第9話 お礼とおかわり

「先ほどは、申し訳ありませんでしたわ」

 開口一番、アンジェリカは頭を下げた。

 あのすぐ後にアンジェリカの使いを名乗る使者が現れて、僕たちをこの店に案内した。

 燕尾服を着たスマートな立ち居振る舞いに完成されすぎた怪しさを感じたけれど。

 公爵家の家紋が入った書類を見せられたので、よだれを垂らしそうなクリスティーナと一緒に彼の影を踏むように後を追った。

 茜色に染まった石畳の大通りをまっすぐ東に歩き、少し込み入った通りに入ったあたりで彼は店ともつかない店に入っていった。

 外観はごく平凡な石造りの建物で、壁がくっついているかと思うほど密集して立ち並ぶ平民の家と大差ない。

 だが黒ずんだ木製のドアを開け、金管楽器のような音のドアベルが鳴るとそれまでの認識が一変した。

「すごい……」

 クリスティーナがそう感嘆の声を上げるほど、中は公爵家令嬢に相応しいものだった。

 光沢があるほどに磨き抜かれたローズウッドの床。

 天井には金の鎖で吊るされたランプ。

 壁は赤味がかった床板と調和する色遣いの絵が飾られ、まるで美術館だ。

 テーブル同士の間隔は広めで、大声を出さない限り会話が聞き取れないよう配慮がされているようだ。

 実際店内には純白のテーブルクロスが引かれた丸テーブルに何組かお客がいるけど、耳をそばだてても会話の内容はわからない。

 燕尾服の人は流れるような動作で僕たちを店の奥まで案内し、他のテーブルから一際離れた場所で立ち止まる。

「こちらです」

 他の席とは明らかに別格ということがわかるテーブルに、制服のマントを脱いだアンジェリカがいた。

 アンジェリカの謝罪以降、テーブルを囲んでいるというのにしばらくは会話が無かった。

 紅の髪の彼女は慈母のような表情で紅茶をすすり、クリスティーナを慈しむ。

 クリスティーナはそれを尻目に、金属の支柱で皿を三段に固定したティースタンドからサンドイッチやスコーンをつまんでいた。

 普段の死んだ魚のような表情が嘘のように、目を輝かせて食べていく。そんな水色の髪の少女を見て、許嫁の彼女が笑えているのを見て、思わず笑みがこぼれる。

 あれだけ食べて太らないのが不思議で仕方がない。まあ、体の一部分は太っているけど。

 ティースタンドに手を伸ばすたびに、制服の下の体の一部が右から左から、押しつぶされていく。

 アンジェリカは上品そうにキュウリの挟まれたサンドウィッチを一つだけ口に運び、ゆっくりと咀嚼した。

 僕もバターの焼き跡が黄金のように輝くスコーンを一つ、頂く。

 サクサクと香ばしいお菓子を噛み締めるように味わう。焼き加減が絶妙なのか、普段食べるスコーンと違って冷めても歯ごたえが心地よい。

 美味しいものを食べると心が和む。

 天幕の下よりもだいぶ空気が柔らかくなったところで、アンジェリカが話を切り出した。

「そろそろ、本題に入りますわね。許嫁とは、ど、どのように過ごすものなのかしら?」

 音の外れた銀笛のような声が、絵画の飾られた部屋に響く。

 美人だけど恋愛に関しては、経験がないことが伝わってきた。少しだけ優越感を覚える。

「そうだね……」

 どう言ったらいいものか。相手が体験していないことを説明するのは難しいし、苦手だ。

 考えていると、珍しく、とても珍しく。

 クリスティーナが口を開いた。

 「一緒に登校したり、一緒の寮に住んでるから勉強したり」

 赤髪の下の切れ長の瞳が僕たちと合う。と思うと、すぐにふらふらと動揺した。

「ご飯を食べたり、お昼を作ったり、お菓子を食べたり、露店に食べに行ったり」

 そこまで聞いて、アンジェリカがいつもの調子を取り戻したかのように笑った。

「食べてばかりではないですの」

「でもだいたいこんな感じ。普通の恋人と大差ないと思う」

「そうなのですの?」

「年頃の男女が一緒にいれば、やることは大体変わらない」

「やること…… そうですわよね」

 妙になった雰囲気を誤魔化すために、僕は露骨に話題を逸らす。

「それはいいけどさ。さっきの子たちにアンジェリカと同席してることがばれたら、色々面倒なことになりそうなんだけど。大丈夫?」

 ちらちらと入り口の方を窺う。

 店の入り口にある木製のドアが音もなく開くたびに、知り合いじゃないかと気が気でなかった。

「カーラさん…… 悪い子ではないのですけど。貧しき者にも手を差し伸べるし、教会へは足しげく通いますし」

「そう」

 クリスティーナは反発する様子すら見せず、三つ目のスコーンに木苺のジャムとクロテッドクリームを塗って口に運んだ。

