濡れた思い出

最上丑達

1.「始まり」と「始まり」

 篠原優子は俺のクラスの担任教師だ。艶のある長い黒髪で快活な性格。正義感が強く、倫理観を重んじて、常に正論しか言わない。自分の価値観を大事にしながら、生徒を大切にしようとするアラサーの女性。俺には漫画の主人公のようだった。嫌いじゃなかった。相手が間違っていると感じたら、冷静に率直な意見を述べていく。一部の生徒や教師達からは反感を買われていたけれど、大多数の生徒や保護者達から信頼されていた。困っている人間なら誰でもその場で助けようとする彼女の人柄が評価されてのことだ。

 そんな性格だから、一緒に下校しようと俺を誘ってきたんだろう。

 俺の家庭には問題があった。俺はそんなストレスから周囲の学生とトラブルを起こすようになった。喧嘩を吹っ掛けてきた生徒達の話によると、愛想が悪いから俺を殴ったのだそうだ。

 それを聞いた時は、連中の骨を折ってやろうかと思った。

 両親や弟から家事や料理を強いられて、悪口や嫌がらせを朝から晩まで毎日受けていたら、誰だって疲れて喋れないだろう。そんな家庭環境を嫌々打ち明けても生徒達からは何の理解も得られない。教師や他の保護者達が同情するだけだ。

 優子さんは毎日俺と下校した。沢山会話をして、沢山笑った。流行りのテレビ番組や音楽、映画、ユーチューバーの話をして、声を上げて笑った。下校の時間は家庭の話を一切しなかった。

 いつの間にか、彼女との下校は俺の日常には欠かせない習慣になっていた。

「おい。翔矢」

 六月頃だ。歩道を歩く俺と彼女の前に他校の制服を着た男子生徒の集団が立ちはだかる。俺の名前を呼んだのは、そんな集団の真ん中に立っている俺の弟だった。弟は、

「お前、カノジョが出来たんか? えらい美人やんけ。え?」

「担任や。悪いけど、どいてくれへん?」

 俺の言葉なんか無視をして、連中が俺達を取り囲む。

「ちょっと、止めなさい! あんたらの学校に連絡するで!」

 優子さんの言葉を聞いて連中は笑う。偏差値の低い生徒だとか低学歴の教師だとか色々と言い放つ。現実の光景とは思えなかった。クサイ演出のドラマのようだ。

 そして、優子さんが俺の手を引いて連中を通り過ぎようとした時だった。

 弟に足を蹴飛ばされて彼女が倒れる。

 笑っている弟のツラを殴り飛ばすと、仰向けに倒れ込んだ弟の胸を殺す気で踏みつけた。

 額に怪我をした優子さんが止めなければ残りの骨も歯も全て折っていたに違いなかった。

 弟の取り巻きは声も上げずに弟を見捨てて走り去って行く。

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