから私は、お小遣いをもらうという名目で定期的に彼と会うようになった。コレクションをこれ以上ネットに載せてほしくなければ縁を切るなとも言われてしまった手前、今更逃げ出すこともできない。
そうして彼との時間を過ごしていく中で、次第に私の貞操観念というのも揺らいでしまったのだろう。気が付けば、私はより多くのお小遣い稼ぎを求めるようになっていた。結局のところ、お金さえあれば苦労はしない。つらいことも苦しいことも、多少の贅沢でチャラになるのだ。
それに気づいてしまってから、私はより多くの男性と連絡を取るようになった。未成年というブランドはパパ活文化において非常に有用で、むしろこれまで活用してこなかった自分が愚かしく思えてしまう。
もっと早い内からやっていれば、きっと今頃お金持ちだったはずなのに。
私はむしろ、焦りすら感じ始めていた。あと三年もすれば大人の仲間入り。私に残された時間は限られている。そう思えば、より多くのデートを積み重ねるほかない、とすら考えるようになっていた。
「いやぁ、美味しかった。ごめんね、こんな店で」
博士は蕎麦湯を飲み干してからホッと一息ついて私に微笑む。
「いえいえ、私もこういう老舗のお店って入ったことなかったから、いい経験になったよぉ。ありがとね」
会計を済ませた博士の腕にそっと寄り添って、私は優しく微笑む。
「ねぇ博士ぇ、私、さっき話してたネコひねり問題の研究もっと知りたくなっちゃった。連れて行って?」
「それはつまり、ワシの部屋に来たいという意味かな……?」
男の口角がクイッと上がるのを私は見逃さない。
「うん、連れてってぇ?」
「うぅん、いいとも。お小遣いも追加でほしいのかな?」
どうやら話の分かる男らしい。私は肯定の意味でそっとウィンクした。
「ふひひ、分かったよ」
彼は私と腕を組み、真昼間の町を歩く。傍から見れば仲のいい親子だろうか。いや、東京でのパパ活はもう一般常識だ。きっと周囲の人々も、私たちのただならぬ関係に気づいたうえで知らぬふりを決め込んでいるのだろう。
それでいい。そのくらいがちょうどいい。誰も下手にかかわろうとしないこの形。むしろ問題視されることのないこの形。
有料駐車場に停めてあった博士の車に乗り込み、私はそのまま豪邸へと通された。二階建ての立派な建造物に、思わず息を飲む。
「ほら、こっちだよ。ちゃんとついておいで」
博士に呼ばれて、私は玄関先へと向かった。
「ワシの家は生体認証ロックがかけられているからね。ちゃんとワシの隣に居なきゃ、中に入れないよ」
「えぇ、すっごぉい」
素っ頓狂な声で驚く私を見て、彼は嬉しそうに笑った。
「もっとたくさんすごいものを見せてあげるよ」
「ほんとぉ? 楽しみぃ」
冗談めかして笑った私は、彼の寝室まで連れていかれる。
「ほら、おいで。いっぱい色んなことを教えてあげよう」
下心溢れる笑顔で私を迎える初老の男性に、私はゆっくりと近づいた。
「ありがとぉ。でも、博士って嘘つきだからなぁ」
「嘘つきだって? ははは、何を言うんだい。ワシは嘘なんかつかないさ」
「えぇ、本当かなぁ。だってぇ、私知ってるんだよぉ?」
「知ってるって、何を?」
私は彼にぐっと体を近づけて笑った。
「ネコひねり問題から導き出される無限回転エネルギーについて。発見したのも論文書いたのも、博士じゃなくて学生さんでしょぉ?」
「な、なぜそれを……!」
私は彼の首筋にそっとナイフを添えた。
「だってぇ、その学生さんも私のパパだから」
「……へ?」
状況が呑み込めていないのだろう。素っ頓狂な声を上げた博士を優しくなでながら、私は説明する。
「私、とってもたくさんのお金が欲しいの。やっぱりパパ活だけだとどうしても稼げなくて。だから、副業もしてるんだ。パパが一番殺してほしいって願ってる人を、代わりに暗殺するお仕事」
「まさか、ワシに近づいたのはそのためなのか」
「そうだよぉ? 私としては、博士からデート代がもらえて、学生さんからは暗殺代ももらえる。ね、いい商売でしょ? それに、悪いのは博士なんだよぉ? 人が見つけた理論を盗んで自分のものにしちゃうんだもん。そんな悪い人、死んじゃってもいいでしょぉ?」
私がぐっと力を籠めると、ナイフは彼の首筋の皮膚を薄く切った。赤いしずくが歯を伝って指まで流れてくる。
「ひぃぃ、お、お助けを。頼む、命だけは勘弁してくれ」
先ほどまで女を小ばかにした表情を浮かべていた男とは思えないほど情けない顔をしている。私があとほんの少し力を籠めるだけで、彼の命も終わりを迎えることだろう。
「どうしよっかなぁ、学生さんからは二千万円も前払いでもらっちゃってるし。その倍は出してくれないと、割に合わないんだよねぇ」
「だ、出す。倍出すとも!」
「んー、でもぉ、私に大金払ってまで博士のことを殺そうとしてる人だよぉ? 私が暗殺をやめても、また次の殺し屋が来るんじゃないかなぁ?」
「ぐ……」
「いっそ、博士が私を雇って、彼を殺しちゃう? その場合は、んー、十倍くらいほしいんだけど」
博士の喉がゴクリと動いた。
「分かった。それくらい支払おう。彼を殺してくれ」
「前払いだよ?」
「わ、分かった……」
私は博士の言葉に頷き、そっと彼から離れた。慣れた手つきでナイフを仕舞うと、優しい微笑みを繕う。
「怖かったね、ごめんね」
私は服を脱ぎながら、初老の男性に跨った。
「たくさん慰めてあげるね」
実際に殺す必要はない。こうしてパパ活相手から弱みのネタを集め、次のターゲットを程よく脅しながら大金を巻き上げる。私はただ、色んな男の間を転々としながら無事に着地するべく回転するだけでいいのだ。
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