司会者 田口雄一郎は熟考す。
うっさこ
司会者 田口雄一郎は熟考す。
暑い。このスタジオのスポットライトは暑いんだ。
目の前でパネラーの一人が長尺の熱弁に入っている。
返しのモニターには、男の顔が映し出され、一番のシネカメラには赤ランプが点いている。
毎回思うことであるが、この番組は収録前は本当に気が重い。胃が痛いというか、重いというか。気が滅入る。まるで真夏の様に、スポットライトが、冷房すら回しているスタジオを煌々と照らしている。それでいてパネラーたちが長尺を語りだすと、この対談座席周辺の温度は、体感では二度か三度は上がっている。
返しモニターの向こうで逆光になってよく見えないが、ADが綾取りを引いている。インカムの向こうにいるディレクターはこの男がお気に入りのようだ。
確かに、仕事のない夜に居間のソファーに横になりテレビを見ていると、この男の顔が何度か目に入った気がする。確かに舌はよく周り、人に暫くの間は話を大人しく聞かせるような語り方がある。
だがそれはこのスタジオの中でなければの話だ。とにかく暑いのだ、スポットライトが。その中で長尺の語りというのは、その暑さをより引き立てる。
男が座っている位置も悪い。私の
パネラーに良くある傾向だが、話している時は常に放熱をしている。だから照明を受けていても、余り気になっていない節がある。つまりこの暑さにはトバッチリも含まれているわけだが、ADが綾取りをしている以上、まだ暫く喋らせておくのだろう。
外は雪が降っている。それも積雪となるだろう東京では年に一度あるかどうかの雪だ。局に来る前は腰に来るような底冷えが嫌でたまらなかったが、未明に行われているこの生放送で、恐らく真夏と真冬を両方体験できるというのは稀有なことなのだろう。
来年で米寿にもなろうという身体には、たまったものではない。同世代では脱水症状も、凍傷も、生命に関わる大変な問題だ。
実際、汗が吹き出るようなこの体感温度に、脈拍は上がりつつある。原因はこの長尺の語りだ。目の前の男、まだ喋り続けるつもりらしい。
ふと、シネカメラの赤ランプが一番から消える。返しのモニターに目を落とせば、三番へ移ったようだ。映像には男の対面に位置する
だが当人に目を向けると、それも今は口をつぐんで大人しく男の長尺に耳を傾けている。今にも口を開きそうな表情をしてはいるが、目は対座の男をしっかり見据えている。
私が見ていることに気づいたのか、女は私の顔をちらりと一瞥する。一瞬の目の動きだが、その目はすぐに、男の方に戻る。
どうやら、まだの様だ。
発言したい内容がまだ頭の中で固まっていないのだろう。更に他のパネラーを見渡せば、男の言っている内容を理解しているのか、していないのか割れているようだ。フロアADに目を送るが、とりあえず綾取りは止めたようだ。こちらに任せるという意味だろう。
ここは一つ、場の空気を変えてみる事にする。
男の前に左手を掲げ、右手を女へと送る。
男は一寸、言葉を止める。シネカメラの赤ランプが一旦、二番に移り、そして一番に渡る。返しのモニターには、口をつぐんだ男の表情が映っている。
もう一度、右手を
女はこちらをハッキリと一瞥し、戸惑う表情を見せる。が、三番の赤ランプが点灯する頃には引き締めた表情で口を開いた。
これでいい。脚光照明は
意を決めた女が話し始める。どうやら今の数秒の間に話すべき言葉を組み立てた様だ。長尺の間に気になる内容が幾つかあったと見える。話し始めれば簡単なもので、振られるのを躊躇するパネラーも、実際に話し始めれば雄弁となる事はままある話だ。
場の体感温度もだいたいこれで二度程度は下がる。それが長尺になるに従って徐々に上がっていくのだ。
ふと視界の横で一番のシネカメラの赤ランプが点灯する。返しのモニターには
横目で見る返しのモニターの中で、男は、女の語りを大人しく聞いているものの、今直ぐにも喋りだそうとしている。
左手を上げてそれに釘を差しておく。まだ戻すには早い。心の汗もまだ引いていない。
それに安堵したのか、女の舌調子が僅かに軽くなる。エンジンがかかってきたようだ。問題は何処まで続けるか、であるが、今の所の裁量権は、まだこちらにある。体感温度が変わるまでもう少し涼ませてもらうとする。