「それに心配には及びませんわ。この店は人目を忍んで会うための店ですから、入り口も大通りから離れ、隠された場所にあったでしょう?」

 それなら、一安心か。

 僕の表情を見て、アンジェリカは少しいたずらっぽく笑った。

「なのでこの店は身分違いの恋から浮気相手との逢瀬、人には言えない商取引などに使われておりますの」

 僕は口に含んだ紅茶を吐き出しそうになった。

 いつもたおやかで微笑の絶えないアンジェリカから、こんなネタがでるとは。

「わたくしだって女ですもの。経験はなくとも、火遊びに興味くらいありますわ」

 火属性魔法の使い手の証、ヒノキの杖を撫でながらアンジェリカの喉が銀笛を奏でる。

「それで、アンジェリカに縁談って相手はどんな人なの?」

「帝国と親交のある、西の方に領地を持つ貴族、と聞かされておりますわ」

 帝国か…… 魔法の発祥の地であり、王国の数十倍の領地を持つ海を隔てた国。アンジェリカの家は公爵家で、彼女は現国王陛下の姪に当たる。

 大人の事情というやつで、帝国とつながりを持ちたいという狙いだろうか。

「そんなことより、人柄などが気にかかるのですけれど。お優しいとか、勇敢とか、誉めそやす言葉ばかりでかえってわからなくなってしまって。最近、甘酸っぱい期待と黒い不安が交互にやってきて、軽く躁うつ状態ですわ」

「でも私の時より、まだいい方かも」

「クリスティーナさんの時は、どのように?」

「相手、ヴォルトの情報なんてほぼなし。決められた日時に決められた服を着せられて、決められた相手と親同伴で話すだけだった」

 淡々としたクリスティーナの口調が、僕の胸を切り裂く。ランチの時に見せてくれた笑顔を思い出し、それが偽物だったのかという不安にかられた。

「でも相手がヴォルトで良かった」

 全くさっきと変わらない、淡々とした口調。でもそのたった一言に、心がすっと楽になる。

「彼のどこがよかったのですの?」

 アンジェリカが身を乗り出して食いついてくる。動いた拍子に、赤髪ロングヘアーがかぶさった胸が揺れた。

 クリスティーナが腕を組み、わずかに視線を落とす。

 そこでは運河の水流を思わせる水色の髪が、流れを変えていた。

 これまでいただいてきた多くの命が詰まった胸元は、赤髪の少女とは比べ物にならない存在感を放っていた。

 クリスティーナが視線を上げ、アンジェリカと目が合うとゆっくりと口を開く。

 期待と不安で、僕は胸が揺さぶられるのを感じた。彼女の口からそう言った話題が上がることは滅多にない。

 唇が開いていく動きさえ目に取れた。雪兎の毛並みのように白い喉が言の葉を紡ぐ。

 雪兎が鳴く前に、僕と一瞬だけ目が合った。

「出会った瞬間は、気持ちがぐちゃぐちゃでよくわからなかった。何を話したかも、覚えてない。でも、それから…… これ以上は、秘密」

 クリスティーナは弾かれたように眼を逸らし、呟く。

「私とヴォルトの話だから、参考に、ならないと、思う。アンジェリカと縁談をする相手と、会ってみない、ことには」

 アンジェリカは、肩透かしを食らったのか苦笑していた。でも僕は、これで十分だと思った。

「そうですわよね……」

 アンジェリカは冷めた紅茶に、白い砂糖壺から取り出した角砂糖を入れた。

 砂の城が崩れるように、紅茶の中でゆっくりと角砂糖が溶けていく。

「だからわからない。会って一目で気に入るかもしれないし、会った直後は気に入らなくても時間をかけて好きになって行くかもしれない。時間をかけてもっと嫌いになるかもしれない。結局は親次第かも。いい相手を見つけてきてくれるかどうか」

「クリスティーナさんは、どうだったのですの?」

「私は、父親のことがあんまり好きじゃなかった。だからはじめはヴォルトのことも信用してなかった」

 クリスティーナの目が死んだ魚のようなものに戻る。

「アンジェリカはどう?」

「お父様のことも、お母様のことも、大好きですが……」

「そう」

 声にわずかな険が混じるが、アンジェリカがそれに気づいた様子はない。

「なら大丈夫だと思う。家柄とか政治がらみとか、公爵家なら色々面倒なことはあるはずだけど。お互いにうまく行っている親子なら、いい人を選んでくれるはず」

「そう…… ですわね。ありがとう、クリスティーナさん。少しだけ安心しましたわ」

「礼はいい」

 突き放すような口調に、空気がぴりぴりする。

「お礼より、お代わりが欲しい。こんなお菓子、滅多に食べられないから」

 いつの間にかティースタンドの上はすっかり空になっていた。

 アンジェリカは苦笑して、机の上の呼び鈴を鳴らして給仕を呼んだ。


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