第27話 夢
「失礼します」
水遊びの最中、カーラが慌てた様子で水辺を離れた。
大急ぎで上着を羽織り、そのまま体を抱えるようにして屋敷の方へと走っていく。
太陽は燦燦と輝き、寄せては返す波は静かで澄んでいる。
アデラ様はさっき血を吐いたのが夢だったかと思うくらいで、軽く体操をしていた。
僕やアンジェリカ、クリスティーナは腰くらいまでの深さの場所で、軽く泳いでいた。僕たちの周囲では水底をゆらゆら揺れる黄金の網の上を、黒い魚の影が滑るように進む。
その直後、突如としてクリスティーナの水着の紐が裂ける。トップスが堕ちそうになり、彼女は慌てて手で押さえた。
肌が見えた、なんて思う間もない。それだけじゃ終わらなかった。
水面が裂け、中を泳いでいた魚とその影が真っ二つになった。
澄んだ水を血で濁らせながら、胴体を輪切りにされてぷかぷかと浮かび上がってくる。
マギカ・パブリックスクールでもあった風の魔法による襲撃。でもその時と違って。魚とはいえ一つの命が死に、血を見た。
普段無表情で死んだ魚のような目をしているクリスティーナが、トップスを押さえたまま顔色を真っ青にしている。
「皆様がた!」
真っ二つされた魚を見たアンジェリカの声で僕らは我に返った。
革製のベルトを巻いた太腿から差し込んでいた杖を取り、周囲を警戒する。だが周りに犯人らしい人は見当たらない。
この場にいない使用人の人たちにも手伝ってもらって辺りをくまなく探してもらったけど、犯人は見つからず僕たちに頭を下げて屋敷の方へと戻って行く。
僕らも、杖を握る手から力を抜いた。膝の高さくらいの水面に下げられた杖の先が触れる。
「マギカ・パブリックスクールでもありましたけど…… クリスティーナさん、こんなことはしょっちゅうですの?」
「嫌がらせくらいなら。でもここまで危険なのは初めて」
クリスティーナの持つミズナラの杖の先が震え、触れた水面に波を描く。
そんな中、らせん状に整えられた栗色の髪の先から水を滴らせ、カーラが戻ってきた。
「お屋敷の方でもただならぬ雰囲気でしたけど…… なにがあったんですか?」
何食わぬ顔で、何も知らないという表情をして。
「カーラ、怒らないで聞いて」
濃紺の水着からはみ出た肩が震え、眼に恐怖の色が宿る。
僕はどんな顔で、この小さな少女を問い詰めたのだろう。少し頭が冷えて、口調を柔らかくして続く言葉を口にする。
「今まで、とこに行ってたの?」
僕は真剣に聞いたつもりだったのだけど。カーラは顔を真っ赤にして体を抱きすくめて僕から眼を逸らせる。
「お花摘みです」
肌を刺すような空気が一変、気まずい雰囲気になった。
僕をじっとりと見る三対の視線が痛い。すごく痛い。
「と、とりあえず、上がろうか」
水着を着替えて屋敷に戻る。
堰切って玄関に駆け付けたアルバートが、クリスティーナの顔を見て安堵の息をもらした。
「話は聞いたよ。クリスティーナさん、怪我はなかったかい?」
結局、あの後も犯人は明らかにならなかった。
帰るまで、アールディス家の護衛を何人かつけてくれるらしいから当面は安心だろうけど。
夕食を食べて、床に就いてからも頭の中は今日のことでいっぱいだった。
王都から離れたこんな場所でまで襲撃するなんて。犯人は誰だ? そもそも一人なのか? どうして、クリスティーナを狙う?
考えが頭の中をぐるぐると回って、不安ばかりが増していく。
ひょっとしたら…… 犯人は意外と近いところにいる、とも言う。
アルバートか? あの場にいなかったのはカーラだけじゃない。でも。
「それはありえないか……」
彼の使う魔法は火属性だ。魔法はどんな人間でも、一人一系統しか使うことはできない。
最上位魔法の使い手でも例外ではない絶対のルールだ。
となると、もう一人か? 初めてクリスティーナと出会った時の態度を思い出すと、ありえない話じゃない。
今日は証拠はあがらなかったけど、可能性はゼロじゃない。
でもクリスティーナが信用した子だ。いつも死んだ魚のような目をして、他人に心を許さない。そんな彼女がカーラはいい人だ、と言っていた。
考え事をしているとだいぶ時間が遅くなったので、僕は床に就くと強引に眼を閉じた。
その夜、僕は夢を見た。
アンジェリカの屋敷とは比べ物にならないほどに狭く、壁紙は黒ずんでおりドアは開け閉めするたびにきしむ。僕の実家の屋敷。
部屋に置かれた古びた調度品も、芸術的価値のあるものは一つもない。
ああ、これは夢だと分かる。
悪夢とわかっているのに目が覚めない。夢の中でさえ、自分の思い通りにならない。
「最上位魔法を使いたい、だと?」
拳が幼い僕の顔を捉える。吹き飛ばされ、転がり、家具の椅子が部屋の壁にぶち当たる。
「身の程を知れ、この痴れ者が。貴様は私の跡継ぎとして、万事そつなく波風立てずにこなせば良いのだ」
「お父様、やめて……」
「お前も私に逆らうか、ヴィオラ!」
生まれて十年もたっていない彼女にすら、彼の拳は向けられた。
でも逆らえない。
僕がこれ以上反論したり、拳を振り上げれば彼女はもっとひどい目に遭わされる。
僕は拳を握りこんで、爪を皮膚に食い込ませ、唇を破れんばかりに噛み締めた。
痛みが怒りを抑えてくれる。
僕はこの痛みと、顔を腫らした妹と、暴力を振るう相手に誓った。
必ず最上位魔法を習得して、父親を足元に這いつくばらせてやる。
そして、誰もが崇める英雄になってやる。
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