視界の奥で一番カメラから赤ランプが消える。返しのモニターには女の顔が映っている。どうやら三番カメラへ移ったようだ。
この番組は毎度思うことであるが、実際に視聴者が求めている映像というのがわかりにくい。人気のパネラーに長尺を喋らせていれば、他のパネラーが拗ねて退屈しだすし、かと言って無理に話を振れば、まともな事も言えずに短尺で進行が止まってしまう。
実際、今、
同じ様に
そんな胸中を察してか、視界の奥で中央二番カメラに赤ランプが付く。
返しのモニターには確かに右隣に女が写っている。錯覚でもなく幽霊というわけでもない。確かにそこに居る。
実際に横目に見てもたしかにそこに居る。だがとにかく存在感がない。
カメラの赤ランプが一番に戻る。左隣の男が返しのモニターに映る。
ほんの少し目を話している隙に、どうやら相当溜め込んでいるらしい。アレだけ長尺で話したというのに、もう満充電の様だ。
仕方無しに、左手を送る。男はそれを合図と受け取って、とたんに喋りだす。
男に顔を向けると視界の奥で三番カメラの赤ランプが点灯し、返しのモニターに男のアップの顔が映り込む。漏れた脚光がこちらにも当たり、モワッとした光源の熱量が襲いかかる。
視界の奥で、
今、話し始めたばかりなのに、そちらに振れるわけがない。が、秩序を失う危険性を抱えながら進めるのにも問題がある。
左手を掲げる。話し始めたばかりで申し訳ないが仕方がない。右手を
一際荒い声が、場内に響く。随分と溜め込んでいたようだが、この場にあった内容なのかはまだ疑問が残る。
割と馴染みの男だが、名前は失念してしまった。論客としては声が大きく、とにかく声が大きい。話もスケールが大きく、論点を蒸し返しがちな所がある。
実際、体感温度は蒸し暑さの肌触りになり始める。予想できた事だった。
フロアADが糸を巻き始める。サブコンのディレクターも、お気に入りの論客の発言を止められた事を快く思っていないようだ。それを反映するように三番カメラの赤ランプが点灯し、返しのモニターには左隣の男の表情が写っている。
照明の漏れた光が、場の空気も、こちらの体感温度も上げていく。
突然、
本当に唐突であった。目を離していた隙に何を溜め込んでいたのか、演説中の
この男は表情や仕草にでないタイプなのか。流石に予兆を見抜けていなかった。見渡せば、パネラーの数人が苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。
シネカメラの赤ランプが一番と三番を目まぐるしく入れ替える。
映っているのは
どうやら、済んだ話を蒸し返すような、
だが、漸く得られた演説の機会を遮られた
右手を掲げて一旦話を止める。そして左手を
男は深いため息をつく。そして息を吸うと、
コレはあまり良くない傾向だ。完全に進行を誤った。
フロアADがカンペに何かを書き込んでいる。恐らく、CM送りだろう。これは仕方がない。
サブコンでディレクターが慌て、プロデューサーが頭を抱えているのが想像できる。だが直ぐには送れない。
ある程度放熱を済ませないと、CMを挟んでも場を復旧できないことも大いに有り得る。
その前にフロアADがカンペを書き終えてCMに一旦送られる方が早いだろう。だったらそれまではある程度叫ばせておく方が、後に立て直しを図りやすい。
一番のカメラの赤ランプが点灯する。返しのモニターには左隣の男が物言いたげに顔を歪めているアップが映し出される。
その直後、カンペを書き終えたフロアADがそれをこちらに向ける。
やはりCM送りであった。問題はタイミングだが、見極めが難しい。
フロアADがカンペを膝で固定し、糸を巻いている。三番のカメラの赤ランプが点灯し、返しのモニターに自分の顔が中央に置かれ映し出される。
左手を掲げ、話を止める。一抹の不安が残るが、CM明けに立て直しを図るしか無い。話を止められた
「一旦、CM。」
軽快なSEが鳴り響く。返しのモニターにはスタジオの引きの絵が映った。
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