第4話 もう一歩

午前の授業が終わり、ランチの時間になる。


 昼休憩を知らせる鐘の音が、教会の鐘楼から王都中に響き渡っていた。

 

 マギカ・パブリックスクールだけでなく、王都ではこの鐘の音を合図に役所も店も、一斉に昼休みとなる。


 僕はクリスティーナと一緒に中庭の隅の古ぼけたベンチに腰を下ろした。


 腐りかけた木は、二人が座るとぎしぎしときしむ。


 校舎の影になり、風通しがよくなくてあまりいい場所とは言えない。実際、周りには僕たち以外の生徒はいなかった。


 でも教室はもっと彼女が嫌がる。だからなるべく人目が少ないところで食べることが多い。


 一方、少し離れたところに広がる中庭には牧場のように青々とした草が茂る。地面にハンカチやシートを敷いたり、板を組んだベンチに腰を下ろしたりして食事をとる生徒が多く見られた。


 そうやって僕たちの他にも友達同士、恋人同士で座って思い思いの時間を過ごしている。


 中庭の中央には、黒曜石で作られた大きな板のような形をしたモニュメントが鎮座する。


 周囲とはまるで別の空間であるように綺麗に掃き清められ、色取り取りの花も添えられていた。


 クリスティーナはいつもと変わらず僕と体一つ分の間を開けて座っている。汗ばんだ彼女の体からは制服のブラウス越しに甘いミルクのような香りがした。


 でも死んだ魚のように感情を映さない瞳で、僕や中庭をぼうっと見ている。


 きしむベンチの上にハンカチーフを敷き、その上に座って弁当を入れたバスケットとハーブティーの入った水筒を二人の間に置く。


 一緒に登下校して、一緒にランチを食べるこの習慣。


 マギカ・パブリックスクールに入学してから、ずっと変わらない。


 クリスティーナの方を見るために体をひねった途端、ユーリに突かれた腹に鋭く痛みを感じた。


 バスケットに伸ばそうとした手が止まる。


「……大丈夫? やっぱり、まだ痛む……」


 いつも死んだ魚のような目をしているクリスティーナの表情に陰が差した。


「みっともないところ、見せちゃったね」


 僕は口角を上げて目元を緩ませる。


 クリスティーナが嫌な気持ちにならないよう、頑張って笑顔を作った。


「別に、気にしてない。それにヴォルトは、最後に一本取った」


 いつもと全く変わらない仕草で、クリスティーナは淡々と言う。


 瑞々しい草の香りがする風で、彼女の水色の髪が麦穂のようにそよいだ。

 その姿を見ているとかえって不安になる。


 内心では僕に呆れてるんじゃないのか。そういう妄想に時々ひどく取りつかれることがある。


 許嫁といっても親が決めただけの関係だし、キス一つしたこともない。


「アルバートやユーリ相手に一本取れる男子なんて、なかなかいない。すごいと思う」


 誉め言葉なのに、あまり感情を感じさせない口調。彼女の個性と言っても良い。


 僕をバカにしたり怒ったりしたことは一度もないけれど、逆にひどく不安になる時がある。


「はい」


 クリスティーナは藤の蔓で編まれたバスケットを開け、僕にベーコンのサンドイッチを差し出した。


 厚い肉に振られた胡椒の黒い粒。少し体が痛くても、十分に食欲を刺激してくれた。


「難しい顔しないで。嫌なことがあった時は、食べるのが一番」


 こころなしかいつもよりお互いの距離が近く、僕は恥ずかしくなって暗闇に身を委ねた。


 目をつむって、唇にパンの感触を感じたら口を閉じる。


 肉汁と脂の甘み、胡椒の粒を噛んだ時の辛さが幸せを運んでくる。噛み、味わい、飲み込む。そのたびに心が満ち足りていく。


「やっと、いい顔になってくれた」


 目を開けると、クリスティーナが笑っていた。


 布に包んだ林檎のような頬を、流れるような水色の髪の毛が撫でる。水色の瞳が日を映す運河のように潤んでいた。


 そして、黒い制服のスカートからのぞく真っ白な太腿。


 可愛い。


 滅多に見られない彼女の笑顔を見ると心に灯がともる。


 僕は努めて笑顔を崩さないように気を付けて、残ったサンドイッチに手を伸ばす。


 今日はチーズ、ベーコン、トマトとレタスの三種類のサンドイッチを作ってくれていた。


 僕はベーコンの、クリスティーナはトマトとレタスのサンドイッチから食べる。厚めのパンにはさまれたサンドイッチを食べるために、彼女は恥ずかしそうに大きく口を開いた。


 水色の髪の少女は、好物を食べるときには顔がほころぶ。


 白い指についたトマトの果肉を、彼女は別のパンでそっと拭った。


 クリスティーナは意外と食いしん坊だ。


 それにトマトが好きで、薄いパンより厚いパンを好む。


 みんなクリスティーナと許嫁になった直後には、知らなかったこと。


 でもまだわからないこともある。


 許嫁になって数か月は今よりずっと表情が乏しくて、思い切って聞いてみたことがある。


『クリスティーナ。僕と婚約して、嫌だった?』


 彼女は表情の変化に乏しいし、感情の動きがつかみづらい。遠回しな言い方では伝わらないと思って、直球で質問した。


 彼女はそう聞かれた時、初めて水色の瞳をしばたたかせて、少し早口になった。


「そんなこと、ない」


 正面から僕の目を見て、まっすぐな言葉を返してくれた。それが嬉しくて。


 それ以降、こんな野暮な質問はしていない。


 でも時々、水面にさざ波が立つように心がざわつく。


 彼女は僕のことを好きでいてくれるのかどうか。


 大して格好いいところを見せられない僕が、彼女と添い遂げる資格があるのかどうか。


 少しだけ勇気を出して、彼女の右手に指先を触れる。夏でも冷たさを感じるクリスティーナの手が僕の心を熱くした。


 そのまま彼女の手を握ろうとする。だけど僕が力を込めた途端、熱い鉄に触れたように、クリスティーナは右手を引いてしまった。


 そのまま自分の胸に抱きかかえるようにして、僕から体を背けてしまう。


 僕に背を向けたまま、クリスティーナはじっと手を抱きしめるようにして動かなかった。


 彼女の気持ちに自信が持てなくて、もう一歩が踏み出せない。

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